第11話 憂うつの日

 月のものがきたのである。

 十二歳の年から、わたしは毎月、この月のものにうなされる。

 わたしは、この月のもので、気分なり感情なりはあまり影響を受けないのだが、痛みが強いほうなのである。

 その日は、わたしは痛みで動くのも億劫になり、痛み止めのロキソプロフェンを内服し、朝から布団で背を丸めて横になった。幸いなことに、今日は仕事は休みだった。

 ロキソプロフェンは、十の痛みを三くらいにしてくれるのだが、いかんせんわたしは眠くなってしまう。他人には処方するが、わたしは自分が薬を飲むのが好きでない。わたしの身体は過敏で、わずかな量でも反応してしまう。中学生の頃、修学旅行の際に酔い止めを飲んだら、旅行中に半日寝倒してしまったくらいである。

 まどろみの中で、思い出すのは、過去のことである。ただ、まとまったエピソードというよりも、断片的な映像が、ショートフィルムみたいに、次々と脳内に映し出されるのである。


 母の後ろ姿が見える。

 わたしは、小学生の高学年頃だろうか。熱を出して、布団に横になっている。

 母は、その頃飼っていた猫を抱きながら、ベランダに立って、こちらに背を向けている。小一時間、ぼんやりと、ただ、そこに立っている。

 わたしは、なんとなく、その母が、わたしのことも、抱いている猫のことも忘れて、何かまったく別のことを考えていると思い、唐突に心臓をえぐられたような不安を覚える。身を縮こませ、駆け寄って抱きしめたいが、拒絶されたらどうしようと思い動けず、そのまま、茫洋とした母の後ろ姿を、ただ眺めることしかできない。

 続いて、映像のわたしは、中学三年生になっている。卒業式を控え、春休みに入り、わたしは、母とリビングでソファに座っている。わたしは右端、母は左端である。わたしは、テレビのバラエティ番組を見て、母は、折りたたんだ新聞を手に、コラムを読んでいるようである。

 唐突に母が、


「あ」


 と口にする。


「なに?」

「夕食にパスタ作ろうと思ったけど、トマトジュースがないわ」

「買ってこようか?」

「いいわ。牛乳とヨーグルトも少なくなってるから、ついでに買ってくる」


 そう言って、母は、財布を手に取り、玄関から外に出ていく。

 夜になっても、帰ってこない。わたしは、心配になる。母の携帯電話にかけると、背後の台所から着信音が聞こえる。母は、携帯電話を持って行かなかったのである。

 父の携帯電話にかける。父は、


「そのうち帰ってくるだろ」

 

 とだけ言って、電話を切る。

 すでに午後十時を回るころ、父が帰ってくる。母はまだ帰ってきていない。


「警察に連絡したほうがいいかな」

「そんな、大げさな」

「でも、おかしいじゃん」

「時々、いとこ同士で集まって、地元で泊まってきたりしてたじゃないか。あるいは、急に旅行に行きたくなったとか」

「荷物も何も持たずに?」

「人間、何も持たなくたって、どこかには行けるもんさ。そんで、旅は、急に思い立って行きたくなるものだよ」


 腑に落ちないが、その日はそのままやり過ごす。

 しかし、三日経っても、母は帰ってこない。わたしは、いよいよ動揺して、父を急かす。


「そうだな。たしかに、様子がおかしい」


 父は、上着を着て、仕事用の鞄に、財布や携帯電話を突っ込み、玄関で靴を履く。


「俺が母さんを探してくる。警察にも連絡しておくから、夢子は、ここで待ってろ」


 そう言って、父は出ていく。

 ドアが、余韻を残してバタンと閉まる。

 そして結局、父は、その夜帰ってこない。

 わたしは、部屋中の明かりを付けたまま、一睡もできずに、不安に塗れた一夜を明かす。

 翌日の昼過ぎ、玄関から鍵を開ける音がする。

 帰ってきた、と玄関に行くと、そこには、父でも母でもなく、父方の祖母が、大きなスーツケースとともに、立っている。祖母は、年齢のわりにとても姿勢がよく、すっと立っている。


「おばあちゃん……」


 祖母は、何も言わず家にあがり、リビングでスーツケースを開いて、中から着替えを、一枚一枚ていねいに、取り出していく。


「ごはんは食べた?」


 と祖母が言う。


「食べてない」

「いつから?」

「昨日の夜から」

「そう」


 祖母は立ち上がり、冷蔵庫を開けて、点検するみたいに、人差し指を動かして、中にある物を確認する。

 祖母は、エプロンを身に着け、台所に立ち、自分が持ってきたまな板と包丁を取り出す。そして、湯を沸かしながら、ジャガイモを洗い、皮を剥き始める。

 わたしは、椅子に座って、黙ってその様子を見ている。


「あなたも大変ね」


 祖母がつぶやく。


「でも人にはそれぞれ事情があるから、責めてはだめよ。今日からはわたしが、あなたの生活を守るから。安心なさい」


 わたしは、わたしが知らない何かが起きたことを知り、でも聞くことはできず、うつむいて、涙ぐむ。声をあげずに、肩を揺らす。

 

 とそこで、映像は終わる。

 わたしは、まどろみから、ゆっくりと、覚醒に導かれる。

 いつの間にか、寝てしまっていた。時計を見ると、午後三時を回っていた。四時間ほど寝たことになる。今夜は寝られないかもしれない。

 気が付くと、目元に水分が滲んでいた。まどろみの中と同様、現実のわたしも、少し泣いたようである。そんな自分に驚いた。まだ涙を流す感性が残っていようとは。ドライアイと自覚して久しいのに。

 わたしは、のそりと起き出した。身体は気だるかったが、痛みは午前中よりもましになっていた。

 わたしは、冷蔵庫を開け、バナナを一本手に取り、皮を剥いて、食べた。そして、洗面所に行き、歯ブラシに歯磨き粉を付けて、それを口に入れた。

 歯を磨きながら、なんでかなあ、という言葉を、脳内に浮かばせた。


 なんで、父と母は、わたしを置いて行ったのだろう。


 わたしを捨てた、と言うつもりはない。そういう意識はないんじゃないか。

 ただ、あの時、わたしよりも優先すべき何かが、それぞれにあったのだろう。

 わたしより優先すべき何かとは、いったい何だったのだろう。

 

 わたしは、急に脱力して、その場にしゃがみ込み、それでもなお、歯を磨き続ける。心なるものに、雨雲が覆っていくのがわかる。目元に再び、水分が滲み始める。

 ふと、電話の着信音が聞こえた。

 わたしは立ち上がってリビングに行き、スマートフォンの画面を見ると、亜斗夢からだった。


「もしもし」

「もしもし」

「今日、来なかったから。どうしたのかなと思って」

「ああ……ごめん。体調悪かったからさ」

「体調?夢姉でも、体調悪くなることなんてあるの?」

「そりゃあ、サイボーグじゃないからね」

「近いものだと思ってたよ」


 亜斗夢が、電話の向こうで笑った。


「仕方ない。今日は一人で、モールを散歩する」

「ごめんね。来週は間違いなく行けると思う」

「本当に、放課後とか、休日とか、だいたいモールに来ちゃうんだよ。椅子に座って、行き交う人たちとかをぼんやり見てると、モールって自分の人生みたい、て思う」

「人生?」

「なんか、だいたいの物はそろっているけど、なくても大丈夫だけどあったらいいな、とか思う物はなくて。画一的で、停滞してて。楽しいけど、何かから目を逸らされている気もするし。地方都市のモール的ディストピア、って命名して、入り浸りながらも斜めに見てたけど、自分の人生も同じだな。ここから出ることって、ないんだろうなって思って」

「ディストピアかどうかを決めるのは、どこにいるかじゃなくて、誰といるかじゃない?わたしは、亜斗夢とモールをうろうろするの、楽しいけどね」


 しばしの沈黙。


「なるほど。誰といるか、か。不覚にも、今の言葉は、少し刺さったよ」

「そりゃよかった」

「そういうこと、患者さんにも言うの?」

「いや、言わないよ。こういう個人的な思いはね。もっと無難なことを、無難に返すことが、求められてると思ってるから。老成したら、また違うスタンスになるかもしれないけど」

「ふうん……。まあ、来週は、待ってるよ。お大事にね」

「うん、また」


 そして、わたしは通話を終えた。

 しかし、切った瞬間に、再度スマートフォンはけたたましく鳴り響いた。画面には、今度は鈴木先生が表示されていた。


「もしもし」

「あ、はい、もしもし」

「お前、今俺に電話かけた?」

「かけてないですって。前も同じことありましたよね」

「そっかあ。今度こそ、山田の着信音と思ったんだが」

「着信履歴くらい確認してからかけたらどうですか」

「やけにカリカリしてるな」

「何度も間違いで電話をされたら、誰でもカリカリするもんですよ。ご存知なかったんですか」

「カリカリしながら診療に臨むのはよくないぞ。自分を冷やす、ことが大事だ。自分の感情状態を洞察しながら、冷静に患者さんに相対することが求められる」

「あの、これ診療じゃないんで。間の悪い先輩からの迷惑電話なんで。カリカリして何か問題でも?」

「ごめんごめん。まあまた、コーヒーでも買っておくから」

「いつまでもコーヒーで挽回できると思わないでください」


 そして、わたしは通話を切り、スマートフォンをテーブルに置いて、ソファに寝転んだ。

 下腹部は、鈍い痛みをまだ残していたが、いつの間にか、心に覆っていた雨雲は、きれいさっぱりなくなっていた。

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