第14話 義魂

 悪寒と共に僕は身を伏せ、シシリオは飛び退く。

 通りすぎる、黒雷の唸り。

 黒く、荒々しい獣が切り裂く。爪で、逆立った毛が作る針で、獣と整えられた人のような歯が混じる牙で、空間をバラす。

 そこにこれまでの静けさも、無情もない。


 目や耳や口や肌に依らない曖昧な感覚というのは不確かでありながら、実に繊細な変化を察知するものだと、僕は森での生活で知った。

 ゆえに明確な根拠を示せる術はないが、殺気を捉えるように、感じ取ったものを濾過せず行動へ反映させる。

 その結果、僕がとった行動は、地面に這いつくばることだった。

 

 本能が戦慄する。

 呼吸がしづらい。全身の水分が抜けてしまうほど溢れる汗。震えることも許さない頭上の威圧感と目を合わせてはならない。

 庇うネーシャも獣に睨まれたネズミのように恐怖を超えて、存在感を消そうと身を潜める。青ざめた目はただ一点を見つめ、掠れるほど小さい口呼吸で息をする。

 なのに僕の愚かな理性が地面につけた頭をかすかに持ち上げる。無害であることを呈する平服の姿勢から恐る恐る目だけを動かし、瞥見する。

 逆立つ毛が何倍にもアロンバウルを大きく見せ、荒く息をする体は呼吸の度に上下している。今までの奇襲から見せていた冷酷さはなく、今にも一帯を破壊し尽くす猛りを感じさせる。

 その変貌は、何か触れてはならないものを呼び起こしてしまった、強烈な不安感を煽る。

 ただし、シシリオは例外だった。


「カハハ! 痩せ我慢はやめたのかァ!!」


 槍を両手に握るシシリオが地平から駆け出す。間髪いれずに魔物は前足を振るうが、寸前で彼女は槍を地面に突き立て、上空へと飛び上がる。そのまま空中で回ると遠心力で引っ張れた槍は長い一本の棍棒と化し、アロンバウルの頭上から叩きつける。硬い頭蓋骨と鋼鉄がぶつかる、鈍い音。

 アロンバウルは姿勢を崩し、膝を折――らない。むしろその姿は残像を置き去りに、忽然と消えた。

 そしてシシリオに注ぐ太陽が隠れる。

 一瞬で彼女の上に回り込んだアロンバウルに怯みなど一切なく、屈めた臨戦態勢から発散された速度はまさに消失に近い。叩き落とさんと掲げられた尾巻き付く前足は、シシリオが防御する前よりも先に、シシリオを地面へと叩きつける。


「シシリオ…………っ!」


 落雷のような速度で地面に叩きつけられた衝撃で、彼女を中心に視界を遮る土煙が舞い上がる。日々の僕の訓練と、幾度も魔物の奇襲を防いだシシリオの脚運びと、激昂したアロンバウルの爪と逆立てた毛で地面は削られ、いつしか大量の土埃が堆積していた。

 僕が彼女の無事を祈る暇もなく、見晴らしの悪い土煙から槍が突き抜ける。さながらそれはいしゆみの砲。投擲された槍はアロンバウルの首もとに刺さる。アロンバウルは取り払おうと前足を振るが触れる前に、すぐさま槍は土煙の中へ引き戻され、再び槍が繰り出される。

 流石のアロンバウルであろうか。一撃を食らったとしても、二度目はなく、空中で身をよじって躱す。立ち込める土煙に向かって尻尾の前足を叩きつけ、次の瞬間、中で火花を明滅し、爪で搔き毟ったかのように土煙は霧散した。晴れた場所には真っ黒なものが置き換わっている。

 否、それは尾。巻き付いていた尾が錐揉み状に展開され、黒が埋め尽くしていた。

 中心の人影、左右の槍で身を守るシシリオの体には尾の流れに沿って、左半身に無数の引っ掻き傷が刻まれていた。毛先の粗い筆で塗った色のみたいにシシリオの血が地面を掻くように散っている。また地面自体も渦巻いて削れている。

 尾の獣毛が針金と変わらない強度を持ち、急速に広げることで削り取ったのだ。ゆえに守っても、槍の隙間からすり抜ける毛が彼女の肌を痛々しく削った。

 それでもシシリオは笑った。

 

