第2話 新しい迷妄と読まれざる無知

そのむかし、「勝ち組」と「負け組」にマーケティング用語で、世の中を振り分けていたときに、ぼくは桜井章一の勝負論を読んで、迷妄から「強さ」に目覚めたのだった。特に、イチロー論については、ぼくを開眼させていった。そのあとも、内向きの世代だとか、外向きの重要性についても、同じ方法でクリアすることになった。テレビで話題になっていたヤマザキマリのエッセイを探して、引きこもりの問題も、今ひとつコンプレックスに感じなくなった。

ぼくは、基本的に、教養を高めるために本を読んで、強くなってきたわけなのだ。

ところが、小説の主題や方法とは別棟にあるトピックについて、「働くこと」だとか、資本主義や仕事力について、甚だ疑問なのである。

ぼくは、田んぼディレクターとして働いているけれど、いわゆる、会社に所属した勤め人ではなくて、家でも揉め事の火種として燻っている。ぼくのエッセイを読んで、揚げ足を取られるのは非常に困る。しかし、赤裸々に己をさらけだすことで、世間にコミットするのは、作家生命が息づく際に、とても重要である。

ぼくの生き甲斐は、編集であり、執筆であって、張り合いは、それを競技に見立てることで、決着はついている。世の中は肩書きが先行して決まっていくことも、元来、承知する所以である。

編集工学の教えとは裏腹に、学校や会社に籍を置いた組織人として生きて来なかったけれど、ぼくは、まずまず、生き延びて来られてよかったと思っている。

それはそうと、もう少し、踏み込んで、答えを出したいことは「はたらく」とか、経済力を持つだとか、プロフェッショナルという意味で、病気を抱えたまま世間との迎合を果たすことである。自分自身、金銭的なトラブルを経たうえで、稼ぐ力を携えて、堂々と生きていくことに対して、社会制度上でも説得力のある言葉をもたないのは、これからの我が人生で不利に働くだろう。

決定的な経済主義との溝があって、国家に仕える任務をどれほど成功させても、ぼくたちは、社会的に認知されない階層に追い込まれている。要するに、疎外された状況のまま、親元に甘えた自己愛の強い人物像を、世の中の要求度に応じて、勝手に作り上げられるのは、心の底から不快である。

この文章が英訳されて、拡散されたら、日本人は身勝手で恥であると分析される心配は堪えないけれど、過労死するほど働くのも間違っているわけで、だとすれば、病気を抱えていても、自己裁量の下でハードに動き回れるかどうかに過ぎない。頑張るか、だらだら生きて申し訳なさそうにするか、或いは、自分なりに働いても肩身を狭そうに家庭の窓際を演じるかだとしたら、ぼくの総合的な考察は、絶対量が足りないと思うわけである。

ぼくとしては、時間を見つけて、こうした仕事人のエッセイやノンフィクションを渉猟したいとも思うけれども、ぼくはテレビ放映されたものを拾い読んでも、まったく納得しない。それ自体、ビジネスを論議しているだけだ。プロジェクトXだとか、今まで際限なくあったけれども、全然、心に響かない。田んぼディレクターは、インテリジェンス・オフィサーだと認められるだろうが、社会的な認知度は、最低ラインだから、農産物の価格は安いわけで、ぼくは、高ければ高いほどいいとも思っていない。わからないのである。

この「はたらく」ことや、社会の労働力が認める分配について、家計を営む支出入やマクロな物価や商品の値段、そして、消費行動にも、不明な点が多々あって、ニュース解説だけでは、まったく手が付けられない現実に直面している。

その経済で割り切れない部分を、全てボランティアやチャリティーや慈善事業だとしてレッテルを貼ったうえで、偽善者だと罵るのであれば、その議論自体が不徹底な側面が見受けられることは看過できない。これらは切迫した事実であり、人生の理解度の至らなさである。

「学問のすすめ」か、法華経、知恵文学のようなバイブル的な一冊で間に合わせる他ないと確信する。

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