1-8 アルノルトの恋(アルノルトサイド)
アルノルト・シュナーベルは稀代の天才として、この世に生を受けた。しかしその人生は、孤独にまみれていた。
彼は由緒あるシュナーベル公爵家の、嫡男だった。父は宰相であり、王太子の幼馴染として育った。その聡明さで、彼もゆくゆくは宰相になるだろうと、早くから言われ始めた。誰が見ても生まれつき恵まれていると、そう思うことだろう。
それに加えて、彼は天才だった。三歳の頃にはもう、あらゆる一般魔術を使いこなしていたのだ。普通は十代で、少しずつ身につけていくようなものである。しかしアルノルトには簡単で、まるで生まれつき覚えていたかのように自然なことだった。
勉学も剣術も、何だって、少し学びさえすれば人並み以上にこなせた。
誰も彼もがアルノルトを持ち上げ、おべっかを使って来る。
しかし当のアルノルトは調子に乗るどころか、人を疑うようになった。ごますりをする大人たちが心の中で、本当は自分をどう評価しているのか……それが、気になったのだ。
「人の心の中を、みることができたら良いのに……」
八歳のアルノルトが何気なく呟いた……その瞬間である。突然身体中の魔力が沸き立って、指先からあっという間に魔術陣が描かれた。あまりにも早すぎる、特異魔術の開花だった。身体中が熱くなり、激しい痛みに襲われた。パニックになったアルノルトは、近くにいた母親に縋った。
「母様…………!!」
そうして母に触れた、その瞬間である。アルノルトは、自分の母の過去を視てしまった。
――――母が、父でない、他の男と愛し合う姿を。
「うああああぁっ――――!!」
アルノルトはあまりのショックで絶叫し、母を強く突き飛ばした。それから一週間、生死の境を彷徨ったのである。
この出来事はアルノルトにとって、大きなトラウマになった。信頼していた母親すら、家族すらも信じられなくなってしまったのだ。
アルノルトはそれから、様々な人間の過去を垣間見た。初めは魔術のコントロールがうまく出来ず、勝手に過去が流れ込んできたのだ。
嘘、悪口、暴力、不倫、横領――――。様々な人の後ろ暗いところを、幼いアルノルトは直接目撃していった。
さらに悪いことに、彼の特異魔術は瞬く間に有名になってしまった。その開花があまりにも早かったからだ。
するとどうだろう。自分をちやほやしてくる人間たちが、時に顔を歪め、自分に直接触れるのを拒むようになったのである。
――――皆、俺が怖いんだ。
誰も彼もが、アルノルトの力を恐れた。過去を視られることを、恐れた。その言葉では、その態度では、アルノルトを持ち上げてくる。しかしそれは表面的なものだと、あからさまに分かった。
アルノルトは人間不信を深く拗らせ、孤独に陥っていった。
だから――――リーゼロッテに過去を読んでほしいと言われた時、それはそれは驚いたのである。
リーゼロッテの姿には、見覚えがあった。一度、茶会で道案内をしたことがあったからだ。
自分の手を取るのを、嫌がらなかった女の子。真っ直ぐに切り揃えられた、美しい黒髪。媚びのない、控えめな翡翠の瞳の輝き。小さな顔、まろい頬のラインに、さくらんぼみたいな唇。とても美しい少女だと思ったのを、アルノルトはきちんと覚えていた。
リーゼロッテの過去を視た時の驚愕は、凄まじかった。何たって、前世の記憶だ。しかも、この世界を小説で元々知っているとは、にわかには信じられないような話である。
しかし、アルノルトの魔術は真実だけを見通すものだ。彼はリーゼロッテを、すぐに信用した。
そうして彼女の前世を垣間見る時間が、毎日続くことになった。アルノルトに流れ込んでくるのは、小説に関する記憶だけではない。そこには孤独と苦しみに苛まれた、一人の女性の一生の記憶があった。アルノルトは密かに、彼女の孤独に共感した。
リーゼロッテは大人しいが、どこか不思議なところのある女性だった。彼女曰く、過去を読まれるのは恥ずかしいが、嫌ではないのだと言う。そんなことを言われるのは初めてだったので、アルノルトは笑ってしまった。
彼女に毎日会って、その手に触れるようになって。アルノルトは、その時間がどんどん楽しみになった。
白魚のような手。細くて綺麗な指。丸く切り揃えられた、小さな爪。そんなものにばかり、目がいってしまう。過去を見ながら、何度も密かに彼女の顔を盗み見た。昔よりもずっと、綺麗になったと思った。それに、昔と変わらず自分を控えめに見つめる翡翠の瞳は、光の加減で若葉のように煌めいて美しかった。
ある日アルノルトは思い切って、リーゼロッテの前世について触れてみた。彼女手作りのクッキーを食べて、少し気持ちがふわふわしていたせいかもしれない。
「過去を視せてもらったが、君は……前世で、ずいぶん孤独な人生を歩んできたんだな」
これは、ずっと触れたくて――――でも、触れられなかったことだった。リーゼロッテが前世で抱えていた孤独は、アルノルトにも想像がつかないような、壮絶なものだったから。
しかしここで彼女は、意外な質問をしてきたのだ。
「アルノルト様は…………いま、孤独ですか?」
アルノルトは驚き、答えに窮した。まるで自分の心が、彼女に見透かされたかのように感じたからだ。
「ええと。皆に囲まれている時…………寂しそうに、している時があるから」
リーゼロッテは遠慮がちに、でもはっきりと、そう言った。孤独を経験したことのある彼女だからこそ、分かってしまったのかもしれない。アルノルトは心底参ったような気持ちで、白状した。
「君には見透かされているな。確かに俺は、孤独かもしれない。人をなかなか信じられないから……。過去を視て、人間の嫌な部分を沢山知ってしまったし……。皆がちやほやしながらも俺の力を恐れ、直に触れたがらないことも、知っている」
「そうですか…………」
リーゼロッテの翡翠の瞳が、たちまち悲しみに染まる。彼女には、そんな顔をして欲しくなかった。だからアルノルトは、大切なことを彼女に打ち明けた。これも以前から、ずっと思っていたことだ。
「でも、いまはちょっと違う。君がいるから」
「私、ですか…………?」
リーゼロッテは心底不思議そうな顔をしていた。自分が特別である自覚が、全くないらしい。
「俺に過去を読ませに来てくれる、変わり者。君がいるから…………俺はいま、孤独じゃない」
アルノルトがそう言うと、リーゼロッテの表情は顕著に変わった。ぱあっと驚きと喜びに染まり、その瞳は新緑の煌めきを纏った。
「嬉しい…………」
そうしてリーゼロッテは頬を薔薇色に染め、言ったのだ。それはもう、可愛い笑顔で。
「私で良ければ……ずっと、お
――――ああ、好きだな…………。
アルノルトは、唐突に自覚した。リーゼロッテのことを、心底好きなのだと。
彼は自分が生まれて初めての、深い恋に落ちていることに、ようやく気が付いたのである。
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