第9話 新月の蜘蛛

 定時になり、鈴木先生を含む皆々が医局を去って行って、わたしは一人取り残された。

 夕食の検食にはカツが出て、わたしは内心喜んだ。一人暮らしだと、揚げ物を作ることは滅多にない(というか皆無である)。わたしは、夕の五時十五分になるとすぐに食堂に行ったので、カツは揚げたてで熱く、サクサク歯ごたえがあった。

 ここの病院は、全般食事が美味しい。患者さんの中には、年単位で病院から出られない人もいるのだから、せめて食事は美味しい物を提供するよう努力せよ、という創設者の意向が、今なお生きているのだ。

 食べ終えるとわたしは、医局に戻り、論文や本を読んだり、家から持参したカードを出してデッキ構築を考えたりした。

 夜七時半を回ると、わたしは白衣を羽織り、一階の病棟に降りていった。病棟は、急性期病棟と療養病棟に分かれている。回診して、行動制限中の患者さんのカルテ記載を行わなくてはならない。法令でそう定められているのだ。

 回診では、あまり侵襲的な言葉はかけない。『おかわりありませんか』くらいのものである。たいていは「はい」とひと言返答を受けて終わりだが、中には、「かわり?あります」との答えから始まって、自身の状況を語られる方もいる。そしてそれに対するわたしの返答は、『夜間なので、緊急性が高いこと以外は、明日主治医の先生に相談してみてください』である。

 型にはまっていると言われればその通りなのだが、当直帯の回診は、大事なく生存されているかの確認が第一だと思っている。妙に深堀りしてしまっても、興奮して眠れなくなったり、あるいは内容次第では主治医に迷惑がかかることにもなりかねない。無難が一番、なのである。 

 廊下を歩くと、自分の足音が反響した。電灯はしっかり点いているのに、どことなくうす暗い気がした。ふと窓に目をやると、そこには漆黒の夜空が広がっていた。

 そういえば今日は、新月なのだ。

 急性期病棟の回診が終わり、わたしは療養病棟に移った。ここでは、年単位で入院されている患者さんたちもいる。そしてさらにその中には、わたしが勤務したころから今日に至るまで、ずっと行動制限下の方もいる。

 わたしは、保護室の、重いノブを回し、扉を開いた。

 部屋の隅の暗がりには、患者さんが、背を丸め、腕組みしながら停立していた。この方は、夜の短時間寝るとき以外は、ずっと同じ場所で、こうして立っている。時に開放を試みようと、スタッフがドアを開けて促すが、その時は大声をあげて抵抗される。


「おかわりありませんか?」


 わたしは、そう声をかけてみる。

 返事はなく、患者さんは、うつむき加減で、上目づかいに少しだけわたしに視線を向ける。それは、わたしを見ているのか、あるいはわたしを突き抜けて向こうを見ているのか、わからない。

 わたしは、なるべく音をたてないように静かに、ドアを閉め、鍵をかける。

 ナースステーションに戻ると、わたしは机に積まれたカルテに、短い文章で記載を行っていく。

<(お変わりありませんか?)……はい。 著変なし 現処遇継続>


「今日は蜘蛛が出るかもよ」


 急に背後から声が聞こえて、わたしは驚いた。

 振り向くと、そこには勤務歴二十年を越える、ベテランの師長が座っていた。師長は、六十代前半で、髪の毛は豊富に残っていたが、真っ白だった。


「蜘蛛なんてしょっちゅう出るじゃないですか」

「いやいや、その蜘蛛じゃないよ」


 師長は、違う違うという風に、手を振った。


「こういう、なんだか空気がひりひりする夜は、何かが起きる気がするんだ」

「何かって?」

「何かは、何かとしか言えないな。生命の揺らぎを感ずるできごと、その淡い予感。そういう予感が降りてくる日を、この界隈じゃ、『蜘蛛が出る』って言うんだ」

「ふうん」

「だから先生、今日はあんまり寝られないかもね」


 師長は微笑して、記録の作業に戻った。

 わたしは、もう一度、窓の外に目をやった。そこにはやはり月はなく、闇よりも深い闇が広がっていた。病院の前を行き交う自動車のライトが、時々闇に吸い込まれた。



 午前二時過ぎ、わたしが当直室で深い睡眠に入っているとき、ドクターコールの館内放送が流れた。


『ドクターコール、療養103、療養103』


 わたしはすぐさま、一階の療養病棟に駆け下りた。

 103号室では、くたり体を曲げた患者さんが、夜勤看護師のリーダーに背後から抱えられていた。師長もすでに駆けつけていた。


「喉詰めだ、喉詰め、先生」


 床には、食べかけのパンが散乱していた。

 看護師が、患者さんを抱えた手を、思い切り後ろ上方に引っ張った。


「もっと力入れろ」


 師長が、大声で怒鳴った。

 何度目か、看護師が引っ張った時、患者さんの口から、パンのかけらが吐き出された。


「出た」


 わたしたちは、患者さんを寝かせ、顔を横に向かせた。わたしは手袋をして、ライトで口腔内を見ながら、手を突っ込んで残りのパンをかきだした。

 脈は確認が取れたが、胸郭が動いていなかった。


「自発呼吸低下。アンビュー持ってきて。挿管します」


 そのころには、各病棟からスタッフが集まってきていた。

 患者さんは点滴につながれ、モニターが装着された。

 わたしは喉頭鏡を手にして、患者さんの頭側に立った。そして、ブレードを口腔内に挿入し、喉頭蓋を持ち上げた。声帯が見えたので、気管内チューブを挿入した。


「オーケー。いけた」


 チューブを固定し、アンビューバッグを酸素ボンベにつないだ。そして、一定のリズムで、アンビューバッグを押して、胸郭の挙上をたしかめた。


「どうする?先生」

「救急車呼ぶ。センターに送ります」

「換気はかわるから、先生は家族に連絡を。あとセンターに電話して紹介状」


 わたしは、アンビューバッグを渡し、カルテの緊急連絡先に電話をかけた。深夜なので、一度の電話では出なかったが、三度目で通じた。わたしは、状況を説明し、搬送先が決まり次第、再度連絡する旨伝えた。そして、搬送先の病院にも電話で依頼し、紹介状を書いた。

 救急隊が到着し、患者さんはストレッチャーで救急車に運び込まれた。モニター上は、なんとか保たれていたので、生命に別条はないと思った。ただ、どのくらいの時間、低酸素状態だったのかわからないので、後遺症が残らないとも限らないと思った。


「詰めてから、間もなく巡回で見つけたから、大丈夫だとは思うけど」


 師長が言った。


「パンを隠し持ってて、こっそり食べていたんだよ。ただ、それもこちらの管理責任だからな。さて、これからどうなるか」


 救急車が、サイレンを鳴らしながら、センターに向けて走り去っていった。わたしは、病院の玄関で、師長と並んでそれを見送った。

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