「カハハ。痛いねぇ」


 前触れもなく、たちまち両者の攻撃がぶつかる。火花と風が舞い、肌がビリビリほどの衝撃が走る。

 縦横無尽にアロンバウルは走り回り、飛び回る。それは奇襲と似た動きではあるが、全身を使った攻撃は明確に隠れる意志がないことを示す。

 シシリオも真っ向から槍を構えた。

 再び火花が、火花が、火花が。夜空の星屑にも負けない量の火花が空中に乱れる。その一つ一つが攻撃の激突。音も衝撃も重なって畳み掛ける。

 僕の目で追えるのも、まるで切り取った絵のように脈絡のない、刹那の攻防の場面場面。戦いの全てを追うことは出来ない。

 でも分かることがある。

 戦いの楽しむシシリオの劇的な戦い方。痛みにさえ笑う、豪快な態度。まさしく狂気に染まっているみたいで、口調もわずかに聞き慣れない。

 まさしくシシリオは過去、こういう風に戦っていたのだろう。

 僕が思考した瞬間、また戦いも動く。

 森へと退いたアロンバウルは姿を闇に溶け込ます。しかしそれは逃げたのではない。取り囲む四方の森から大きな足音といびつな物音が駆け回る。何かを仕掛けるつもりだ。

 シシリオの研ぎ澄まされた感覚が迫り来る、何かを森の奥から捉える。一つではない、複数の気配に身構え、理解する。

 くぐもり、唸るような音が森から飛び出す。

 丸太だ。爪によって両断された丸太が、木々を抜け、シシリオ目掛けて四方から投擲される。一本だけでない。何本も、何十本もの丸太が、束となって襲いかかる。

 予想外の攻撃。

 唖然に染まる、その後に笑う


「カハハハハ! 薪の手間が省けるな!!」

 

 丸太を槍で叩き潰し、穿ち折り、絡み落とし、貫き砕く。一つ一つが空気を押し退ける質量の塊であるにも関わらず、左右別々に振るわれる槍は悉く、丸太を破壊し尽くす。

 そして当然、丸太の影に隠れて接近するアロンバウルにも気づいていた。丸太ごとその巨体を串刺しにせんとする、シシリオは槍を突き出した。

 丸太は爆ぜるように砕け――。




 狼

  は

   蛇

    の

    よ

   う

  に

  体

   を

    う

     ね

      ら

      せ

     て

    槍

   を

  避

  け

   る。


「マジかッ……!」


 驚愕するシシリオ。

 槍をすり抜けたアロンバウルの突進が串刺しを確信していた彼女を、取り囲む木の一本まで吹き飛ばす。ぶつかった最初の木はへし折れ、その奥の木で止まる。


「ごはっ!!」


 目を見開き、圧迫された胸が肺からすべての空気を吐き出させる。痛みと窒息、初めてシシリオが苦悶の表情を見せた。木を一つなぎ倒し、二本目の樹木に人を釘付けにするほどの威力に、流石の彼女もすぐには動けない。

 

 不味い。全身が粟立つ。

 終始優勢だったシシリオに訪れた、完膚なきまでの劣勢。

 僕の脳に一抹の焦燥と不安が流れる。


 そして。むご。黒く。

 彼女の。たら。大きな。

 脇腹に。しく。影が。


 刺さるずぷり

 

