第12話 罪と罰と赤
「…………アタシはずっと自分を許せなかった。憎くて…………自分を呪うように、体に流れる赤い血さえ……嫌いだった」
左足に包帯を巻くシシリオは荷橇の荷物に寄りかかりながら、ぽつりと呟いた。
「だけど、今日だけは……許してあげられる気がするよ。レッド、お前さんも聞きたかっただろう。だから少しだけ……アタシの罪を聞いておくれ」
僕らは静かに彼女の独白に耳を傾ける。
青白く澄んだ、薄雲が掛かる夜。足元を夕焼けのようにぼんやりとカンテラの火が照らして、星に身を打たれながら。
「三十五年前――」
■■■
ある日、シシリオに同行して罠に獲物が掛かっているか確かめに行った時、一匹のウサギがくくり罠に足を取られているのを見つけた。
一晩は逃げ出そうと暴れたのだろう。ぐったりとしている。辺りの地面はウサギの小さな手足で蹴られ、引っ掻かれ、掘り返されている。
僕らが近づくとウサギは最後の力を振り絞って暴れるが、その内に体力を消耗して息を荒くしたまま動くのを止めた。
こんなに小さい命でも、白い息は僕らと変わらないことに衝撃を覚えた。
このウサギは僕らの命を繋ぐ、大切な食料。食い、食われる自然の摂理に歯向かうことはできない。だからこの命を僕らは奪わなければならない。
ウサギを〆め方はナイフを突き立てるものではなく、首を掴み、毛皮の下にはる頸椎を折ること。そうすれば血で汚れず、余計な傷もつかないし、何より即死させることができる。
手を伸ばした。汗ばんだ手のひらが不快で、躊躇う理由を探すために何度も握り直した。緊張して口の中が乾く。
ビィーッ、とウサギが叫ぶ。思わず手を引いてしまう。けれど腕一本分もない距離だ。すぐに手はその小さな首へと辿り着く。
手のひらから伝わる、熱い体温、荒い毛皮、速い鼓動、逃げようともがく筋肉の動き、その奥にある硬い頸椎。
命を掴む。
ウサギは恐怖を感じて一層暴れ、僕はもう片方の手で上から押さえ込む。逃げられないと気づくと助けを求めるようにビィーッビィーッと叫ぶ。
無機質なウサギの目が、死に怯えている。決死の抵抗もできず、ただ喉を潰すほどに鳴き叫ぶ。僕がそれしか許していないのだ。
罪悪感が積もる、新雪みたいに。
呼吸を整える。
腕に力を入れ、全体重を掛けて、脛椎を押す。
「んっ」
ゴッ。鈍い音と感触が届く。
ウサギは静かになった。十に満たない内に鼓動は消えていき、全身に入る力が抜ける。
手を離すと頭は、芋が一つだけ入った皮袋のように、地面に落ちた。半開きの口から血が垂れる。
「はぁー、はぁー」
荒い僕の呼吸がやけに響く。
ウサギの足からくくり罠を外す。手の震えで少し時間がかかった。その頃には、冬の寒さも相まって熱かったウサギの体温も冷えていた。
一息つく。肩の力が抜けていく。
安堵した。
冷静になって、虫が駆け回ったみたいに全身で鳥肌が立つ。中でも手のひらが異様にむず痒くなって、少しでも紛らわせようとスボンへ擦り付けた。
炭で書き潰したような思考が乱れる。
殺した。
この手で殺したのだ。
形容しがたい嫌悪感が繰り返される。
手のひらに残る脛椎と肉の感触、目に焼き付く死ぬ瞬間、耳に響く小さなウサギの断末魔、肌を刺すような森の静けさ、どれも鮮明に思い返せる。きっと色褪せることもない。
初めて命を奪った感覚は酷く不快で、生きるためと理由を付けても僕は、受けいれ難かった。
■■■
「三十五年前、大王が失踪した。前にした、大王の玉座を狙った各国の大戦の話だ。その大戦は『空位戦争』と呼ばれた」
大王の座は全ての国家にとって甘い誘惑だった。大陸を思うがままに支配できる最大権力、その大義名分が玉座に座るだけで得られるのだから。
だが最初は各王たちも玉座を求めて争えば取り返しのつかない戦争に発展すると危惧し、議会の末、この大王不在の事実を公にしないまま大王の帰還を待った。
しかし二年、三年と歳月が経過した時、ある王が次代の大王を選出すべきだと言った。大王の帰還に見込みがないと考えた大王都の宰相もそれを受け入れた。
選出方法は簡単だった。
『最も王が王足り得る強さを持つ者』、太古から続く大王の資質を例えた言葉に従うこと。
王たちは、皆思い思いに母国の"強さ“を誇示し、それが大王に必要なものだと主張した。
ある国は、世界の食糧庫と言われる肥沃な土地を。
ある国は、優れた鍛冶技術と多くの発明品を。
ある国は、多種多様な人種が暮らせる治世を。
ある国は、堅固な守護と忠誠心を。
