第13話 視定めろ

 赤頭巾を被るシシリオが瓦礫を越える。ただそれだの動作、頭巾を被っただけの変化、しかし彼女から感じる雰囲気は普段と異なる。

 いつもは凛々しく、雄々しく、猛々しい、仄かな妖艶さえ孕む、とても老婆とは思えない若々しい人だ。

 さらに今の彼女から感じるのは、洗練された品格。幾万の死線の末に染み着いた、戦いへの高潔さだった。

 シシリオが歩く度に揺れる頭巾から垂れる布は、日の光をキラリと反射する。


「レッド。件の魔物だ。アタシが殺す。それまでネーシャを頼む」

「シ、シシリオは? シシリオは戦うの?!」

「当然」


 端的に返答する言葉に満ちている自信。それは笑みにも、一直線にどこかへ向かう歩みにも表れている。

 僕はそんな彼女を見ても内心穏やかにはなれなかった。

 なぜなら魔物からの奇襲にシシリオは反応できなかったし、なによりもその一撃が持つ威力だ。人を砲弾のように吹き飛ばし、家へを簡単に破壊する。それを姿を見せずに行ってみせた。

 そして忘れてはならないのは、魔物の大きさ。

 シシリオは間違いなく『件の魔物』と言った。あの罠の仕掛け先で見た、巨大な足跡の主。それだと確定させたのだ。

 つまり、件の魔物は家ほどの体高でありながら姿を一瞬も現さないスピードで攻撃し、森に溶け込める能力を持っている。

 森そのものが敵みたいだ。


「目で追えないくらい速いのにどうやって戦う?!」


 シシリオを信頼していないわけではない。

 だが同時に、件の魔物も異次元の強さを持っている。

 僕の前を通りすぎたシシリオはこちらを一瞥することもなく、背を向けたまま気楽に手を振る。


「カハハ、まず自分の心配をしておきな。素早いだけの相手ならごまんと殺してきた。たったそれだけならもう終わる」


 そう言って笑い飛ばす。 

 シシリオが真っ直ぐに向かった先は、仕留めた鹿を解体するのと洗濯物を干すために使っていた、間に鎖を張った地面に突き刺さる二本の鉄棒。

 その架かる鎖に指を沿わせて、真ん中辺りになると彼女は立ち止まる。いつも使われている部分は削られて銀色だが、長く放置されている鉄棒や鎖の端は茶色く錆びている。


「これを使うのも久々だ」


 足を開き、一つ呼吸を吐く。

 集中すると半身を屈ませる勢いで鎖をぐいっと下へ引っ張った。凄まじい腕力によって鎖の輪同士がギャリギャリと噛み合い火花が散る。

 鎖に働く張力をものともせず、鎖は逆三角を描き、それでも加わる腕力に耐えきれず、遂には両端の鉄棒が地面から引っこ抜ける。

 土くれを飛ばしながら深々と地面刺さっていた鉄棒は宙を舞い、握られた鎖を支点に円を描いて落ちてくる。

 そしてシシリオは掴みとる。埋まっていた部分も合わせれば彼女自身よりも長い鉄棒。だがそれぞれを片手で握る様は、それが鉄の塊であるのに全く重さを感じさせない。

 彼女が持つことで理解する。

 それが鎖で繋がった二本の『槍』であったことを。

 それがシシリオ本来の得物であることを。


 無骨な二槍。

 鎖が擦れ、カチカチと鳴る。

 佇む、赤頭巾の狩人。


「――じゃあ、始め」


 バチュィィイイイ!!!

 

 刹那、耳を劈く轟音と眩しいほどの火花が弾ける。

 体内を揺さぶるほどの衝撃に僕とネーシャは思わずその場にしゃがみこむ。シシリオに当てられた殺気とは異なる、体をなぞるような痒みが伴う恐怖に支配される。

 それでも目だけは理性に反し、シシリオに釘付けになってしまう。

 彼女自身は微動だにしていない。だが背中に伸ばされた槍の錆が一部剥げ、元の鉄がキラリと反射する。

 瞬きする暇もないほど素早く攻撃する敵に驚愕すればいいのか、それともその速度に対応して攻撃を防いだシシリオに驚愕すればいいか。

 とにかく、その一瞬で僕が踏み入れられる領域ではないことを理解させる。 


「良い一撃だ! 誘い込むと来るか……ならこれはどうだ?」


 その呟きと共に再び火花と音が弾け、再び槍から錆が剥がれる。

 しかしシシリオに驚きも焦りもなく、楽しげに口角を上げる。

 今防いだ一撃は最初に彼女自身を吹き飛ばした奇襲と威力は変わらない。それを片手間に難なく防げたのは、意図的に隙を作り攻撃を誘導させた技量によるものであり、純粋なシシリオの身体能力でもある。

