第6話 外来

 わたしがマウスをクリックすると、診察室前の掲示板に、ピンポンと音とともに番号が表示される。すると、当該の患者さんが入室してくる。

 五十代の、罹患されて二十年以上の患者さんである。


「はい、どうもこんにちは」


 わたしはそう言って頭を下げる。


「前回からの一か月、調子はどうでしたか?」


 とりあえず、ほとんどの患者さんに対して、この質問からスタートである。『かわらないです』『最悪でした』『まあまあです』『調子よかったです』『相変わらずというか』『……(無言で首肯)』『……(無言で微動だにしない)』などなどの反応が返ってくる。

 

「……かわらないです」

「ん、そうですか。何か、気になることありました?」


 この質問で、その患者さんの個別的な要素が出てくる。堰を切ったように出来事を話す人もいれば、強いて言うなら、という感じでちょっとした変化を口にする人もいいる。かと思えば、何もなかったと言う人もいる。


「特にないです」


 その患者さんは、表情を変えずに言う。

 もちろん、その言葉を鵜吞みにはしない。特にないと言うこの人の生活背景には、いろいろあることは知っている。両親は亡くなり独居、兄弟は音信不通、作業所に通所していたが、数年前に交通事故で足に後遺症を残し、以後遠ざかっている。幻聴は慢性化して、あるのが当たり前になって、もう出来事として表出することもない。たばこが唯一といっていい娯楽でやめられず、慢性閉塞性肺疾患になっており、家計にも影響が出ている。

 積年の結果の生活の問題は山積で、とても自分が状況を上向かせる何かを提示できる要素はない。


「前回と同じお薬、出しておきますね」


 わたしは、カレンダーで四週後の再診日を指をさして指定する。


「じゃ、失礼します」


 席を立つ患者さん。


「はい、ありがとうございました。それでは、また」


 わたしは、頭を下げ、患者さんがドアを閉めて出ていくその背中を、見送る。

 毎度思うが、なんと無力なことか、である。

 形骸化の中に埋もれていることは重々承知しているが、自分の力ではこれ以上のことができないのである。

 カリスマのような精神科医は、おそらくもっと揺さぶる何か、硬直している状況を動かす何かを醸すことができるのだろうが、自分にはそれは不可能と知っていた。

 ただ、無力感に埋没していたら、この仕事を続けていくことは難しい。わたしはこの問題にぶち当たった時にいろいろ本を読んだが、どこにもその対処法は書いていなかった。だからわたしは、せめてしっかり頭を下げて挨拶をして、去り際には患者さんの背中が見えなくなるまで見送ることを徹底した。病院に通院するという、その面倒な工程そのものに、ある種に治療的意味があると信ずることにした。

 それもまた、自分への言い訳と知りながら。

 処方は出すが、薬剤の限界は明らかで、おそらく治療関係を含む治療構造が、精神科医療の生命線なのだと感じていた。なんとか頼りないものと思うが、その細い糸を手繰りよせていくほかないのだ。


 初診の患者さんの番が回ってきた。わたしは、問診票にざっと目を通した。年齢、性別、就労は見立ての大前提を作るものである。主訴は、<診断書が欲しい>だった。嫌な予感がした。


「失礼します」


 患者さんが、ドアをノックし、頭を下げて入室した。そして名前を名乗り、鞄を籠に入れて椅子に座った。

 標準的な社会的マナーを身につけているということである。


「今、お困りなこと、不安なことを、言える範囲でいいので、教えていただけますか?」


 わたしは問うた。


「診断書が欲しいんです。私が、正常だっていう診断書。病気じゃないって診断書」


 嫌な予感は的中した。

 話を聞いていくと、この患者さんは、会社で人間関係のトラブルが多く、上司から精神科受診をすすめられたのである。上司は自分を、何かの精神疾患だと疑っていると憤っており、そんなはずはないので、正常であるという診断書が欲しいとのことであった。

 わたしは、


「うーん……」


 と悩む……ふりをした。

 実際は悩んではおらず、もう自分の中で結論は決まっていた。


「診断書を書くのは、ちょっと、難しいと思います。申し訳ないのですが」

「どうしてですか?」

「わたしができるのは、明らかな精神科病状があるかないか、の判断だけなので。精神科病状がないからといって、それすなわち正常ということにはなりませんから。だから、正常であるという診断書は書けません」

「そうですか……」


 わたしは、時々あるこの<正常である診断書>は、一律書かないことにしていた。

 その人は、失望を露わにしながら、診察室を後にした。

 何か、困りごとがあるからここを訪ねてくる。わざわざ予約を取って。困っているなら、援助をしたいと思うが、すべての困りごとに対してすることはできない。そこには、’精神科的病状によって困っている’ことが制約としてつく。その制約を忘れると、自分も患者さんも苦しいことになってしまう。駆け出しのころに、よくそれで痛い目をみてきた。

 

 昼休憩なしのぶっ続けで四十人の外来を経て、気づくと午後五時半だった。

 わたしはいつものように、へろへろに疲れて、机に突っ伏した。外来は一番、エネルギーを要する業務である。

 やはり、根本的には向いてはいないよな、と思った。

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