鬱人の生活。 “チャンスタイム”とは?






 サキは今の窓辺で寝転び、ただ雲の行方を目で追っていた。今日は“何も出来ない日”だ。体がダルくて、調子が悪い。頭に今までの人生で起きた、嫌なことばかりが浮かんでは消える。

 そういうときは、音楽を流して、その歌詞に集中する。よくわからない、言葉の羅列を何とか理解しようとすることで、悪い考えを頭から追い出そうとする。


 この時間帯に窓辺にいれば、外から太陽が差し込む。太陽を浴びることは鬱にいいということは、情報社会ではもう常識だ。紫外線が気になるが、真面目なサキは日光浴を律儀に行った。


「鬱で休むとしたら、どれぐらいの期間ですか」


 サキは休職する前に先生に聞いた。


「ん〜。最低、3ヶ月とか?」


 あの言葉を聞いてから4ヶ月だ。まだまだ、道のりは長いらしい。


 サキは昔からゲームが好きだった。主に1人で出来る育成ものやRPGをしていた。大人になったはめっきり減ったが、たまに気になるタイトルが出れば、休みの日にちょこちょこしていた。

 サキは休職中、1日中寝ているよりはマシだろう。と、とりあえずゲームの中での活動でリハビリをしていた。


 今日もサキはゲームをつけると、いそいそとモンスターを倒し、レベルを上げ、お金を貯める。ほのぼのした牧場のゲームをしていても、ゲーム内の1日を走り回って出来る限りのお金を稼ぐ。社畜はゲームの中でも社畜なのだ。滑稽こっけいだ。


 それでも、ゲームの中の自分には役割があって、しなくちゃいけないことがある。それが、人生の迷子中であるサキにはありがたかった。


 いつの間にか、時間は深夜。ゲームが放つ熱で温んだ空気を換気するために窓を開ける。空を見上げても星も月も見えなかった。当たりは真っ暗。私の人生みたい。

 サキはしばらく、ぼんやりと暗闇を眺めた。



 鬱になって仕事を休むまでの間、サキは家族に鬱になったことを言わなかった。心配かけたくなかったし、皆が気づかない内に治せるか、それが出来なくても薬でやり過ごしていけるって思ってたから。


 しかし、仕事を休職するにあたって、仕事に行かなくなるなら、流石にカミングアウトするしかなかった。

 サキの告白に、家族は「まさかサキが?」という表情で戸惑いながらも、受け止めるしか無い。病気なのだから。


 母はよくテレビで、赤ちゃんや子供の動画を観ていた。どこの動画配信者の子供か分からないあの子は私が会社に入社ししてから鬱で休むまでに小学生にまで成長している。なんてことだ。時空が歪んでいるに違いない。鬱じゃなくても焦るだろ。


 夕方のニュースでは人身事故で混乱した都会の交通網を報じている。自殺だろうな。

 前に芸能人の自殺が続いた時期があった。その時は、どのニュース番組も最後にアナウンサーがこう訴えていた。


「つらいと感じる方は、周りに助けを求めてください。あなたの周りにはあなたを大切に思っている人が必ずいます。下記の電話番号にご相談を……」


 サキも鬱の患者らしく、希死念慮きしねんりょと闘っていた。あぁ、なんか死ぬかもと、脈略なく思ったり、誰の迷惑にならないように跡形も残さず消えたいと願ったりした。


 どんなに辛くてもサキは自殺だけはしない、と心に決めていた。この歳まで結婚もせず、挙句の果てに仕事まで辞めた親不孝者にも出来る、最低限の親孝行だと思っていた。


 不思議なことにSNSを開けば、ストレス対策や、精神病の情報の投稿か命のダイヤルなどの広告ばかり表示される。最近のテクノロジーってすごいな。と思いながら、必死に誰かの自殺を引き止めようとしているバナーを眺めた。


 違う。分かってないなぁ。死にたいんじゃない。生きたくないんだよ。全然、救ってほしくなんか無いんだよ。無になりたいだけ。



 

 

 幸いなことにサキは鬱ではあったが、空気を読める鬱だった。意味がわからないだろうが、例えば会社を休んだことがないし、お風呂も毎日入る。友達と会えば普通に会話をする。一見すると“普通な人”に見えただろう。


 しかし、内心はジェットコースターの様に好調と不調を繰り返し、それは大きくは数週間単位だったし、細かくは1日に気分がコロコロ変わった。“うつ”と“そう”がある。つまり、双極性鬱そうきょくせいうつと言うやつだ。


 鬱期は意味もなく気分が落ち込む。誰かに責められているような気がする。何も無くても不安になる。苛立いらだつこともある。自然と理由があるはずだと探して、あの人が、あの時のあの言動が、と考えてしまう。人間を、環境を、自分さえ、全て敵にしてしまう。本当にいやだ。


 一方“躁”は、絶好調な様に気分が上がる。なんだが、やる気が出て、テンションも高く、鬱なんて無かったような気持ちになる。調子に乗った言動をしてしまうので、これはこれで注意だ。たとえば食べ過ぎ、買いすぎ、喋りすぎ。鬱よりずっといい。が、躁の行動が、後の鬱に響いてしまう事は多い。


 とにかく、サキは気合で“躁”を引っ張り上げる事が出来た。だから、仕事のここ一番の時や、久しぶりに友だちに会うときは元気なお調子者を演じることができた。

 しかし、毎回、その反動により鬱期は酷いものになる。それでも、家の外で鬱の言動や表情を出さなければ、他人にはわからない。本当に出来ているかは疑問だが、その努力はしていた。


 退職から数ヶ月が経つ内に、処方される薬が2種類になったり、2種類目の量が増えたり、1種類目が処方箋から無くなったりした。

 そのお加減なのか、仕事をしていないからなのか、しんどい日も“最悪”では無くなってきた。そうなると、しばらく会わなかった友達と遊んだり、近場に旅行に行ったりした。

 次の日はぐったりと寝込んでしまうのだが、社会活動のリハビリもねて、誘われれば断らずに向かった。





 ある日、おじいちゃん先生が深刻な顔で、デスクの引き出しから注射器を出して、サキに手渡した。


「これを使えば“安楽死”出来ますよ。でも消費期限は1週間です。1週間以内に打てば楽になれますよ」


 サキは悩んだ。なんて素敵な提案なんだ、と思ったり。自分で注射するのは痛そうだな、とか、家族が悲しむかな、遺品整理してからの方がいいかな、とか思ったりしていた。


 そして、これから起こるはずだった不幸と、訪れるはずだった未来を考えた。そして、その時のサキは生きた方が良さそうだ、という気持ちのほうが、ほんの少しだけ強かった。


 目が覚めたサキは、久しぶりの感情を味わった。夢を思い出して感動すらしていた。少し前のサキなら、すぐさま“安楽死”を選んでいただろう。自分は回復してきたんだ、ということが実感できた瞬間だった。





 さらに調子が戻ってきたサキは、ふとマッチングアプリをしてみようかな。と思った。

 何か前向きな行動をしてみたい。幸せになるのに手っ取り早いのは、仕事と恋愛だと熱弁していたのは自分だ。もちろんリスクはあるが、どうせ今が人生最悪。自分に失うものはない。


 いつだったか、試しに登録して放置していたマッチングアプリを開いてみる。適当だったプロフィール文を添削てんさくして、顔写真を登録し直した。完了して、しばらくすると“いいね”の通知が鳴るようになった。

 アプリで“いいね”してくれた相手の顔写真を眺める。次はプロフィールを開いて、年齢が離れすぎている。清潔感がない。離婚して子供がいるって事は養育費があるか?など、頭を悩ませる。


 まぁ、マッチングした所ですぐに付き合うわけでも無いんだし、もっと気楽にいこう。と、無難な相手に“ありがとう”ボタンを押すと初のマッチングが成立した。





 メッセージしていく中で、合わない人はメッセージのやり取りだけでも合わないし、変な人は文章にそれがにじみ出ている事に気づく。

 もう大人になってしばらく経つはずの年代が、こんな感じで社会を生きてこれたのか、と驚いた。それで許されてきたのか、と。


 何人かとメッセージのやり取りをして、その中の数名と直接会ってお茶や食事をした。

 話して「もう会うことはないだろう!」と、判断出来ればメッセージの返信を辞める。しかし、「話は出来るし、嫌なほどでは無いけど、好きになれるかは……、はて」という相手をどうすればいいか困った。

 そんな相手は、何度か食事を重ねても、サキの中での相手の好感度は平行線。そのまま、なんとなくフェードアウトしてしまう。


 20人以上会った内の2人ほど「あ、この人好きになれるかも……」という人が現れたが、その相手からは連絡が返ってこなくなるのだから上手くいかない。本当に嫌になる。

 自分ってそんなに魅力ないのか。と、落ち込む。結婚したいって言ってくれた彼氏もいたんだけどな。あいつにしておけば良かったか?と、因縁の元カレを思い返す。


 束縛が酷くて友だちと遊びに行くのも嫌がったし、異性の連絡先全部消されたし。そのくせ自分は女とメッセージしてたけど。たまにギャンブルしてたけど。別れ話したらストーカー化したけど。でも、あの人は取り敢えず私が好きだったよな。結婚したら案外幸せだったかも……。と結婚生活を妄想しておいて、いや無い。と思い直す。やっぱり、あいつと結婚するくらいなら一生独身の方がマシ。

 私生活については自己肯定感が低いサキでも、元カレと結婚するという選択は、未来の自分が可哀想になる。


 心が弱ってるからって、誰かを必要とするのは、ただの依存だ。私は働いていないというチャンスタイムを活かして婚活をしている。鬱のわりに自立した女なのだ。サキはよくわからない事を自分に言い聞かせながら、マッチングアプリのメッセージ画面を開いた。




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