 彼女の型は常に一つ。得物を構えず、隙だらけに見せ掛けること。脱力したように下ろしたニ槍は決して油断によるものではない。

 ……と、思いたいが、槍の一本を肩に乗せているのは戦闘中にはあるまじき余裕だった。


「見えんな。そっちも小手調べか……なら、無理やりにでも引きずり出すとしようかね」


 彼女が再び隙を作ると、風が唸った。

 目に追える速度ではない。金属同士がぶつかり合うような、けたたましい轟音だけが到達し、その次に僕ら何が起きたのか理解する。


「カハハ。捕まえたぜ」


 ――眼前に黒く大きな影が反り立った。

 

 その四足の先の毛は唯一赤焦げた色をしており、血のシミを長らく放置したように染まっている。そこから長剣よりも長く分厚い二本の爪が禍々しく伸びている。

 足を辿り、見上げることでようやくその黒い毛の生えた塊を視界にいれることができる。シシリオの三倍以上はある体高。空を遮る巨体は不気味なほどに細く、長い。

 その体に繋がる同じく異常なほど長い尾は動きを遮らないように、左後ろ足に絡ませており、その知能の高さが伺える。

 獣の目に正気はない。垂れ流しの殺気にも気付かない、猟奇の瞳が備わる頭部は生物的であるにもかかわらず、ひたすらに嫌悪感を想起させる。

 剥製ように静かで、虫のような冷たさ。


 その存在に絶句しながら、魔物図鑑で見た一匹を思い出す。

 『アロンバウル』。

 狼の魔物。

 図鑑に模写された絵図と同じ姿であり、絵図とは全く異なる相貌。

 相対することで解する、魔物が放つ膨大な殺気。剥き出しで、無加工で、刃こぼれしたままの剣のような、おぞましい殺気。


 ・他種族に対して、あるいはを持つこと。


 図鑑に記された魔物学における魔物の定義。

 なるほど。ここまで的を得ている言葉はないだろう。

 目の前で息をする獣は、まさに『魔物』だった。


「犬っころ。死ぬ時その顔は歪むのか?」


 楽しそうなシシリオの声にハッとする。

 どうして魔物は――アロンバウルはこれまで見せなかった姿を現したのか。その答えはひとつしかない。

 アロンバウルの鋭い爪撃を受けとめている左槍、その端から伸びる鎖を辿ると、鎖はアロンバウルの足にがっしりと巻き付いていた。

 シシリオが空いている右槍を構えながら、言葉を僕に投げ掛ける。


「レッド。殺し方を見せよう。まずは動きを封じる」


 シシリオの殺気にアロンバウルは自動的に退避しようと身じろぐが、足に巻き付いた鎖はさらに絞め上がり、左槍にも挟まれ抜け出すことは叶わない。

 そして容赦なく、彼女は右槍で魔物の膝を貫く。赤い血が僅かに飛沫いた。

 さらに彼女は間髪いれずにニ槍同士を引き寄せて力を加える。その豪腕はアロンバウルに抵抗の余地を与えることなく、その前足を捻り折る。

 グシャリ、聞くにたえない水気の音。

 噴き出す血、肉を裂いて飛び出た骨、あらぬ方向へ曲がった前足。例え魔物であろうと治すことは不可能だろう。

 しかし、アロンバウルはただ黙っていた。

 激痛で喘ぐことはなく、悲鳴を絞り出すこともなく、ひしゃげた前足をそのままに、一つの反応も見せなかった。その無機質な様子は生きているのかと疑いたくなる。

 おもむろに狼特有の細く尖った口吻を開き、ヨダレを滴しながら、狼とは似ても似つかないひと噛みで何もかもを抉り潰す食性を直感させる、三重にもなる歯列を晒す。

 人程度の大きさならば簡単に食むことができる大きな口が、残像に揺らぐ。バチンッと破裂するような音が鳴ると、アロンバウルの口を閉じた状態で口吻を地面に突き刺していた。

 

 シシリオがいない。

 まさか食べられ。


「シシリオ!!」

「安心しろ。あんな攻撃は食らわない」


 いつの間にか僕らの隣にシシリオは立っていた。

 彼女は右槍を地面へと突き刺し、空いた右手で困ったように頬を掻く。


「だがあの犬っころ、なかなか我慢強い。痛みに強いやつは文字通り死ぬまで戦うか……長く楽しめるな!」


 正気じゃない……!


