第15話 成人への贈り物

 散らばった家の木片を集める手を止め、かれこれ数時間の作業の末に築いた残骸の小山を前に、僕は鼻下で結露した息を拭った。


「我が主、これはどうすれば」

「その呼び――ってうわ!!」


 恭しい呼び方に落ち着いた今になって気恥ずかしさを覚えながら、声の方向に振り向くと銀の甲冑を着た若い麗人が、僕が修理してアロンバウルに噛みついた罠道具たちを背負うほど持って立っていた。

 シシリオにも匹敵する怪力でありながら、屁でもないと真顔である。淑やかさと強かさを兼ね備える整った顔は美術品のような現実離れの美しさを秘めており、その異常性も同様に世界から引き離しているみたいだ。


「全部集めたの?」

「はい。我が主が直した道具たちです。放置しては可哀想でしょう。どうしますか?」

「取り敢えずそこに置いといて。流石に荷橇には全部載らないから壊れてない奴だけ後で仕分ける」

「承知しました、我が主」


 母がおんぶした我が子を降ろすみたいに膝を折って優しく道具を地面に置く姿は、さながらであった。

 そう。彼女は人ではない、と言うのは語弊もあるし、齟齬もあるし、何よりも彼女を傷つける言葉になってしまう。

 エルロア。

 僕が持っていた剣から人に成った彼女は、人らしく言葉を操り、人の形を完璧に模し、感情を携えて自ら『エルロア』と名乗った。


「じゃあエルロアさん。今度は家から衣類を探して持ってきて。夜になったら焚火のだけじゃ凍死しちゃうからさ」

「承知しました」


 アロンバウルとの戦いで半壊した家を見やる。今はまだ形を保っているがいつ倒れてもおかしくない不安定さだ。

 エルロアは僕の頼み事を断らない。言葉を濁さす言えば、きっといかなる命令であっても何一つ嫌な顔せず「承知しました」と実行するだろう。

 例えば殺せや死ねや壊せや、挙げ句には下卑た欲求にも応える、従順を越えた危うさを備える。そういうことが理由もなく分かる。


「はい。我が主の申し付けならば、この不肖エルロアがお応えさせて頂きます」

「ちょ! ややややめてやめてエルロアさん!」


 真顔で躊躇わず甲冑の留め具に手を伸ばすエルロアを制する。取り乱す僕に彼女はやはり従うが、真顔であるのにどこか不満そうだ。


「承知しましたが、しかし我が主、わたくしに敬称を付ける必要はありません。私は貴方の魂の一部を頂いた"道具“、剣です。貴方がいるからこその『わたくし』。ゆえに敬称は不要です」

「そうは言ってもエルロアさん――」

「さん、は、不要です」


 圧がすっごい。

 僕より背が高いエルロアは腰を折ってずいっと顔を近づけてくる。美人すぎる真顔が相乗してひとしお威圧感がある。

 こうまで迫られるとどちらが主で、どちらが遣いなのか分からない。


「エ、エルロア」

「はい。我が主。では、衣類を探してきます」


 エルロアは少し口角を上げ、嬉しげな歩調で今にも崩れそうな家に衣類を探しに行った。

 事実、彼女が言っていることは全て正しい。僕が考えていることや、見ている光景もおそらく正しい。だがこれを説明するにも長く、複雑な話をして僕自身何が主張したくて、どれが蛇足や推測なのか混乱する前に、頭の整理も含め、確信を得ていることを列挙していこう。

 

 一つ目、エルロアは僕が持っていた剣である。

 信じがたい話だが、実際に剣から彼女の声は聞こえ、挙げ句には騎士に成るのを目の前で見た以上、疑える余地はない。

 記憶もなければ世界も知らない僕が知る限りの常識では、少なくとも無生物が命を突然に得るなどあり得ない。けれど、彼女は呼吸するし、その息は暖かかった。

 それだけでは証拠として甘いなからば、やはり彼女が腰に下げるかのじょ自身だろう。僕が持っていたものと寸分違わない、美しく繊細な意匠の銀色の長剣。複製のようにも見えるが、エルロアは「私の一部」と言っていた。

 その剣は甲冑を着るエルロアが持つに相応しく、まるでその甲冑と剣がもとより一つの完成された騎士の造形を築いている。

 

 二つ目、僕と彼女は魂で繋がっている。

 これまた素頓狂な話だが、僕自身も嘘みたいな話だと思っている。"魂“という見えも触れもしない、感情よりも存在が不確かな物を、確信を得ている話でするなんて馬鹿馬鹿しい。

 ……でも僕は、有ると断言してしまう。客観性も論理性もない、誰に説明しても納得を得られないことを承知の上で、エルロアは僕の魂の一部を与えられている。それを直感している。

 魂を与えられた側のエルロアにとってまさしく僕は命を与えた創造主。彼女が敬おうとしている理由も頷ける。

 僕もエルロアもつまりは同じ魂を共有している。そのためか僕と彼女の間に透明な糸のような、鎖のようなもので繋がっている感覚がある。その"糸“を介して互いの考えていることが何となく分かり、相手の方を意識すれば思考だけで会話することもできる。先程エルロアに思考を読まれたのはそのせいだ。

 また推測の範囲で述べれば、魂が繋がっているエルロアとは僕の疲労だったり痛みだったりは"糸“を伝って分散されるみたいだ。こうしてアロンバウルと戦って数時間も経っていないのに僕が元気に活動できているのも謂わばエルロアに疲労や疲れを半分肩替わりしてもらっているからだ。

 そして何よりも魂の繋がりの裏付けとして、エルロアを誕生させるに当たった死の間際に思い出した、知らない言葉。

 【義魂】。脳裏に浮かんだ刻名文字。

 これが関係しているのは確かだ。だが、一旦この話は横に置いて、分かっていることを更に述べよう。


 三つ目、エルロアは強く、優れた騎士である。

 見ての通り、彼女はシシリオにも引けを取らない怪力を持ち、アロンバウルすらも圧倒する剣術を持っている。

 どういうわけかは分からない。生まれが剣だから優れた剣術を発揮できるのか、優れた剣であるから比例して剣術も優れたものになったのか、そもそも比例するものなのか否か、それはエルロア自身にも分かっていない。

 なぜならエルロアも、記憶がないからだ。


『はい。"使われてきた“感覚はありますが、道具時代の記憶はひとつもありません。ですので私自身もわたくしが何で、我が主との関係も一切が不明です』


 エルロアが意識を得た中で初めから知っていたのは二点だけ。

 僕が魂を分け与えた人間であること。

 そして、自らの名前が『エルロア』だということ。


『エルロア。それが私のなまえなのか、ただの思い付きなのか、産まれつきなのかも分かりません。しかしエルロアという名前が私の名前なのは、生まれたての赤子が息の吸い方を習わずとも知っているように、知っていました』


 分かることといえば、言葉にできることといえば、以上だ。

 次は分からないことだが、分からないことをつらつらと説明できるはずもないので、端的にしよう。

 【義魂】とは、なんだ。

 能力なのか、奇跡なのか、呪いなのか、祝福なのか。僕がやったのか、エルロアに備わっていたものなのか。いや僕の感覚で、僕が魂を与えるものなのは間違いないが、ではどうしてそんな代物が僕にあるのか。少なくとも考えられるのは、記憶喪失する前の僕にまつわる可能性があるという点だけだ。

 端的である以上、それ以外の疑問はまだない。


独白モノローグは済みましたか、我が主』


 頭の整理だよ、エルロア。

 こうも訳がわからなくなると、頭がこんがらがって自分でも何を考えているか分からなくなる。その前に一旦の物事を整理した方が、次の問題について焦らず向き合える。焦らず、冷静に、毅然としていなけらばならない。

 冷静が大事だとシシリオに習ったばかりで冷静さを欠いてしまっては習った意味がない。

 庭のふちで幌を屋根代わりに木々の隙間に張った簡易テントの下にいる、すり鉢で薬を調合するネーシャと包帯に血を滲ませて横になっているシシリオへ目を向ける。

 熱心にネーシャは調合している。その足元には薬草の屑と開いたまま薬箱が落ちている。調合しているのは僕がシシリオに運んで来てもらった時に塗られていた薬草入りの軟膏だ。家に仕舞ってあった蜂蜜と潰した薬草を適切な分量加え、スプーンのような棒で混ぜる。ただでさえ固い蜂蜜に潰すと粘り気が出る薬草を混ぜると、僕でも混ぜるのに一苦労する。


「んっ! んっ!」


 ネーシャの隣に膝を付いても彼女は気づかず、凄まじい集中力で蜂蜜で重くなった棒で混ぜている。むしろ幼女が見せてはいけない鬼気迫る表情が、同時に危うさを秘めていることに僕は気づいていた。

 なるべく優しく声をかける。


「手伝うよ。何すればいい?」


 シシリオは現在、気を失っている。大量の出血で艶のあった肌の血色は失せ、皮膚は年相応の老婆みたいに皺が増えている。

 彼女は強がっていたが心よりも先に、体が限界を向かえていたのだろう。気絶よりも失神の近い様子で、エルロアが顕現してすぐシシリオは気を失った。

 常人であれば致命傷であるができる限るの応急処置とシシリオの異常な生命力のおかげで、弱々しいながらも呼吸をしている。


「あ、にぃに。ばぁばのほうたいをとってほしいなのです」

「わかった」 


 言われるがまま僕はシシリオを覆う包帯の結び目に指をかける。

 ひどい傷だ。ほどいた包帯の下から露になったのは、アロンバウルの尻尾で逆撫でられた半身を覆う爛れたような傷。脇腹に爪で開けられた穴には止血の布が詰められ圧迫され、ひしゃげた左足は真っ直ぐに伸ばして添え木を当てている。

 その痛々しさに耐えれず眉をひそめる。どの傷も例え治ったとしても一生残る傷だ。後遺症も出るだろう。そしてどれも僕らを守ろうとして負った傷で、左足に至ってはきっともう……僕のせいだ。

 黄金色の液体がシシリオの傷に垂れる。ピクリとも表情を変えない真剣なネーシャは、拵えた軟膏を解体用の皮手袋を嵌める両手いっぱいに掬うと、シシリオの傷を包み込むように塗っていく。塗布した軟膏を肌に密着させるように新しい包帯で巻けば今できる処置のほとんどは終了する。

 作業を終えたネーシャは緊張の糸が切れたのか、皮手袋を嵌めたままペタンと力なく座り込んだ。まるで心を持たないぬいぐるみのように俯き、静かに口を開いた。


「ちにふれると、びょうきになるってばぁばはおしえてくれたなのです。ちはだって。ぜったいにすでじゃダメって。でも、でもっ、ばぁばはやさしいなのですよ……?」

「……そうだね。シシリオは優しいし、強くて、凄い人だ。僕らを守ってくれた。その血は気高いよ」

「はい。わたくしもシシリオ・ロッソは尊敬に値する人物です。魂の繋がりで我が主の記憶を少し見ましたが、その逞しさはまさに英雄です」


 声に見上げると、衣類を集め終わったエルロアがいた。彼女も僕の隣に膝を折り、穏やかな目を向けている。

 だが、ネーシャは違う。皮手袋を乱暴に脱ぎ捨て、手袋についていた血はネーシャの頬に飛び散った。琥珀色の目は、今にも泣き出すのを怒りで我慢しているように見えた。


「ばぁばはっ、ばぁばはッ! ぜったいにしなないなのです!! ぜったいに!! つよくて、やさしいから、もりはばぁばをとったりしないのですッ!!! ぜったいぜったいぜったい!!!」


 声を荒げ、肩で息をするネーシャのそれは祈りだった。齢十にも満たない幼女の気丈な振る舞いはいたい気で、痛々しくて、いたたまれない。

 ゆえに僕は倒れないように見つめ返す。


「ああ。そうだ。ネーシャ。シシリオは死なない。絶対に死なない。死ぬ姿なんて思い浮かばない。きっとすぐまた昨日みたいに元気になるさ」

「ぜったい! ぜったい! ぜったいばぁばはげんきになるなのです!! だから、う、ううぅ、うううウウウウウッ、わあああああああああ!!!」


 言葉の途中ネーシャは僕の胸に飛び込み、決壊した。顔を埋める僕の服に段々と濡れた感覚が広がっていく。哭きながらしゃっくりを上げ、震えて縮こまるネーシャの小さな背中を優しくさする。

 本来は、ネーシャは初めから泣きじゃくるべきで、何も出来ずに怯えるべきで、ただシシリオに寄り添っているだけでよかった。それが年相応なネーシャであって、瀕死の育て親を前に淡々と応急処置を施し、嘘でも気丈に振る舞ってしまうのは異常だ。

 だが残酷な世界だからこそ、シシリオは一命を取り留めている。異常を強いているからこそ生き長らえている。

 この事実が僕に酷く無力感を植え付けた。しかしそれを隠して、しっかり泣けたネーシャに安堵とやるせなさを感じながら、処置されたシシリオを見た。 

 シシリオ……貴女は死ぬような人じゃない。こんな所で死んでいい人じゃない。虫のいい話だけれど、シシリオは生きるべきだ。


『半々でしょう』


 エルロアの念話が届く。

 その意味は知りたくないな。


『……失礼します。ですが、シシリオ様が危篤な状態なのは私でも分かります。現状、今の私たちに出来ることがない以上、願ってばかりではいられません』


 それって、つまり?


『恐縮ですが我が主、備えるべきです』


 備えるって何にだよ、エルロア。

 込み上げてくる感情にネーシャの背中に回した拳を握る。世界と乖離したみたいに泣き声さえ遠くに感じる。


『…………私が申し上げることではありませんでした。すみません。私も我が主が信じる、シシリオ様の生命力を信じます』


 僕は奥歯を噛み、エルロアは立ち上がる。


「では私は他の作業をして参ります」

「……何をするの?」


 僕の問いにエルロアは少し黙り、周囲を見回してその空気に、風景に、身を任せる。物憂げで、悲しそうで、寂しそうに見つめる。人間らしい情緒的な身振りは、否応なく美しかった。


「ここは我が主の大切な場所です。その一つひとつが失われてはいけません。だからせめて私が出来る範囲で守りたいのです」


 そう言ってエルロアは家に向かい、僕らが使っていた道具を一つひとつ拾い上げて、整理し、僕が読んだ本やネーシャの学習帳は布に包んでから無事な木箱に仕舞っていく。

 腹立たしかった。

 込み上げる言葉を抑えられない。


 エルロア。脳内の言葉で呼び止める。


『はい』


 どうして意見を変えた。

 君は、シシリオが"死ぬことに備えろ“って言いたかったんだろ。僕に同情して、主の僕の機嫌を取るために本音を隠したのか。

 それならやめてくれ。

 僕だって、理解している。僕らは手を尽くして、最善を尽くして、この始末だ。このままで良いとは微塵も思ってない。どうしようもできない。医者に見せないといけない状態なのも重々承知で、こんな処置はおまじない程度の効果しかないかもしれない。

 そんなの知っている。

 でも言葉にしたら、ダメだ。

 もし少しでもそう思ってしまって、仮にそうなってしまったら、僕は、もう自分を許せる気がしない。


 エルロアは長く沈黙した。

 不意に、彼女の感情が逆流してくる。

 何事かと、流れ込んできたエルロアの感情に戸惑いながら、家で佇み、拾い上げたそれを見つめる彼女を、見つめた。


『………………私は意見を我が主のために変えた訳ではありません。私も理解したから、意見を変えました。シシリオ様も私と同じく『剣』であったのだと』


 その手には、僕らが使っていた訓練用の木刀が握られていた。


『シシリオ様は、我が主とネーシャ様の剣です。騎士です。ならば体が傷つこうとも、守るべきものがいる今、死ぬわけにはいかない。だから、死にません』


 なんだよ、それ。

 シシリオの邪魔するもの全てなぎ倒す戦士論法みたいな、論理の欠片もない、説明にもなってない滅茶苦茶な理由。

 思わず僕は。


「ははっ」


 笑った。

 

 暫くして泣き止んだネーシャの頭を頭巾越しに優しく撫でて落ち着かせる。しゃっくりを上げていたネーシャの呼吸も落ち着いていった。


「ネーシャ。メーデルの町までの行き方は知ってる?」


 僕らが年明けに向かう予定だった、イズメ森林の辺境に位置する町メーデル。あいにく僕はここからの行き方を知らない。

 ネーシャは顔を上げた。目元を赤く腫らし、涙や鼻水で綺麗な顔がぐちゃぐちゃになっている。しかし泣き止んだとは、幼女でありながら大人びた決断をできたということ。コクンと頷いた。


「うん」

「なら明日、シシリオを荷橇に乗せて、メーデルに向かおう。シシリオの傷は医者に見せなきゃ治らない。メーデルに医者とか……薬師ぐらいはいるでしょ?」

「うん。ピップおじちゃんが『りっぽー』つかってなおせる、たぶん」


 ピップおじちゃん?

 なんか、どこかで聞いた気がするな。


「苦しゅうない! っておじちゃんなのです」

「あー」


 胸を張って、フフンと威張る。その姿は見覚えがある。確かに僕が目覚めて、まだレッド・ロッソになる前のやり取りで出てきた人だ。


「ところで『りっぽー』って何?」

「んんんー? わかんない」


 『りっぽー』についてネーシャも分からないようだが、シシリオを治せる候補てして挙げられたのだから問題はないだろう。


「ネーシャはもう大丈夫?」

「うん。もうだいじょうぶっ」


 健気に笑い、すぐに真剣な視線をシシリオへ向ける。その身を祈っているのだ。

 さてどうするべきは決まった。


「じゃあ明日の朝、ネーシャ船長の先導のもと、メーデルに出発だ!」

「おー!」


 よいよいと意気込んでいる僕らは決して空元気に振る舞っているわけではない。不安も絶望感も色褪せていないけれど、それ以上に希望や覚悟で上塗りしている。仮初めかもしれないが、絶望して足踏みするよりも楽観的に歩める方が断然に良い。

 忙しなく僕らは夜を越すための準備を始めた。幸いなことにここは野宿になっても家で使う薪や食料は外に保管していたので、いつもと大して変わる作業はなかった。

 ネーシャと手伝いながら一つひとつこなしていく。焚き火を体温が低いシシリオは服でぐるぐるに巻いた上で近くに点け、崩れないように火の回りは丸石で囲んだ。その上に鍋を置いて、氷室から食料を出して水と一緒に煮込んでいく。放置すれば夜寒にも凌げる暖かいスープになる。


「レッドにぃに。あのひとは、だれなのです?」


 家の内側に倒れた瓦礫を撤去しているエルロアを指差した。

 今更になっての質問に、なんと説明すればいいか考える。ネーシャの適応力もあるが、エルロアはあの時の口上で自己紹介を済ませたと考えているのも騎士といえば騎士らしい。

 ネーシャはエルロアが顕現した現場にいたので光の粒子が彼女に成ったことを目撃している。だが言葉を話して人の形をしている以上、人間と説明した方が物事は丸くおさまる。はて、どちらの方がネーシャに伝わりやすいだろう。

 ……僕も良く分かっていないのに無理して説明して、ネーシャに不信感を与えるよりかは簡単な説明だけでいいだろう。


「あの人はエルロア。僕が持っていた剣から人になったんだけど……僕の力で人になったらしい。あー、なに言ってるか分からないよね」

「うん。でも、レッドにぃにのひとなら、エルロアさんはやさしいひとなのです」


 ネーシャの無垢な信頼に、自然と嬉しさに微笑む。僕を経由して届くのネーシャの言葉にエルロアもまた僕らから見えないように口元を綻ばせた。


「エルロアは、そうだね、優しいし、強くて、頼もしい」

「にぃには、エルロアさん好きなのですか?」

「ん?」


 唐突な質問に返答を渋る。

 少し考えてみて、口に出しながら反芻した。


「エルロアは……剣で、仲間っていうのか……いやそれとも主従関係? んー、長い付き合いって訳でもないし……。でも、そうだな、信頼しているから『好き』かな」

「じゃあネーシャもエルロアさん好きなのです!」


 ネーシャはにへっと笑った。

 その純真で、素直な、かわいらしい答えは、いつものネーシャに戻ったのだと理解する。ネーシャの僕への過信は危なっかしいのに、僕のあやふやの思いを固着させてくれる愚直な信頼は同時に頼もしかった。

 ネーシャをシシリオと共に幌のテントに置き、僕とエルロアは倒したアロンバウルの処理と毛皮削ぎに森の中へと向かった。つい数時間前まで死線だった、僕が吹き飛ばされた道をいく。

 ぴったりとくっつくようにエルロアは僕の隣を歩く。どこか嬉しそうに見えた。


「好き、と仰ってくれるなんて我が主は心優しい人なのですね。まだ通じ合って半日も経っていないというのに。私、感激しています」

「好きって言葉も色々意味があるからね、エルロア。僕の好きは仲間とか相棒とかのやつだから」

「ええ、わかりますとも。何せ魂で通じ合っているのですから、『好き』の意味も分かります。ですが、やはり我が主の口から言われると格別なものがあります。仲間、相棒……かつて道具だった身としてはこの上ない褒め言葉です」

「ああもうっ恥ずかしいからやめてよ! わざわざ言わなくていいから! 先に言ったのは僕だけれどもッ」


 しみじみと僕の発言を噛み締めるエルロアに照れくさくなって声を張り上げる。本人に褒め言葉を掘り返されるのがここまで気恥ずかしいものなのかと、熱くなった顔を彼女から背けた。

 歩くと、すぐさま木々の隙間から大きな黒い影が姿が現した。大きな毛玉のようなそれは当然、斃れ伏すアロンバウル。不気味でありながら、生気のない森に忽然と現れる獣の気配は霊妙だ。

 巨大、第一印象は改めてそれ。胴回りですら見上げてしまい、頭から尻まで見るには首を左右に振ってしまう。

 次に感じるのは、死体でありながら体に残る凶暴性。死ぬ間際まで戦い抜いた魔物だからこそ、死して尚立ち上がってくるのではないかと思ってしまう迫力がある。

 真っ黒な母の腹を裂いて出た赤子のアロンバウルは幾つもの肉片になって散らばり、胎中に残っていた下半身はずるりと滑り落ちたのか、紐帯と胎盤を引っ付けたまま羊水で湿る体は地面で横たわっている。

 その死骸らを見回していると、アロンバウルの前足の毛にトラバサミが噛みついたまま残っていたのを見つけた。ウサギや鹿を捕らえる小さなトラバサミであるが、最後まで巨大なアロンバウルに食い下がっているように見えて、僕自身と重ねてしまう。

 無謀で、無理で、無駄に等しかった戦い。実際、無駄だったのかもしれない。エルロアという奇跡が起きたからこそ生き延びただけで、本来はこのトラバサミと同じ運命だった。


「お前も、頑張ったなぁ」


 トラバサミの鉄の歯を撫でる。愛おしさを感じる。このまま放っておくのも忍びなく思え、何よりも僕が持ったちっぽけの勇気を肯定しているように思えて、噛んだ毛を解体ナイフで丁寧に取り除き、腰の金具に引っ掛ける。ずっしりと重たい。これはお守りだ。


「じゃあ、暗くなる前にさっさと解体しようか。エルロア」

「承知しました」


 エルロアが剣を抜く。この巨体を解体ナイフでやろうにえらく時間は掛かるだろうし、毛が邪魔して切り進めることもままならないだろう。エルロアの機動力と剣の長さは丁度よかった。

 僕は頭の中でシシリオから教わった動物の解体方法を参照する。二度ほど習い、何度か作業を見ていただけで曖昧にしか思い出せないが、この際懇切丁寧にやる必要はない。やるべきことは僕らがいなくなる間に腐敗して病気を流行らせないように、解体して、葬送することだ。


「わざわざ葬送と表現しなくていいのでは?」


 エルロアの質問に首を振る。


「僕らの命を脅かした敵、シシリオは重傷で、僕も危うく殺されそうだった。でもそれは戦いとして自然だし、本にも書かれてた。"魔物には侵略性がある“。それってつまり、生まれつきの性質で、直すことなんて出来ない。初めから、そういう『役割』を持っているだけで母も、子も、戦いから逃げられない、でも多分、僕らだってそんなんだ」


 僕らは生きることと戦うことは切っても切れない世界に生きている。そうであることを身に染みて理解していくだろう。

 残酷で、不条理で、理不尽な世界。

 でもそれが時に美しく光る。残酷だからこそ光輝くものが、世界にはある。


「生きるっていうのはこういうことで、生きるってことに罪はない」


 生きるために抗うこと。生きることで知る、命の軽さと命の価値の重さ。生き残ったがゆえに聞こえる、鼓動の静けさ。


「僕らは成長した。戦いでしか、命を懸けてでしか分からないことを知れた。エルロアも生まれた。だから感謝して、弔う」

「…………分かりました。我が主が言うのであれば、手厚く弔いましょう」


 解体手順をある程度理解したエルロアが剣を振り、アロンバウルの獣毛を剥がしていく。瞬く間に毛皮と身体に別れ、身体は肉へと変わっていく。血抜きはしていなかったが、斬られた断面は驚くほど滑らかで最低限の出血しかしない。漂ってくる鉄臭さと肉の臭いに顔をしかめてしまうも、エルロアは曖昧な知識を元に手際よく解体を進める。あっという間にあの巨体は獣の見る影もなく細かい肉片と変わっていた。なだらかに並べ、その上に土を軽くかけて隠す。これで今僕らにできる弔い方だ。

 呆気ない。その光景を前に、終わった戦いとその処理も終わった現在に、妙な脱力感と言うか、寂しさを覚えた。

 空も少し暗くなってきた。アロンバウルの毛皮を全て持って帰るのは難しいので背負えるぐらいの量に切り揃えて、来た道を戻る。暗くなっても遠くに見える焚き火は燦然と輝いて道しるべとなり、側にいるネーシャとシシリオを守るように照らしていた。

 すぐにネーシャは湯気の立ち込める白濁したスープをよそってくれ、一口飲めば体の芯から暖まる。悴んだ指先も器越しにスープが暖めてくれる。鬱蒼としていた胸の奥が澄んでいき、夢の世界から覚束ない現実へ戻されたかのような安堵を覚えた。

 ネーシャが手を止めて、首を傾げた。そっちを見るとエルロアが僕らの食事を眺めながら、じっとスープの入った器を両手で持ったまま固まっていた。


「エルロアは食べないの?」

「……戸惑っているのです。生まれて始めて食べ物を前にして、どうすればいいか」


 食事とは、産まれた時から行う本能的な行動だ。母から乳を貰う赤子は本能で飲み方を知っている。食事をせずに大人になった人間などいない。

 だがエルロアは、それだ。

 大人にして、食事の仕方を知らない。


「食事はできるの?」

「空腹は感じませんが、食事は可能だと思います。汗をかいたりはしているので道具由来でも人並みの生理現象はあるようです」

「じゃあ、ネーシャの作ったスープ食べてみなよ。美味しいからさ」

「……分かりました」


 エルロアは漸くスプーンを持ち、スープを肉の一片と共に掬い上げる。じっと湯気立つスープを見ると、彼女はその輪郭を確かめるようにスンスンと鼻で匂いを嗅いだ。僕としては野菜や肉の出汁の匂いが良く出た食欲のそそる香りだが、エルロアにとってはどうなのだろう。


「じー……」

「……ね、ネーシャ様、そこまで見なくとも」

「じー……」

「……で、では、いただきます」


 ずっと見つめているネーシャの視線に耐えかねたエルロアは意を決してスープを口に入れた。その瞬間、彼女は目を見開いて止まり、ゆっくりと咀嚼して、飲み込む頃には恍惚に蕩けた目をしていた。そして再びスープを飲み、さらには器ごと傾けて豪快に飲み干すとエルロアは、大粒の涙を流した。

 暖まったエルロアの口から漏れ出た息が、白く渦巻いて夜に消える。


「美味しい……のですね、これが生きるということっ。ありがとうございます、ネーシャ様、我が主」


 絞り出された声。下げられた頭。

 表現のしようがない、最大の感謝。

 魂で繋がる僕には、彼女の感動が全て伝わってきた。彼女だけの感情ものが僕にも届いてしまった。

 エルロアが初めて経験した、誰にも触れることができない、彼女だけの世界が満たされていく感覚。道具では決して知ることができない、内側から温まる生への実感。

 飢餓を満たすものとは異なる、まるで生きていることを祝福されているような喜びがエルロアの中で起こる。

 たったスープの一杯が彼女を人にした。


 衣服を過剰に纏って、それでも肌寒さに身を縮ませて蓑虫みたいに眠り、白んできた光を浴びて朝を迎えた。

 過剰に纏った衣服の窮屈さにもがきながら脱出し、それでまた冷えた空気にコートを羽織る。

 薪がくべられ、一日中燃えて積もった灰と炭の上でメラメラと焚き火がたいている。僕は火に手をかざし、彼女に話しかける。


「寝なくていいんだね、エルロアは」


 テントの前で仁王立つエルロアが僕の声に振り返る。


「はい。眠ることも可能みたいですが、今日は起きているべきと思いましたので」

「ありがとう、見張り。良く寝れたよ」

「はい。ぐっすりでした」

「……寝顔見るために起きて?」

「……少しだけです」


 何が少しだけなのかは分からないが、見張りをしてくれたのは感謝だった。夕食の後、僕らは自覚していた以上に疲弊していたのか、魔物に襲われたばかりなのに無警戒でそのまま眠ってしまった。

 僕らと同じく蓑虫になっているシシリオを見ると、昨日に比べて呼吸は安定し、血色も少しだけ良くなっているように見える。ネーシャの応急処置もあるだろうが、持ち前の生命力が一番シシリオ自身の命を繋ぎ止めたのだろう。意識はまだ戻っていないが、山場は過ぎたと一安心する。

 隣でモゾモゾと蓑虫が蠢くと、服の繭からネーシャが這い出てきた。眠そうに半開きの目で周りを見渡し、大欠伸をした。


「ばぁばは……?」

「大丈夫そう」

「ほんと……?」

「うん」

「よかった……なの、すぅ」


 それだけ言い残して、ネーシャは再び丸くなって寝た。今のネーシャは赤い頭巾を外し、金色の髪とおさげを見せている。こうしてまじまじと見るのは初めて新鮮な気分だ(寝室は別だったからネーシャの寝顔を見ることも全くなかった)。作り物みたいに綺麗な髪を柔く撫でると、ネーシャは柔らかく笑った。


「それじゃ、出発の準備をするか」


 荷橇に持っていく物(衣服や数日分の食料、直した道具など)を乗せたり、防寒具や装備を整えて遠出できるようにする。その途中でネーシャも完全に起床し、一緒に準備した。

 朝御飯を軽く食べ、荷橇に乗せた荷物をなだらかにして背凭れを作り、エルロアと協力してシシリオをその上に寝かす。橇を引いても落ちないように紐を回し、くくりつける。

 またここに来るのは何年後になるのだろう。出発前に家とその周りを少し歩いて記憶に焼き付けていくけれど、見慣れた光景を僕はいつか忘れてしまうのだろうか。

 じっと風が吹き込む家の真ん中に立って、エルロアが少し整理した家具の配置は一日前の場所とは微妙に異なり、けれど微妙に全貌を思い出せないもどかしさに寂しくなった。

 暖炉の上に置いてあったのは何だったか。

 棚に置いてある食器の順番はそれだったか。

 壁に掛かる燭台はその向きだったか。

 水差しはいつもどこに仕舞っていたか。

 茶色い壁や床に囲まれて、視界の端に色鮮やかな物がぽつんと見える。シシリオがどこからか摘んできた咆黄花スイセン――春告草が床に落ちていた、その花弁は開いて。


「…………」


 シシリオ達との生活は今日のように思い出せる。細かなやり取りは覚えていないけれど、どれも鮮明に記憶している。

 僕は落ちていた花瓶を机の上に立て直し、少し水を注ぎ、そこに咆黄花スイセンを生けた。一輪で華やかになることもないけれど、何もないより遥かに"生きて“いた。


「ありがとう」


 感謝する。宛先は、ここだ。


「我が主、そろそろ出発しますか?」

「うん。そうだね。行こうか」


 背後からかかるエルロアの提案に僕は踵を返し、家から離れて三人のもとへ行く。ネーシャと僕が前を歩き、力のあるエルロアがシシリオを乗せた荷橇を後から引く、そういう列に自然になる。僕らはネーシャの先導に従って、森を分け行く道を辿っていく。


 きっとネーシャとシシリオは一段落すればまたここに戻って、再び森での生活を送るだろう。変わらず、ただ年齢だけを重ねて、いつしかネーシャが成長して僕に歳が追い付いても、昨日のような生活を送るのだろう。レストランを町に出しているかも知れないが、シシリオはきっと残るだろう。

 そこに僕はいなくとも、また僕がいなかった時の生活に戻るだけ。僕がいたのは三ヶ月にも満たないごく短い間で、僕がいない日々に戻るのはすぐだろう。家もそういう風に自然と住み心地を変えていく。

 だとしても、僕は『ロッソ』としてまたここに帰ってきたい。いつか帰郷する時は、記憶を失う前の僕の故郷ではなく、ここに帰りたい。

 だから。


 いってきます。


 寂しさをぐっとこらえて、胸の中で段々と離れていく我が家に別れを告げた。


 踏み固められた、森を突き抜ける一本道を進む。木に刻まれた赤い印とネーシャに従い、代わり映えのしない薄霧のかかる道中を数時間休み休み歩くと、いつしか周囲は霧は晴れ見通しが良くなるが、日没で薄暗くなった。カンテラを灯し、歩き疲れたネーシャを背負いながらさらに行くと緩やかに森は散り散りになりはじめた。魔物に襲われることもなく順調に進み、鬱蒼と覆っていた葉は空を見せ、そして、僕らは森を抜けた。


 そこは広い草原だった。

 遠くまで見通せる、遮るものは何もない、草原。

 果てしなく、果てしなく続く草原と青白い夜空の境界線は溶けて消えてしまう。少し遠くでカンテラの火のように灯る町が、さらに境界を曖昧にしている。延びる道の先はそこに行き着くのだと分かる。

 圧倒される光景に、無限の広がりを見せる世界に僕は止めていた足を、ゆっくり踏み出した。背後に続くエルロアも同じように荷橇を引く。


「ネーシャ、ネーシャ。起きて。見えてきた」

「ん、んぅ? にぃに……?」

「ほら、町だ。あれがメーデル、だろ?」


 背中で眠そうに船を漕いでいたネーシャを揺すって起こすと、彼女は目を擦り、暗闇に見えてきた町の明かりに笑顔を咲かせた。

 それは語るよりも雄弁に知らせ、遂にかと僕も嬉しくなる。


「うん。メーデル。あそこがメーデルなのです!」

「やっとかぁ~、長かったぁ~」


 まだ距離をはあるが、ネーシャの言葉に安心して、もう町に着いた気になって疲れがどっと押し寄せる。朝から日が落ちるまで歩いた足は休憩を挟んだとはいえ限界が近い。

 それを察したネーシャは僕の背から降りて歩いてくれる。鼻歌交じりにずんずん星明かりの下を行き、眠そうだったのにすぐに元気になるのは子供の特権だとつくづく思う、


「にぃにおそいなのですよ!」

「ネーシャ、待ってくれ。僕もうそんなに速く歩けないよ」

「もー、さきいっちゃうなのです!」

「ネーシャ様。夜は走ると転んでしまいます」

「だいじょうぶなのでーす! エロアはしんぱいしょーなのです!」

「私の名前はエロアです、ネーシャ様。ルの発音を忘れていますよ」

「ふふっ、あははは!」


 ネーシャは、満天の星にくるくるとはしゃいだ。

 森を抜けて町が見え、僕らの間に漂っていた重い空気は晴れていった。


「…………まったく、元気だねぇ」


 その声の主は、シシリオだった。


「シシリオッ!?」

「ばぁば?」


 荷橇の尻に回り込むと、僕らの声にうるさそうに眉をしかめるシシリオが、確かに意識を取り戻していた。


「うるさいねぇ……こっちは今目を覚ましたばかりってのに……ははは」

「シシリオッ!」


 顔色は絶好調とはいえない。いつもの猛獣のような覇気は微塵もなく、それでも気丈に振る舞おうと空笑う姿は想像以上に弱々しい。緩慢な表情は何十歳も老け込んだみたいだ。

 しかし、それでも。

 彼女は。


「ばぁばッッ!!」

「ああネ――ウッ! イダガガガっ」

「ネーシャッ! 離れて離れて!! ヤバいヤバい本当にシシリオ死ぬ!!」


 顔色がみるみる内に悪くなっていくシシリオに、僕は急いで彼女の胸に飛び込んだネーシャを引き離す。


「はぁ、はぁ、っんく。ネーシャ、怪我人に飛び付いちゃいけないよ……ぐっと我慢しなさい……」

「ごめんなさい……」

「ははっ、うん……怪我はないみたいだね……」

 

 本当に子供はすぐに感情をころころ変える。あんなに元気にはしゃいでいたというのに、今のネーシャは口をきゅっとすぼめてぽろぽろと泣いていた。

 ネーシャの飛び込む気持ちも分かる。

 家族が、母が目を覚ましたのだ。

 死んでいたかもしれない。もう言葉を交わせなかったかもしれない。身を裂くような不安だった。

 だから良かった。目を覚ましてくれただけで、どんな結末よりも遥かに良かった。良かった。本当に、良かった。


 突然、世界が水没した。

 頬を伝うもので漸く僕も泣いていたのに気付いた。自覚すると感情も思考もぐちゃぐちゃに混ざって、意味が分からなくなって、でも仄かに温かくて柔らかいそれに身を任せて、崩れそうな体を両手で支える。


「シシリオ……ッ、ぼく、僕は」

「…………レッド、こっちにもっと寄り」


 胸いっぱいに膨らんだ感情に言葉が続かず、見かねたシシリオが蓑虫みたいに巻き付いた服から身を反らして右手をなんとか抜くと、僕らを手招いた。

 それに堪えきれず、僕は膝を折って優しくシシリオの胸元に頭を埋めた。彼女の手が、あの大きくて武骨で今はもう弱々しくなった手が、頭を優しく撫でた。髪の流れに沿って優しく撫でてくれた。


「ごめんね、こんな無茶をさせてしまって」

「ッ、そんな、そんなことッ」

「ネーシャを守ってくれて、ありがとう」

「うっ、かッ、んぅ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」


 声はシシリオの服に染み込んで空には響かなかった。でも感情は声よりも、涙よりも、ずっとたくさん溢れた。子供みたいに、泣けたのだ。

 感情も思いも、全部が堰を切ってこぼれでる。

 あやすようにシシリオは僕の頭から背中を擦る。


「ここは……森を抜けたんだね。よく頑張ったよ、レッド。結局、アタシはお前さんを頼った…………最初からそうしておけばよかった…………」

「そんなことないッ。僕なんて全然ダメだったッ。シシリオがいたから、僕は勇気を出せたんだッ。最初からいたってただの足手まといだったからシシリオはなにも間違ってないッ」


 自らを責めるようなシシリオの言葉に、僕は必死に顔を埋めたまま反論する。命を懸けて僕らを守ったシシリオが間違っているはずがなかった。

 シシリオは顔をわずかに反らして、荷橇の紐を取る騎士――エルロアに目をむける。エルロアも彼女の視線に気付き、横に出て見えやすいように立つ。

 二人の視線が重なり合う。


「……お前さんは……あの剣だね」

「流石、シシリオ様。一目で見抜くとは見事なご明察です」

「いや……気を失う前にお前さんが少しばかり見えたからね。分かって当然さ」

「なるほど。左様ですか」

「だが……まあお前さんが何であるかを先に訊くより…………ありがとう、二人を守ってくれて」

「……はい」


 それ以上の言葉はない。

 二人にはそれで十二分だった。


「ネーシャももっと寄り」

「だいじょうぶ?」

「ああ。……飛び乗らなければね」

「うん」


 ネーシャは短い歩幅で近寄ると、そのままシシリオに抱きついた。力が入ってしまいそうな手は拳を作り、そっと包むように腕を回す。


「怪我はないかい」

「うん。にぃにがまもってくれたから」

「そうだね……ごめんね、ネーシャ。馬鹿なアタシのせいで……心配させてしまった……」

「ううん。ばぁばもまもってくれた。だから、だから、しんじゃわないでよかった」

「………………ああ。ネーシャはアタシの自慢の子だ」


 シシリオの声は優しい。取り繕うことを嫌う彼女の感情は剥き出しなのに、破れて溢れ出さないための膜が張ってあるかのように落ち着いていた。

 だから言葉は常に僕らの心へ届いてくる。獣とは程遠い、理性的な大人の仕草だ。


「レッド、少し顔を上げ」

「?」


 埋めた顔を上げ、みっともなく腫らした目で微笑むシシリオを見る。

 すると彼女はおもむろに被っていた赤頭巾を脱ぎ、僕に被せた。

 シシリオは自分の白髪を整えるよりも先に、僕の顔が見えるように赤頭巾の向きを整え、うなじ辺りから付く外套のような赤布を背中へと流す。

 少し重たくて、大きい。けれど音も風もよく通る。生地に触れると、布というよりは蛇皮に似た質感。シシリオの匂いが僅かに残っている。


「ちょっとだけ大きいね。でもそのうちピッタリになる」

「これは……?」

「成人の贈り物だ」


 成人。その言葉は意外だった。

 僕の持つ常識なら成人に達する年齢は、一人前だと認められる年齢はからで、僕にはまだ何年かは足りていないだろう。

 彼女は頭巾を被せた手を僕の頬に伸ばし、撫でると自身の胸に引き戻す。


「トリストンでは昔からの習わしで、の祝いに親が子に真剣を贈る。一人前の剣士だと認めるために。だがレッドにはもう剣はある。だから、アタシのそれを贈る」


 ああ、そうか。

 僕らは皆、年が明ければ歳をとる。

 今日が、今年最後の夜か。


「でもこれって大切なものとかじゃ……」


 アロンバウルとの戦い最中、シシリオが腕に巻き付けて戦う様などからただの装備だと思えない。おそらく彼女にとって貴重なものであるはずだ。

 しかしシシリオは首を横に振り、憑き物が取れたように微笑する。


「いいんだ。レッド。確かな年齢は分かっちゃないけれど、お前さんはもう誰かのために戦える、立派な『剣士』で、アタシの子だ」

「シシリオ……」

「それに願いなんだ……レッドには重い使命になってしまうけれど…………アタシは英雄になれなかった。戦争を荒らした。赤頭巾は嫌われたが、物に罪も罰もない。しかし象徴になる、英雄の。だからレッド、お前さんが塗り替えてしまえ、赤色に」


 ――最初はよく意味が分からなかった。


 尊大で、過大で、遠大な話に狼狽える。

 穏やかで、強かな言葉に心臓が奮い立つ。

 託されたのだ、英雄になることを。愚かしく、夢見勝ちで、かつては英雄に成り損ねたシシリオが放った言葉は、記憶を失くした僕が負うには重い。

 拳を握って、カンテラの火が揺らめく中、口を何度も開いて言葉を探し、見つからなくて、最後に僕は大きく頷いた。


「ふふっ、ありがとう……アタシのワガママを聞いてくれて。ならもう町へ行こう。いつまでも立ち止まっていては、年が明ける」


 そうして僕らはメーデルへ向けて再び歩き始めた。こうして僕ら四人でこの道を通ることは今後ないのだと思いつつ、十数分の道のりを一歩ずつ噛み締めていく。

 静かな夜空に足音と橇を引く音、甲冑がかちゃかちゃとぶつかる音、僕らのわずかな息遣いが広がっていく。


「少しだけ」


 閑静な道にシシリオが声を溶ける。


「…………少しだけ、アタシの話をしよう。心地よくない、懺悔のような話だけれど」


 最初はよく意味が分からなかった。


「本当はずっと……ずっと…………アタシはずっと自分を許せなかった。憎くて…………自分を呪うように、体に流れる赤い血さえ……嫌いだった」


 後になって、シシリオが言っている意味を理解した。

 

 彼女は愚かだったかもしれない。確かに過っていたのかもしれない。人並みの欲と、人一倍頑丈な体があったのかもしれない。

 けれどシシリオは人並みに優しく、人一倍孤独を恐れていただけの女性で、初めから獣などではなく、唯の人だったのだろう。

 ゆえにシシリオは英雄に成れたのだ。成り損ないではなく、祝福されるべき英雄の所業を果たしていた。


 『赤』には、血や力、暴力や激情などの意味がある。血生臭い、危険な色として世界に定着している。嫌われている色だ。


 後になって、シシリオがもたらしたことを知った。

 戦争を経て、世界は変わらなかったけれど、シシリオが確かに人々に与えたものがある。

 それはたった一つの意味だった。


 戦後、『赤』は『自由』を表す色に成った。

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