 長い二本の長い爪が木へ縫い付ける。


「う、がががぁぁァァァッ!!」


 喉を潰すほどの咆哮ぜっきょう

 やめろ。

 獣が彼女に顔を近づける。

 それ以上は、やめろ。

 睨み付けるように対峙する両者。互いの息もかかる距離は、今どちらが主導権を握っているのか明らかにする。


「かははっ。どうだい……どんな気分だい? 犬っころ」


 やめろ。

 未だ燃えるシシリオの瞳。

 だが、辛うじて右手が掴む槍は垂れ下がるだけで、その強がりがむしろ痛々しい。

 やめろ。

 もう終わりでいい。


 やめろと言って終わる戦争なんてあるわけがない。

 そんなものは親が怒ったら止める、子供の喧嘩だ。

 これは命を懸けた、戦いだ。


 剣の美しさを思い出す。

 ネーシャの料理を思い出す。

 道具を直した日々を思い出す。

 焚火の暖かさを思い出す。

 冬の寒さを思い出す。

 森の静けさを思い出す。

 シシリオの子守唄を思い出す。


 この手で絞め殺したウサギの顔を、思い出す。


「やめろ!!」


 ヒュンッ。僕が叫んだ横を何かが過ぎる。

 何の音。

 真横からした音に僕が目だけを動かし、見て理解するのに、一秒もかからなかった。


 赤頭巾から投げナイフを取り出し、片手はすでに投擲した後の、泣きそうなネーシャだった。

 

 どこから、ナイフを取り出しているんだ。

 全うで、笑ってしまうような出来事で、けれど場違いな感想はすぐさま消えることになる。


 ――暇潰しのナイフ投げ。

 ――ネーシャは正確無比で、名手だった。


 正確に、無比に、怯えた幼女が放ったナイフはそれでも無情にも美しい軌道で、不条理にも素晴らしい操作で――アロンバウルの左目に刺さった。


 凍りつく、時間が。


「…………ネーシャ…………」


 シシリオの。

 悲しそうな、驚いたような、怒っているような、怯えているような、苦しそうな、堪えているような、恐れているような、辛そうな。

 呟きは、割れた。


「ブンンンゥンンングンンンンンンン…………」


 眼球を潰された痛みに、アロンバウルは腹底で気味が悪い羽音のような呻き声を上げる。シシリオに刺していた爪も抜き、左目を押さえるような素振りを見せる。

 支えがなくなったシシリオは地面に無造作に落下する。突進によって力が入らない体を何とか起こそうとするシシリオは、腕をついて這いつくばりながらも僕らに顔を向ける。

 ひどく泣きそうな顔で、息を吸い。


 ――無害だから僕らは狙われないのだ。


 シシリオは叫ぶ。


!!」


 次の瞬間、僕はネーシャを突き飛ばして、を抜いていた。今日習うはずだった真剣は、両手で持っても重く、冷たい。

 ああ、知らなかった、こんなに剣を持つのって怖いのか。

 そして時は来る。

 アロンバウルはがこの左目を潰したのか、その有害を探すためにこちらに振り向く。

 満月のような瞳。


「――ッ」


 直視されることで生起される、おぞましさとのし掛かる恐怖。岩の間に落とされたみたいな圧迫感が襲う。

 獣の右目に写るのは、倒れ込んだ人間の子供と、剣を持つ人間の男。

 どちらが脅威か? 有害か?



 不敵に笑って見せる。

 震え上がること隠さずに。


「僕がやったんだ。どうだ、すごいだろ。


 挑発の意味は分からないだろう。

 しかし、獣はシシリオの言葉の音を記憶していた。意味は分からずとも、挑発であることは理解していた。

 怒りは、ない。揺れ動く感情はない。矮小な人間の挑発に感情を生起させるほど、自らを下等だとは思わない。

 ゆえにアロンバウルは『孤高』なのだ。

 代わりに黒濁の殺気という強者の権能を見せびらかす。


「――ッ」


 強烈な死の観念が僕を侵す。気を抜けば意識を失ってしまうほど強烈。

 だが、知っている。僕はシシリオの殺気を知っている。この程度の殺気なら死ぬまでもない。

 集中しろ、集中。

 冷静になれば、まだ動きは見える。

 落ち着け。僕は死なない。

 死ぬこと前提で戦う馬鹿なんていない。

 そうだ。生き残る。勝つ。

 勝つために、勝つために、冷静になれ。

 考えろ。頑張って考えろ。

 勝てる。勝つんだ。死なない。


「スゥー……ハァー……」

 切れそうな息を落ち着かせる。

 消えない塊の恐怖は角張って体内で刺さっている。それでも思考の邪魔になるものを排除していく。

 

 アロンバウルは理解した。

 目の前の人間は無謀にもとする愚者なのだと。

 ならばこの左目の痛みを晴らし、晴らし、晴らし、めったくらに潰し、刻み、晒し、屍の絨毯に加えることもなくこの場で踏み躙って、その小骨で足裏のマッサージをしてもらおうと。

 涎が零れそうだ。


 僕は。

 

 僕は踵を返して走った。

 敵に背中を晒して、持った剣は胸に抱えて。

 走った。

 逃げたわけじゃない。

 自己犠牲ってわけじゃない。

 死にたいわけじゃない。

 間に合え。間に合えっ。

 少しでも時間を稼げ。

 シシリオが復帰できる時間を、ネーシャが落ち着ける時間を、少しでも僕が生き残れる時間を、一秒でも長く、稼げ。

 息を吸った。息を吐いた。

 踏み込んだ足で、地面を蹴る。

 家の後ろに回る。走って三秒もかからない場所に行く。

 なのに加速する思考が一秒を何秒にも延長させる。早く終わってほしいのに、こんな感情を長くは味わいたくないのに、一歩一歩を進むのに途方もない時間を感じる。


 視界の後ろでアロンバウルが森へと姿を消す。僕よりも遥かに速い風の音は、目の前の茂みまで回り込む。

 いる。森の闇に紛れた、満月が浮かぶ。


 一か八かの時間稼ぎ。

 僕は決死の覚悟で飛び込み、幌を膨らませた荷車の下に潜り込む。間髪いれずにアロンバウルの前足が荷台を叩き。


 罠は作動する。

 

 ガチャン、ガシャン、ガチャン、ガシャン、ジャキン、ガタン、バチン、シャキン、ガチョン、ジャキン、ビタン、ガタン、ジャキン、ガチャン、ガシャン、ジャキン、ガタン、バチン、シャキン、ガチョン、バチン、シャキン、ガチョン、ガシャン。

 

 本領の罠たちが一斉にアロンバウルの前足に噛みついた。強い力が安全装置を歪ませ、誤作動した罠が次の罠を作動させ、連鎖的に罠が攻撃する。

 破壊された荷台と共に吹き飛ばされた僕は、僕が為せる最大の策を、そしてその無力さを目撃した。

 ただアロンバウルは前足を振ってノミでも払うかのように、噛みついた罠たちはポロポロと落ちていく。毛に絡まったトラバサミだけが残っているが、役に立っているようには見えない。

 頭上に佇む闇は巨大で、見上げても空が見えない。

 

 ああ、ああ、ははは、そうだよな。

 ――強い衝撃が全身を襲った。

 痛みとすらも処理できない激痛に、体の反応と頭の思考は乖離したのだと、凄まじい速度で森の中を吹き飛ぶ最中に思案する。

 僕はつくづく運が良いみたいで、木にぶつかることなく、地面に転がって減速し、止まった。湿った土と苔を全身に満遍なく擦り付け、なんともはしたなく横たわる。

 どこまで飛ばされたのだろう。

 ズキズキと身を引き裂くような痛みは感じるものの、他人事のように遠くの痛みに思える。耳に入る音は荒い呼吸とうるさい心音で、変わらず澄んでいる森の音は掻き消されてしまう。

 シシリオたちはどうにかなっているか。

 時間は稼げた。

 指は一本も動かない。


 けれど気配だけ感じる。

 大きな獣の気配を。


 アロンバウルはゆっくりと、一歩を踏みしめながら近づいてくる。


 僕は死ぬのか。

 死ぬのか……。

 なんでかな、怖さはあの時に比べて全然ない。

 でも悔しい。

 ここで死ぬことが悔しい。


 目の前に、僕が胸に抱えていた剣が落ちていた。

 どうやら僕は吹き飛ばされても失速する直前まで、必死に剣を抱えていたらしい。自分の身を守るために腕を使えばいいのに、愚かにも剣を抱えていた。

 ……いや、愚かなんかじゃない。

 シシリオに教わったんだ、剣の握り方を。

 僕だってまだ諦めてない。


 動かない体を無理矢理に動かして、腕を前に出す。体を引き寄せて、一歩、這いつくばる。


 獣が歩く。


 今度こそ、離さない。

 右腕を伸ばして、引き寄せる。

 左腕を伸ばして、引き寄せる。

 獣が歩く。

 右腕を。

 左腕を。

 獣が歩く。

 這いつくばって、手を伸ばす。

 遂に指が、その柄に、かかる。


 獣も、止まった。


 頭の中が騒がしくて、それはすぐに止んで。

 ピタリと音は聞こえなくなって、思考が澄んで。


 おもむろに獣の前足が上がる。


 声が聞こえる。


 ――言葉だ。

 ――忘れないで。

 ――託す、から。


 口が動く。

 言葉の砂の中をまさぐり、硬いそれを指先に引き寄せる。

 覚えているものは、聞いたこともないものだった。

 

「ゥ、ぎ、ぎ」


 ――だから、生きて。


「【義魂ぎ、こん】っ」


 体内で熱が駆け巡る。

 血が駆け巡る。

 光が駆け巡る。

 鉄が駆け巡る。

 感情が駆け巡る。

 記憶が駆け巡る。

 言葉が駆け巡る。

 金が駆け巡る。

 力が駆け巡る。

 半身が砕けたようで、また欠けた心を埋めていく。理解で出来ない感覚に戸惑いながらも妙な一体感に安心する。

 何かが指先に集まって、触れる剣へ託させる。浸透していき、表面的な変化はなくとも不可視の光が輝く。

 無機質の鼓動が始まる。

 歪んだ摂理が認められる。 

 

 頭の中に響く、声。


『嗚呼、漸く、貴方が見える』


 おんなの声は嬉しそうに響いた。

 初めて聞く声なのに懐かしい気がして。

 あり得ない事態なのに不思議と落ち着いた気分だった。


『少し体をお借りします。我が主』


 剣、握る。


 踏み潰さんとするアロンバウルの前足が閃き、爪先がズレ落ちる。その断面からは血液が吹き出る。前足を引っ込める獣は痛みに悶えたが、それよりも何が起きた分からず、首を捻った。

 何が起きた、んだ?

 困惑する僕の右手はすでに振り抜かれており、その掴むは高らかに掲げられた銀色の剣に獣血が垂れる。


『あとはわたくしに任せてください』


 飛び起き、斬る。

 アロンバウルの前足を斬り、腹を斬りつけ、後ろ足の腱を斬り、尻尾の筋を斬り、斬り、斬り、斬る。僕も獣も反応できないスピードで斬撃が、獣体を滅多斬る。

 かのじょを握る腕が、体が、僕自身が剣に引っ張られ導かれるように勝手に動く。目まぐるしく変わる視界、体勢、剣術。見えざる手によって操作される人形の如く、僕では絶対に出来ない剣術を軽々と再現させる。

 肉を断つ音。血と黒い獣毛が飛び散る。

 銀色の閃きだけが視える。


「ブンンンンンッ」

 

 アロンバウルは唸り、逃げようと身を仰け反らせるが、ガクンッと後ろ足が抜け、力が入らない。どちらの前足も上手く操れず、その場に伏してしまう。

 矮小な人間は死にかけであった。なのに突然、あの老婆にも匹敵する剣術でこの身を斬り裂き始めた。理解が出来ない。何が起きている。

 初めて獣は訳の分からない存在に困惑する。

 しかし着実に削がれていく身体が、その人間を始末しなければならない脅威だと断定した。


『少し、無茶をします。お気をつけを』


 体が加速する。剣に手を引かれ、垂直に立つ木々を足場に跳び上がり、アロンバウルの上空、毛に覆われた首裏を陣取る。四肢の動きを奪われた獣にとって完璧な死角。狙うは断頭。

 身を捻り、両手で握る剣もさらに捻り、回転の力を体に閉じ込める。体の浮遊が頂点に達した時、自然の摂理が背を押す。

 そして全身のうねりを解き放つ一刀が。

 

 ――ゴキッ、ゴキッ。


 まさに骨を折る音がアロンバウルから聞こえた。

 垂直にあるはすまの頭と背骨の位置がずれている。


 まさか。

 こいつ、自分で首を折ったのか?


 到達した刃は剣が見定めた骨の間ではなく、折ってズラされた首骨に当たり、強烈に弾き返される。ビリビリとした衝撃が腕まで響き、骨が軋むが、剣を手放すことはできない。

 それでも体は勝手に動き、木に剣を突き立ててアロンバウルの頭上を位置取る。


『我が主! 申し訳ありません!』


 剣の取り乱す声に応える。

 大丈夫……っ。

 むしろ君は欠けてないの? こんなに強くぶつかれば刃毀れしているかも知れない。


『気遣い痛み入ります。ですが私は大丈夫です。幸いなことに我が主のおかげで頑丈ですから』


 それなら良かった。

 安堵し、目下の獣を見る。首を折りながらもまだ息をしている。その生命力と闘争への覚悟には脱帽だが、しかしその息も虫の息ほどにか細い。

 遂に見える戦いの終わりに、今はそれ以上の思考の余白はない。剣がどうこうと考えるのは後でいい。今は、決着の時だ。

 勝手に動く体を僕も動かし、剣を握る手に力を入れる。


 最後だ。

 君の名前は知らないけれど、剣よ、僕の『つるぎ』として、その役割を果たしてくれ。

 そのためには、僕の体も、命だって全部貸す。


 託す言葉に剣から感情が伝わってくる。その色は歓喜。変化ない刀身が一層輝いて見える。


『承知しました、我が主。為せる最大の技で送りましょう』


 木を踏みつけ、剣を引き抜くように飛び降りる。

 空中で剣を構える、僕の知らない型で。


 アロンバウルの首にが巻き付き、その頭を180度回った捻り曲げた。虚ろ目を晒すが自害ではなかった。まさしく動かない手足に代わりに、その口吻が空中の僕らを噛み砕かんと狙う。

 虫のような無感情な合理性。殺戮に取り憑かれた本能が起こした最後の足掻き。生きているのか死んでいるのかも分からない、もはや反射的な攻撃は執念に近い。


「アタシを忘れんなよっ、犬っころ」


 アロンバウルの残った右目に、弩の槍が半ば突き刺さる。


 赤い頭巾がなびく。 

 両目を失った獣は暗闇の中、その身を痙攣させる。死でも生でもない狭間であるのに、闘争本能だけが牙を剥き続ける。

 僕はそれをただ憐れに思ってしまった。


『【一閃】、私の最速。死も知らずに死んでください』


 突き抜けた一刀。

 振り抜いたかのじょを静かに鞘へ納める。

 アロンバウルは動かない。鳴かない。

 ……ゆっくりと犬鼻から血が垂れる。ゆっくりと口吻が伸びるように首根にかけて縦一線に獣毛が短く切れて、ずるりと上顎から先が離れていく。熔けた蝋みたいな血と髄液と、まだ繋がろうとする神経が橋を作り、そして千切れて地面に落ちる。

 その獣は頭を落として死んだのだ。

 ズキンッ。操り糸が切れたかのように、僕に掛かっていた不思議な力は溶け失せて、痛みが広がる。堪らず、膝をつき、そのまま倒れる。筋肉という筋肉が酷使された影響で悲鳴をあげている。


「うっ。フゥー、フゥー、フゥー……」

『これ以上、体は借りれませんね』


 同意だ。

 流石にもう一度体を預ければ、筋肉痛だけでは済まないだろう。


「おいおい。ははっ。大丈夫か。レッド……おっと」


 ニヒルに笑うシシリオは刺されて流血する脇腹を手で押さえ、脚を引きずって来るが、彼女もまた数歩進むと力を失ったかのように倒れた。

 あの重傷でありながらなんとかここまで来たのだろう。ほとんど気力だけが彼女の足を動かしたに違いない。

 倒れた僕らの目線が地面を這って重なる。互いの満身創痍を見て、苦笑する。


「あんな大口叩いてこのザマなんてねぇ。アタシも老いたよ、本当に。アイテテテ……」

「そんなことないよ、シシリオ……脇腹の傷は大丈夫……?」

「ああ。これぐらいの傷なら大丈夫さ。ただ、多分全身の至る骨がヒビ折れてるな、こりゃ。痛くてまともに動けない。レッドこそ、よく戦えたな。すごい動きじゃないか」

「違っ……あれは」


 言い淀む。正確には、僕自身も説明できるほど理解しているわけではない。物事の起こりも、なぜ戦えたのかも、剣に宿った僕を「我が主」と呼ぶ女の声も、事細かにさっぱりわからない。

 そうだ。改めて考えれば、かのじょはなんだ。どうして声が聞こえ始めたのか。どうして僕は、声の主がかのじょであることを疑いなく、真っ向から信用しているのか。

 君は、一体、なんだ?


『……それは我が主がよく知っているはずです。私は所詮、与えられただけの存在。貴方が解するように、剣であり、魂のしもべ』


 僕が知っている?

 君は、何を言っている?


 熱い。剣が帯びる体温。

 顔を知らない、あるかも分からない剣の彼女は穏やかに笑った。


『我が主が与えてくれたのです、を』


 魂……。

 

 ――ドックン――

 

 思案を断るように、森に波打つ心音が耳に入る。その発信源は僕でもシシリオでもない。ましてや森が心臓を持っていることもない。

 この場で体外まで心拍音を響かせる巨体の持ち主は一匹しかいない。次第に亡骸の鼓動は速くなり、いびつなリズムを刻む。


『見ることも聞くこと触ることも、考えることも覚えることもできなかった。それが当たり前でした。むしろ感情を与えられる方が残酷かもしれない』


 アロンバウルの腹が内側から裂ける。中から血を纏い飛び出したのは、羊水にもまみれた小さな獣。

 ギュブブブブブゥゥ。

 蝿の羽ばたきみたいな気味の悪い産声が、燦然と祝福されることなく、鬱蒼とした森に轟く。いやそれこそが魔物における、この獣における誕生。

 母体とは異なる、奇っ怪で醜い形状の、生まれながらにして殺しの形だけは身につけた、アロンバウルの赤子であった。


『道具は、道具でしかない。使うだけ使い、壊れれば捨てる。大切でない限り、すべての道具は鉄屑へ戻る』


 そのアロンバウルは妊娠していた。我が子を守るために死に物狂いで戦っていたのか、安全な出産のために戦ったのか、それとも孤高な生き方とはいえ産み落とした子を見捨てていくのは忍びないと思ったのか、はたまた妊娠でただ狂っただけなのか。無数の答えのない憶測が漂う中、事実なのは、命を使ってまで戦った魔物は子を身籠っていた、というただ一点。

 その事実すらもどうでもいい。赤子は母の腹を裂いた、生え揃う爪を、目前で倒れる僕へと大きく振りかぶった。

 僕の体は、動かない。 


「ブブブブブブウウウッッッ」

「ううっるあああ!!!」


 力を振り絞って魔物の手との間に飛び込んだシシリオは両手を伸ばして僕を突き飛ばす。割って入ったシシリオは彼女がアロンバウルに行ったように、その我が子によって彼女の左足は折れ、ひしゃげる。

 骨を折られ、砕かれ、神経をも侵した激痛にシシリオの表情が苦悶する。だが、叫ばない。耐える。歯を食い縛って、汗が代わりに悲鳴になる。だってその奥には。

 ネーシャがぎゅっと赤い頭巾を握って立っていた。


『だからこそ、我が主。私は貴方に感服する』


 剣が鞘も含めてまばゆく発光する。森を強く照らすぐらいに、だが目を刺さない優しさに溢れる光が満ちる。剣は光の粒子となって霧散し、空中に小さな宇宙を広げ、今度は別の像を作ってまた集まっていく。

 唐突に殺伐とした森に蔓延する幻想に、誰もが息を飲んだ。瞬きを忘れる。シシリオは受け身を忘れ、ネーシャは怯えていたことを忘れた。

 魔物の赤子も、その良く分からない光に動きを止めた。その切断された腕のことも知覚せずに。


『私が戦う理由はすべからく『剣である』。だから斬ることは、貴方の母がやったことのように、守るために使います。それが例え生まれたばかりの命であっても斬り伏せる」


 赤子はゆっくりと輪切りにされた体を足元に落とす。死を知ること間なく。

 収束した光の像、その形は人を帯びる。足から胴や手腕から首へ、顔と黒く長い髪、そして全身に纏う銀の甲冑。

 振り返る彼女は、その手にかのじょ自身を握っている。その瞳は深く、青空を煮詰めた色。


「私は『エルロア』。剣がゆえの騎士道プライドです」


 赤子の屍に立つ、人と成った剣はそう名乗った。

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