「ぼ、僕とネーシャはどうすればいい? どこに隠れるべき?」

「いや、この場でいい。あの魔物にしてみれば見晴らしの悪い森でさえだだっ広い平原と変わらない。二人が襲われていないのはだから。無害であり続ける限り、路傍の石と変わらない」


 腹は立たない。彼女の言う通りだ。

 あの魔物にとって僕らは石か、それ以下だ。


「家にも入るなよ。家が崩れれば仲良く圧死……そういうことにもなりかねない」

「だからって、本当にこのまま、ここにいろって?」


 このまま戦う魔物の足元で大人しくしていろと? 無知な僕にはそれこそ危険に思える。一回でも戦いの余波に巻き込まれれば、シシリオほど頑丈ではない僕らはひとたまりもない。

 腕の中で震えるネーシャが物語る。この事態はシシリオの実力を信頼するだけで片付く話ではない。

 しかし彼女から答えを得る前に、鋭い殺気が強制的に目を奪う。黒く巨大な魔物の理性の欠片もない様相から容易に想像できる荒々しく粗削りな殺気は、まさしく有言実行を仄めかす殺意と同等だった。

 焦点は合っているのにどこを見ているか分からない、瞳孔がない満月のような目が僕らを睨んでいた。

 アロンバウルはこちらにゆっくりと頭をもたげ、体を向ける。後ろ足に巻き付けていた尾をほどくと、折られた前足へと伸ばし、巻き付ける。ひしゃげた向きや飛び出た骨を無理やり矯正するかのよう締め上げ、徐々に前足は元の形に直ってく。

 水分を多く含んだ果物を絞ったみたいに前足から夥しい量の血が垂れるが、魔物に気にする素振りはない。地面に染み込まずに残るおよそ一人ひとり分の血溜まりがアロンバウルの巨体において多量なのか、微量なのかは知らない。だがそれをやはり気にしない、痛がりもしない様子は生物として異端に映った。

 そしてアロンバウルは呼吸したかと思うと、不意に森への視界を遮るその大きな図体が消えた。


「消えッ……!」

「…………」


 音もなく、跡形もなく一陣の風を渦巻かせて霧散――そう形容するのはアロンバウルが獣である以上、適切でないのは重々承知しているが、そうとしか言えない消え方をした。

 一方でシシリオは地面に突き刺した右槍を蹴り上げ、空中に舞ったのを右手で容易く捕らえる。

 

「レッド。握り方の続きをしようか」


 握り方?

 それはつまり剣の握り方。

 戦いにおける作法・心持ち。

 言い換えるならば、態度、姿勢、精神。

 突拍子のないシシリオの発言に僕は戸惑うが、シシリオ本人は至って真面目な表情を浮かべている。冗談ではなく、この場をもってして彼女は僕に『授業』を行おうとしているのだ。


「『冷静であれ』。どんな戦いでも取り乱してはいけない。実に簡単で、最も難しいことさ」


 シシリオはふわりと跳躍して――凄まじい脚力で抉った地面の土くれを靴裏に着けながら――また広い場所に戻る。

 その瞬間、黒い影が通りすぎ、火花が散る。着地を狙ったアロンバウルの奇襲であったが、危うげなく槍を構えて防いだ。

 シシリオは流し目で何かを捉え続けながら、先の話を問題なく進める。


「お前さんは本当にこの魔物がと思ったのかい? 違うだろうね。そうしたまでの話だ。物事を正しく表すなら、アロンバウルは目にも止まらぬ速さで飛び退いた、が妥当さ」


 再び、火花が散る。

 先程とは全くことなる方向からの奇襲もシシリオは悠然と防いだ。何事も感じさせない平気な顔をして。


「表現と事実、時にはそのがまさしく冷静さを欠く原因であり、招かれた結果となる。レッドはこの魔物に敵わないと確信してしまっているから、余計な脚色をして、誇張して、過大評価な表現をしてしまう。『消えた』っていていうのは自分が敵わないとするための理由付けにすぎない」


 話しながらシシリオは四方八方から襲いかかるアロンバウルの攻撃をいなし、防ぎ、火花が弾ける中をまるで踊るかのように最小限の動きで躱していく。

 命の危機を感じているというのに、彼女の戦いに息を飲み、魅入ってしまう。起きている状況と見えている光景との乖離は、ひどく幻想的で、赤い頭巾がひらひらと揺れる様がさらに拍車をかける。

 だからこそ強烈に幻想を引き落とし、痛烈に現実を突きつけてくる彼女の『授業』が頭に入ってくる。


「その卑下は実戦において必要のない感情だ。お前さんが剣を握る時は、きっと優しいから殺すために握ることはなく、守るためであり、可能な限り戦いを避けようとするだろう。けれど戦う時は、勝つために戦うし、死なないために戦う。敵よりも弱いと思いながら戦う人間はただの死にたがりでしかない。必要なのは現実を見る、理性的な脳ミソさ」


 シシリオの両手が付け根から消え、再び現れると槍先に黒い毛と血が付着している。空中で静止したように速度に付いてこれてない鎖がガチャンとたゆんだ。


「まずは落ち着いて良く観察しなさい。表現ではなく、その目で見ている光景を正しく描写すること。奴が手負いの今なら、アタシの教え子ならできるはずさ」

「む、無理でしょ?! 確かに消えたわけじゃない、表現だよ。でもシシリオに習ったからって目を鍛えたわけじゃない。視認できない、できるはずがない!」

「その思い込みまやかしは要らない。焦る必要もない。無理だと思わず、直視しろ。成長している自分に向き合う時だ」


 成長……僕が?

 分からない。剣の扱い方は初めよりも幾分かはけたが、シシリオにとっては児戯よりも拙い剣術でしかなく、目の前のアロンバウルにも歯は立たないだろう。それでも成長したと言ってしまえば、なんと身の丈に合わない烏滸がましいことか。

 あれだけ必死になって剣の訓練をしていたが、畢竟、この現実に直面したら『必死』と表してしまう自分が恥ずかしい。二十日間の特訓がいかに短く、不足だらけで、やった気にさせるだけの期間を誇れるはずかない。

 絶望に近い。

 成長なんて、しているはずがない。


「レッドは、がんばっているなのですよ」


 腕の中で震えるネーシャが埋めた頭を上げ、恐怖を押し殺して笑顔を見せる。眩しかった。

 そしてその苦しそうな表情に気づかないうちに強張って、力んでいた腕がネーシャを締め上げていたことに気づいた。急いで力を緩めて、苦しくならないように腕を回す。 

 ああ、くそ。

 情けない。情けない。情けない。

 こんな時に悠長に自己嫌悪に陥る自分が気持ち悪い。戦うシシリオに醜態を晒し、僕よりも幼いネーシャに励ましてもらっても尚、僕はこんなにも愚かしく葛藤としているのか。 

 情けない。

 信じろよ、レッド・ロッソ。

 情けない自分じゃなくて、自分を信じてくれる人を信じろ。

 弱さだけを見たがる自分じゃなくて、強さを見てくれた人を信じろ。

 出来ないことばかり数える自分じゃなくて、可能性を信じてくれる二人の言葉に背中押されて、やってから出来ないか判断しろよ。

 

 このレッドくそったれが。


「スゥー…………ハァー…………」


 自分で引き裂いた心の残骸の上で集中する。

 鋭く剣を振る時のように細く長く息を吸い、冷たい空気を火照った肺で感じとりながら、ゆっくりと吐き出していく。熱を全て流しだし、けれど不思議なことに感情は体内へと収束するように薄れていき、余計な雑念全てを白色に染め上げ、感情のない白紙とペンを用意する。

 澄んでいき、済ませていく。

 愚かで、疎かな僕を客観的に見る必要はない。

 視るべきは、シシリオとネーシャが信じてくれた『成長』だ。


 火花が、散った。

 シシリオの側で火花が爆ぜた。

 火花が、火花が、たちまちに星屑のように煌めく。

 赤布が、双槍が閃いていく。


 視ろ。

 目を開け。

 集中、集中。


 冷静に、世界を視定めろ。

 戦いを視認してゆけ。

 音さえ、感触さえ。


 そして、次第に。

 次第に。

 次第に。

 次第に。

 次第に。

 次第に。

 次第に。


 アロンバウルは木々の隙間から飛び出すと無傷の前足で蹴り上がるように長い爪でシシリオを切りつける。だが彼女も容易に差し込んだ左槍で爪を撥ね飛ばし、その軌道を逸らす。

 摩擦が火花が発生させる。

 そのままアロンバウルは速度を緩めずに通りすぎ、まるで川の流れのように体をうねらせて木々の陰に潜みながら攻撃の機会を探って走り回る。

 シシリオが敢えて殺気のない死角を作り出すが、アロンバウルは飛び付かず、むしろ奇襲に向けた接近に数拍のフェイントを織り混ぜて対抗する。木々の後ろに紛れると、騒がしく、森から音が駆け上がる。

 そして空から大口を開けたアロンバウルが降ってくる。


「カハハ!! 見えたな!」


 戦闘中でありながら、アロンバウルの姿を目で追って見上げている僕に、シシリオは嬉しそうに笑った。


「シシリオ、上!」

「分かっているさ!」


 シシリオは槍を真横に、左右別々の方向に投げると、釣り合った力が作用し、ピンと張った鎖が目の前で静止する。両手で鎖を掴むと渦巻くように捻り、引き寄せる。両端の槍は鎖の引き寄せられた力によって斜めに反り立ち、螺旋の軌跡を作る。

 槍と鎖の螺旋は引っ張られることで集束していく。それはさながら投網。罠にも満たない、猟法。

 飛び込んできたアロンバウルはその中心にいる。逃げ場も足場もない空中にいる獣に避ける術はない。


「汚い口を見せるんじゃないよ!」


 グイッと引っ張られる鎖に連動し、槍は螺旋を描いてアロンバウルの顔に巻き付き、それでもなお集束しようとする力は涎を撒き散らす口吻を強制的に閉じさせる。

 獣毛とめ絡み合った槍と鎖は強固な口枷となり、手綱を握るシシリオはそのままアロンバウルを地面へと叩きつける。くぐもった轟音と地面が揺れる衝撃にアロンバウルの巨体が受け身も取れずにぶつけられたのだとわかる。

 だがそれだけでアロンバウルが怯むはずがない。直ちに槍の作る螺旋とは逆方向に身を回し、絡まった毛さえ気にせず引きちぎりながらも口枷から脱する。同時にシシリオが持つのは槍ではなく鎖部分、殺傷能力を帯びない好機をアロンバウルは見逃さない。

 森へ飛び引かず、近距離からの爪攻撃。突出して伸びる二本の爪が鋭く、地面スレスレにまで屈んだシシリオの頭上の通りすぎる。風圧さえない草笛ののような風切り音は、再度鳴る。折れたはずの前足を屈んだ彼女を両断せんと振り下ろしたのだ。

 一方シシリオは槍を引き戻すことはなく、片腕に頭巾から伸びる一反の赤布を巻き付けた。布でありながらそれは腕にぴったりと沿い、良く伸びる。包帯のようにまんべんなく覆われて赤くなった腕で、躊躇うことなく振り下ろされる爪を防ぐ。

 布切れの甲手と爪がぶつかると、驚くことに火花が散った。槍とぶつかるのと同じ打音を起こす。特別な布であることを理解したともに、その軸はただの生身の腕であることも理解する。

 ブシュッ!!

 折れた腕を振ったアロンバウルも、巨大な生き物を支える足から放たれる強力な爪撃を片腕で受け止めたシシリオも、その両者の腕に巻き付く物の隙間から、血が飛沫く。

 先に動いたのは、闘志の火照る方だった。


「カハハハハ!」


 赤腕がアロンバウルの爪が掴み、万力の握力で離さない。

 赤布に覆われていない手は未だに握っていた鎖を引き、大きく振りかぶる。波打つ槍と鎖は鞭の如くしなり、荒々しく風を巻き込みながらアロンバウルの胴体を側面から叩く。

 肉を叩く、鈍い音。

 その一撃は、アロンバウルの口吻から涎を吹き出させる。無機物のような魔物が初めて見せた生物的な反応。

 シシリオの攻撃はそれだけにとどまらない。槍を置き去りにすると硬直したアロンバウルの腹の下に潜り込み、赤い拳を引き絞る。無手であろうと洗練された殺気は、その拳に下手な武器よりも遥かな殺傷能力を持たせ、解放させる。

 打たれた空気が破裂し、赤い閃きが昇る。

 拳は毛皮を、皮膚を、筋肉を、骨を越え、アロンバウルの巨体を衝撃が突き抜ける。大きさも重さも人間の何倍もある魔物は、矮小である人間の一撃によって、僅かに地から浮いた。

 

 明らかに急所を穿った、重たい拳。


 しかし、魔物の黒い腹の下、シシリオの表情に勝ち誇る笑みはなかった。むしろ引き攣った笑みを浮かべる。


「アタシも老いたかもね……」


 同時に僕の側にもそれは達する。


 獣毛を逆立てたアロンバウルから溢れ出すは、確かな嗜虐と、青白い怒りに満ちていた。

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