第5話 田中研究室
自宅のアパートから、南東にある公園に向かって歩くと、目の前に坂道が見える。そこそこ急な坂道だが、そこを十分程昇っていくと、左手に大学医学部の校門が見えてくる。
辺りには、春の到来を待つ桜の木がそこら中に植えられている。それらをかいくぐると、築半世紀をこえる大学医学部の校舎がある。あと一回大きな地震が起きたら、倒壊すると言われている。
わたしは後者に入り階段を昇って、四階にたどりつくと、<田中研究室>の小さな札が見えるので、その下のドアをくぐった。
「おはようございまーす」
「おはよう」
田中先生は、むっつりとした表情で、肘をテーブルにつきながら学会誌をめくっていた。いつも通り、顔中に無精ひげが生えていた。研究室は、日当たりが悪くて薄暗く、物が散乱していた。
「山田お前、昨日のミーティング、なんで来なかったんだ?」
「カードゲームやりに行ってたので」
とわたしは正直に答えた。
「ゲームと研究と、どっちが大事だってんだ」
「どっちも同じくらい大事です」
「そうなんだ……」
拍子抜け、といった感じで、田中先生は黙った。
わたしは、部屋の中央のテーブルに座って、棚から過去のカルテのコピーを取り出し、目の前に置いた。そして、思い切り伸びをしてから、鞄から音楽プレイヤーを取り出した。
「イヤホンを耳に突っ込むんで、ご用件あるときは、肩を叩いてください」
「う、うん」
わたしは、主に六十年代、七十年代の洋楽ロックのファンである。黎明期の粗削りなエネルギーが感じられるからだ。特に、一部のライブ盤がお気に入りである。わたしは、カルテ調査の、ひたすら単調な作業をするときには、音楽を潤滑油に進めることにしている。
カルテのコピーに目を通しながら、ところどころ、黄色いマーカーを引いて、付箋を貼っていく。これは、大学病院や関連病院内で起きた、暴力事象の研究である。わたしは、患者さん同士あるいはスタッフへの暴力であったり、暴言であったり、ドアを蹴り壊すといった器物損壊行為が記録されている箇所を、マーキングしてく。全病院で対象者五百人なので、ほとんど終わりがない作業に思えてくる。カルテの<大声で叫んで>というところにマーカーを引くと同時に、イヤホン内のミックジャガーが盛大にシャウトした。
作業から三時間ほど経ったところで、わたしはイヤホンを外して休憩をとることにした。校舎目の前のコンビニエンスストアでパンを二つ買い、室内に置いてあるインスタントコーヒーを淹れた。
「俺にもちょうだい」
と田中先生が言うので、淹れてあげた。
薄いコーヒーをすすり、パンをかじりながら、わたしは学会誌を眺めた。つくづく、こんなこと研究してどうするんだろう、と思うものも多かったが、その積み重ねが今日の科学に結びついていることも承知していた。効率にとらわれた時点で、研究は力を失う。
「もうちょっと、やる気出してよ」
ぼそりと田中先生が言った。
「ひとつのことに、没頭できないんです。いろいろやりたいから、同時並行で全部やることにしてるんです」
「そもそも、どうして大学院に入りたいって思ったんだ?」
わたしは、口に向かってパンを放り込むその手を止め、瞬時に過去を振り返った。
「大学の医局に属するなら、大学院に入らないと意味がない、と父が言っていたからです」
「お父さんも医者?」
「いえ、医者になりそこなったサラリーマンです。医療機器の営業をやってました」
「ふうん」
父は、本当に……。
本当に、今どこで、何をやっているんだろう。
「先生は、どうして研究を?」
「人間に興味がないから」
田中先生は、あっさりとこたえた。
「それでよく、精神科医になろうと思いましたね」
「なってみてから気づいたんだよ。あ、俺、興味ないや、って。だから、まず基礎医学に行こうと思って、マウスと格闘したんだよ。アンフェタミンを、ラットに持続ポンプで注入して、統合失調症モデルマウスを作ってさ。でも、てんでだめ。基礎で結果出すには、もう二段階くらい、頭がよくないとだめだな、って思った。自分としては面白かったけど、成果が出ないし食っていけないから、しょうがないから臨床研究に鞍替えした。臨床教授っていう、実質なんの役にも立たない肩書をもらってな」
「でも、先生は、週一回は大学病院の外来ひと枠やっているじゃないですか」
「うん。やれと言われるからね」
「結構、評判いいですよ。外来出てる先生の中で一番患者さんウケいいかも」
「あのな、山田」
諭すような口調で田中先生が言う。
「臨床の世界じゃ、興味がないからこそできることもあるんだよ。興味があり過ぎて前のめりのやつが、一番患者を害することもある。俺は興味がないからこそ、善処ってやつを、ぱっぱぱっぱ躊躇なくやれるんだ。スマイルだってゼロ円で売ってるぜ」
「なるほどねー」
わたしは、妙に納得してしまった。
「あとな、俺はそのうちもう一回だけ、基礎研究に挑戦することも考えている。もちろん、教授が許可したらだけど。精神科分野なんて、ほとんど発展していないに等しい。ブラックボックスだらけだ。向こう半世紀の間に、今の仮説はだいたい覆る。ひとつ、アイディアがあるんだ。もしそれをやれるようになったら、ちょっと手伝ってくれるか?」
「考えときます」
「だめかー。その返答で手伝ってくれた人いないし」
田中先生が、半笑いで天を仰いだ。
わたしは、音楽を聴いたり本を読んだりと注意を散逸しつつ、夜九時までカルテ調査の作業をした。帰ろうと思ったときには、肩が凝ってばきばきに固くなっていた。
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