第3話 亜斗夢
わたしは、病院からバスを乗り継いで、大きなショッピングモールに向かった。
まだ目当ての店は開いていない時間だったので、わたしはチェーンのコーヒーショップに入り、濃いブラックコーヒーを注文した。
コーヒーは、わたしの最も愛すべき食料品だった。どんなにふやけた脳みそでも、シャキッとさせてくれる。世の中の輪郭がはっきりする。
口の中に、苦みが広がると、わたしはなぜか、コーヒーを巡るプランテーションの歴史の闇に思いをはせる。ここでこうして、自分が恩恵を被っている背景には、数限りない奴隷たちの被収奪がある。
『誰かから不当に搾取されていると思ったときは、自分もまた無自覚に他人から搾取している事実を思い出せ』
かつて、父が言った言葉である。
父は今頃、どこで何をしているのだろう。
論文を読みながら、飽きると小説を読む。だいたいが、十五分おきに交互交互になる。これがわたしのスタイルであるが、研究室のボスからはすこぶる評判が悪い。没頭できないタイプは研究に向いていないと言われる。その通りなので、ぐうの音も出ない。わたしは、ひとつの物事をつきつめるタイプでなく、いろいろな知識をかじりたいのである。
かじった知識のかけらたちが、いつかひとつの体系になって、自分の中の哲学に結実すればと思うが、もちろん、その道ははるか遠い。
「待たせたね」
声を掛けられ、振り向くと、そこには水色のパーカーを羽織った、前髪ぱっつんの少年が立っていた。
佐藤亜斗夢である。
「生まれたときから、待つことには慣らされているから、大丈夫」
「また、無意味に意味深なことを」
亜斗夢が、わたしの前のテーブルに目をやる。
「何読んでたの?」
「小説」
「どんな?」
「なんか、豚を蹴る、っていう小説。いや、豚に蹴られるだっけ」
「くだらない」
亜斗夢は笑った。
「ほかに蹴らなきゃいけないものは、いくらでもある。隣人の顔とかね。早く、お店に行こう」
わたしは、亜斗夢と連れ立って、モールの三階に昇った。
「今日、わりと人多いね」
「たしかに。なんか、午後に広場でイベントがあるみたい。芸人が来るだか。それ目当てじゃないの」
「ふうん。そんなに直接見たいもんかな」
「暇なんだろ。地方のモール的沈滞、生活の縮小を忘れさせてくれる、ささやかな非日常。逃避だよ、昨今の現実からの」
「逃避くらいしないと、誰だってやってられないよ」
「そりゃそうさ。わかっている。現にぼくだって、今から逃避の最たるものをしようとしているんだから」
わたしはひとつあくびをした。
「こんな時間から眠いの?」
「うん。昨日、当直だったからさ」
「当直?ああ、宿屋の管理人のバイトみたいなものか」
「そういわれると、ぐうの音も出ないよ」
わたしと亜斗夢は、四階に着くと、二人で並んで歩いた。子連れの親子と何組もすれ違った。
カードショップの前まで来ると、わたしたちは中に入った。店の奥には、四つのテーブルが並んでいた。
わたしは、一番奥のテーブルに座り、中からカードゲームのデッキを取り出した。亜斗夢も前に座った。
「今日は、新しいデッキに組み替えてきたから。試してみたいことがあるんだ」
「返り討ちを宣言しておくよ。夢姉のデッキ構築は、思慮が足りない。確率を計算して、どういう手札でも対応できるように各カードの配分を考えないと」
わたしは、亜斗夢からは『夢姉』と呼ばれている。
わたしたちは、カードを机に並べ、お願いします、と律儀にひとこと挨拶を交わし、バトルを始めた。
「このあいだ、めずらしくあいつが話しかけてきてね」
亜斗夢が話し始める。
亜斗夢は、カードゲームの勝負をしている時が、一番饒舌になる。一番、自分のことを話してくれる。それでいて、ゲームの手順は絶対に間違えない。亜斗夢はわたしの、カードゲームの師匠である。
「なんか、釣りに誘ってくるんだ。あいつなりの歩み寄りなんだろうけど。でも、僕のこの生活状況から、釣りなんて皆目興味もないことは明らかだろ?うんざりして、嫌だと言ったんだ。しつこく誘ってくるから、しつこく嫌だと返した。そしたら、しまいに怒りだして、母親に告げ口した。今度は母親が来て、怒り出した。無視を決め込んだら、しまいに泣き出して、『あなたのせいであの人に捨てられる』だって。地獄があるなら、ああいう状況のことを言うんだろう」
カードの手順は次々に進んでいく。わたしは、逆転の秘策を練っている。
「大人は嫌いだ」
亜斗夢がつぶやいた。
「わたしも?」
「夢姉は大人とは思ってないから、嫌いじゃないよ」
「もう三十路目前だけどね」
「そういうのは、実年齢が問題じゃない」
気が付くと、わたしが練った逆転案は、相手のカード運びで見事につぶされていた。
「負けました」
わたしと亜斗夢は、互いに両の手をぎゅっと握り、頭を下げた。これもまた、いつもやる律儀な挨拶である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます