星の少ない夜に、そこのあなたへ

遠野 楓夏

エピローグ。“幸せ”とは?








「将来こうしたいとかあるの?」


「私、“幸せ”になりたいです」


 サキの返事に、上司は面食らった顔をした。いつもはそつなく質問を返すサキが、無垢むくで世間知らずな学生みたいな発言をしたことに驚いていた。


「へ、へぇ?幸せに?」


 26歳。中途で入社してしばらく経った後の上司との個人面談の席で、サキはこのやり取りをしてのけた。


「はい。人間の3大渇望って知ってます?それが満たされると人は幸せって感じられるんですけど、それは恋愛と仕事で得られやすいんです」


 サキは前回のクズ男との別れを経験して、結婚願望が極めて薄くなっていた。つまり、あんな奴と結婚するくらいなら、一緒独身でした方が幸せじゃ。という気持ちで生きている。


 だから、20代後半の結婚適齢期に結婚前提でないお付き合いをするのも相手に失礼だ、と思い、恋愛自体をやめて仕事に打ち込んでいた。


「だから仕事がんばりますね」


 その言葉に、上司は納得したような、してないような複雑な表情を浮かべていた。


 あの頃に戻れるなら、自分を引っ叩いて、“ライフワークバランス”って言葉を検索させて、マッチングアプリに登録させてやる。


 仕事は若くなくても、いくらでも出来る。恋愛はそうじゃないだろ?未来の私が後悔するんじゃないか、って考えろよ。

 もちろん。そんな言葉が26歳のサキに届くはずは無かった。





「お電話番号頂戴してもよろしいですか?……070はい。4537....…、あ、申し訳ありません。4365、あ、4573……」


 サキは4桁の数字がどうしても覚えられず苦戦した。何度も聞き返してようやく番号を書き留めたころには、電話相手は苛立ちを通り越して、心配そうな声になっていた。


 やばい。サキは椅子に深く座り直した。3ヶ月ほど前から、頭の中に霧がかっているような不思議な感覚があったが、最近は霧がより濃くなっていた。頭は常に柔らかい布で締め付けられるような軽い頭痛が続いていたし、注意力も集中力も低下しているのか、小さなミスも頻発していた。言葉や文章の意味が分からないことがたまにある。でも、4桁の数字が記憶できないのは問題すぎる。流石に業務に支障をきたす。

 もう無理か。サキはため息をついた。実はサキは2年前にうつの診断を受けていた。


 サキの会社は田舎の中では珍しいベンチャー企業というもので、設立も新しく社員も多くない。サキは社内の色々な仕事を兼任していた。仕事が忙しく、夜10時頃に家に帰宅してご飯を食べ、お風呂に入り、ベッドでごろごろスマホをいらって1時過ぎに消灯して眠ろうとこころみる。


 もともと心配性で繊細な所があるサキは就寝前に、ベッドの中で1日の振り返りをする癖があった。それは、1日にあったミスや、こうすればもっと良かったな。という、ほぼ反省会のようなものだった。そんな事をしていると、中々眠れない。


 そして、なぜか夢の中でも仕事をしていることも多かった。朝起きて、毎日車で20分かけて仕事場に向かう。の繰り返しだ。これが明日も、明後日も、1週間後も、1年後も、ずっと続く。と考えると気がおかしくなりそうだ。そして、現実にそうなった。


 どんどんと夜の寝付きが悪くなった。朝、会社に向かう車で、何故か涙が流れた。耳鳴りがする。なんだか、消え入りたいという気持ちになる。頭が痛いことが増え、突拍子の無い、死ななければならない、という気持ちが強くなる。夜は眠れず、朝が白くなったころに気絶するように眠っている、ということがほとんどになった。


 あぁ、これは、もうあれだ。サキは休日に心療内科を受診した。待合室に多くても6人くらいしか入れない小さな病院は、ネットの口コミでみたら可もなく、不可もなくだった。

 診察室に入ると、白髪のおじいちゃん先生がパソコンが乗ったデスクの前に座っていた。


「気分の落ち込みと、不眠ですか」


 先生は紙の冊子さっしをサキに渡した。


「このチェックシートに“ペケ”してみてね」


 サキは冊子を開いて2ページにわたる質問を一つ一つ、5段階の評価で答えていった。

 沈黙が気まずい診察室に、サキが書き込む鉛筆の音と、先生がゆっくりキーボードを叩く音が響いていた。


 ようやく、すべての質問に印をつけて先生に渡すと、先生はシートを見渡した。その待ち時間も気まずく、長く感じる。


「そうですね。鬱といっていい結果になりますね」


 先生の表情からは感情がわからない。


「気分を上げる薬を少し飲んでみましょうか。この薬だけでも副作用で眠気が来るんですけど、寝れないと困るので睡眠薬も出しますね」


 そう言って診察が終わった。その淡々とした流れは、確かに“可もなく、不可もなく”だった。

 この日、サキは自他共に認める“鬱”になった。





 サキはすぐに上司に報告した。報告義務があるような気がした。


「実は鬱と判断されまして」


 サキの報告に上司は珍しく深刻な表情をした。


「仕事が原因とかじゃなくて、自分の性格上の問題だと思ってます。薬を飲みながらやっていきますが、迷惑かけることもあるかもしれないので、一応ご報告をと……」


「そうか、出来ることがあったら言ってくれ」


 上司は心配している表情をした。もしかしたら、サキがいなくなったら、どうやってその穴を埋めるか。という心配かもしれないが。




 睡眠薬は効いた。夜は眠れるだけで随分ずいぶんと体が楽になった。しかし、鬱の薬の効き目は、今ひとつで1週間おきに病院に行くたび、少しずつ量が増えた。それは半年をかけて当初の3倍になっていた。


 それでもサキは会社を1日も休むことは無かった。どんなに心情が最悪でも、体調が悪くても、出社して与えられた仕事をこなした。サキの中にある、元体育会系の気持ちと責任感にあふれた性格が休むことを許さなかった。


 薬のおかげで元気な期間もでてきていたが、調子が悪くなると全ての感情が真っ黒くなる。全てが悪く見え、人のあらを探し、小さな事に腹が立つ。怒りっぽくなったし、自分が嫌なヤツで惨めな気持ちになった。それをなんとか隠そうと努力して、どんどん無口になっていった。苦しくて、死んだら楽になれる気がした。それでも、なんとか2年を生きてきた。



「君が体調が悪いんじゃないかと、社長に聞かれてね。病気のこと話したよ」


 いつもは明るいサキが目に見えて暗くなったのだ。周りから見ても様子がおかしく映ったのだろう。そして、最近のミスの多さ。


「一度、休職してみたらどうだろう?その方が今後のことを考えると、いいと思うよ」


 上司の提案に、「その通りだ」という冷静なサキの考えと、「なんで?私はこんなにがんばっているのに!私の分の仕事は誰がやるの?」という暗黒面のサキの考えが頭の中にこだました。

 実際のサキは抑えきれない涙を流しながら、黙って頷くことしかできなかった。





 会社の規則で、休職期間の上限は3ヶ月。

 始めの1ヶ月は、ぼーっとして過ごした。有り難いことに、傷病手当という制度で、ある程度のお金はもらえたし、実家ぐらしだったことで金銭面の不安は無かった。


 鬱を治すために野菜やタンパク質をとるようにしたり、嫌いな散歩にでかけたり、運動をしてみたりした。


 2ヶ月目になると、もう仕事を再開する日を考え始めて億劫おっくうになってきた。サキの休職の理由は職場で広がっているんだろうな。私がいなくて職場が困っていないなら、戻っても席は無いんじゃないかな。そんなことを、ぐるぐる考えた。


 3ヶ月目、まだ落ち込みはあるけど、なんとなく調子がいい気がしてきた。


「お加減はいかがですか。復職の意思を確認させてください」


 上司からのメッセージにサキは困った。

 “復帰の意思”?ある。でも“出来るか”は別の話な気がした。

 今の状態は会社にとって治ったことになるのだろうか。また、あの激務をすれば、すぐに症状が戻ってしまうことは想像できた。

 真面目なサキは上司に聞いてみることにした。


「どれくらいが復職の目安になるんでしょうか」


「病気について心配がなくなったことが、目安になるとおもいます」


 それは、むり。サキは絶望した。サキの性格上も、病気の性質上も、心配がなくなることなんてない。鬱の再発率、知ってるか?と上司に叫んでやりたかった。


「その基準に残りの期間では、間に合わないと思います」


 何とか折り合いがつく相談が出来ないだろうか。とりあえず、業務を減らすとか、時短とか、パートになるとか。色々と出来ることはあるはずだ。

 上司からの返信はすぐに来た。


「わかりました」


 そのメッセージを最後に、上司とのやりとりは終わった。約4年勤めた会社からの退職が呆気なく決定した瞬間だった。




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