第8話 ばつの悪い鈴木先生

 翌日、夕方から医療センターに当直に赴いた。

 医局に入ると、他の医局員三名ほど、それに鈴木先生がソファで本を読んでいた。

 鈴木先生は、わたしを見ると、ばつが悪そうに腰を上げ、そそくさとその場から立ち去った。わたしも、挨拶することなく、自分の机の上に鞄をどっかりと置いた。

 

「昨日は、申し訳なかった。つまらない電話で、邪魔をしたな」


 背後から、缶コーヒーを差し出しながら、鈴木先生が言った。視線は窓に向け、頭をかいていた。鈴木先生は、人の目を見て喋れない人である。診察以外では。 

 わたしは、コーヒーをちらりと見て、すぐに向き直った。


「コーヒー一本でわたしが昨晩負わせられたトラウマは癒えることはないです」

「んな大げさな」


 鈴木先生は、白衣のポケットからもう一本コーヒーを取り出す。おそらく、自分用のつもりだったのだろう。


「もう一本付けるよ」

「なら許します」


 わたしは、二本のコーヒーを受け取った。

 早速一本の蓋を開け、口に付けた。わたしはコーヒーに目がない。


「研究のほうはどうなんだ?田中先生の下についてるんだろ」

「今のところは、面白がってやっています。でも、一生続けるのは、どうなのかな。博士論文書いたら、その後続けるイメージは、あまりわかないのが正直なところです」

「まあ、研究は特殊だからな。研究は臨床よりも資質が左右するところが大きい。閃きがあるのは前提として、その根拠を積み上げていく粘り強さも必要だし、研究費を引っ張ってくる政治力も求められる。あと、ある程度の野心な。」

「臨床は、どうなんですか?」

「臨床は……信念と根拠と覚悟、かな。あと、無力感に耐える胆力。いずれも、長くやっていれば、持ちうると思っている」

「腰が定まらないのは、自分でも気にはしているんですよね。いったい自分は、何に向いているのか。あるいは、何にも向いていないのか」

「向き不向きは、仕事をするうえでは、さして重要じゃない。大事なのは、続けられるかだ。たとえ向いていないと思っていても、十年続けられたら、金を取っていい技術は身につけられるものだ」

「十年……。気が遠くなります。十年後には、自分は何歳になるんだっけ。年齢のことになると、足し算ができなくなります」

 

 鈴木先生は笑った。


「まあでも、若手の頃に、いろいろ見るのは大事だよ。司法とか、たとえ興味がなくても、見ておくと役には立つ。臨床は、得意分野を伸ばすより、不得意分野が少ないほうが大事だからな。いろいろ見て、べつに自発的に選ばなくても、縁があるところに、流れていけばいいと思うよ」

「なんだか、昨晩と全然言っていることが違いますね」

「状況に応じて、信念すら変えられる柔軟さが、俺の売りなんだ」

「それって、信念がないってことなんじゃないですか」

「それもそうだな。なんにせよ、お前はお前の好きにやってくれたらそれでいいと思っているのは事実だよ」

「言われなくても、好きにしかやれませんよ」

「仰る通り。そいじゃ、当直よろしく」


 そして、鈴木先生は、白衣を丸めて机に置くと、鞄を肩にかけて医局から去って行った。

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