ある国は、大王と由緒がある歴史と伝統を。
ある国は――。
延々と続く、国々の継承権主張はただ自慢大会に成り下がり、王たちが他国の正統性を認めることはなかった。
そして次第に歪みは広がり、決定的な軋轢を生むのに時間はそう掛からなかった。
どこから始まったのかはわからない。
ある王が痺れを切らしたのか、風の噂に釣られたのか、それとも誰かに唆されたのか分からないが、"強さ“の定義は単純な『軍事力』へと
そこから戦争に発展するまで一年も掛からなかった。
「その時、アタシは
いくつもの草原が焼け焦げた。
いくつもの丘が血にまみれた。
いくつもの平野が抉れた。
いくつもの村が略奪にあった。
いくつもの墓場が飽和した。
戦争で起きた出来事を数えるだけで日が暮れる、そんな日々が続いた。
領土ではなく、玉座というシンボルを巡る"早い者勝ち“の戦いに妥協はなかった。皆、その座を戴くまで死力を尽くす覚悟であり、最前線は落書きのように毎日移ろった。
「アタシは傭兵として戦った。血の匂いと悲鳴と、爆発音と、多くの人種が様々な武器を振って殺し合う。不謹慎かもしれないが、アタシはそんな狂気と生死が入り乱れる戦いに心踊っていた」
死が蔓延することが日常となり、王たちの欲望で満たされた戦場に正義はなく、ただの殺し合いと化していた。
「戦場を駆け回って、駆け回って、殺し回った。魔物では得られない命のやり取り、強敵との出会い、高度な戦術と戦略の応酬を正面から叩き潰すことで得られる愉悦。毎日が輝いていた」
その声はとても闘争を楽しんだ人間のものとは思えないほど、悲しそうだ。
「けれど戦争が激化すると人種差別が広がっていった。アタシのように傭兵をしていた人間は所属していた国から追い出され、母国にも売国奴として帰れなくなった。すぐにアタシは戦場で独りになった」
■■■
「行かないと駄目なんだ」
膝を折ってネーシャと目線を合わせる。跪くと僕の方が若干低く、自然と見上げてしまう。
「僕も心苦しいけど、僕は僕の記憶を探すために旅に出る。それが正しいと思ってる。なんというか……そうしないと後悔する気がするんだ」
しかしネーシャ何も答えない。
彼女は赤頭巾を目深に被り、俯いて、僕に表情を見せまいと完全防御の姿勢だ。その分厚い頭巾では僕の声さえ聞こえているかもわからない。
なぜネーシャがここまでして塞ぎ込んでいるのか、分からなかった。シシリオに訊ねても、「どうしてだと思う?」と質問に質問で返される。
あんなに明るかったネーシャが、彼女の無邪気な声が絶えなかった森小屋が、今では焚火の音しか聞こえない。
この沈黙が嫌いだ。
明くる日明くる日も、全く口を利いてくれないネーシャに焦燥感を覚えた。最近は少しだけ怒りが冷めたのか、以前のような会話も増えたが笑顔は減っていた。
何も応えてくれないネーシャと向き合う度に、僕は間違った選択をしているのではないかと不安になる。それで僕も口数が減ってしまう。
「…………」
「…………」
年明けまで日にちがない。だが、これ以上何を言えばネーシャを納得させられるのか分からない。もしこのまま旅に出ることになったらと思うとゾッとする。
そんな焦りが僕から言葉を奪っていく。
「……もぉ……」
その時、静寂にさえ潰されてしまいそうな、ネーシャのか細い声が頭巾から溢れた。
僕は顔を上げる。見えない彼女の顔を頭巾越しに見つめ、蝶の瞬きみたいな声を聞き逃さないために黙って待った。
再び静まり返る。
いや違う。頭巾の向こうから引きつった呼吸が僅かに聞こえた。頭巾を頭へ押し付ける小さな両手が震えてることに気づく。
シシリオの訓練を経て、僕はネーシャが感じている
そして、遂にネーシャは震えた声で勇気を振り絞る。
「…………もお、かえって、こないの……?」
切なく、幼い、不安だった。
ああ、そうか。
そうだったのか。
自分の浅ましさを自覚する。
これまで僕が繰り返して来た
一度も、一片たりとも、僕はネーシャのためを思った言葉なんて言ってこなかった。
ずっと、独り善がりの理由しか言ってこなかった。そうしないといけない、そうしないと後悔する、納得させようとした言葉は全部僕のことだった。そうやって言いくるめようとしていたんじゃないか。
僕は馬鹿で、阿保で、稚拙だった。
ネーシャが求めていたのは、もっと簡単なことだった。
「そんなことない。帰ってくる。絶対に。またシシリオとネーシャに会うために絶対戻ってくる」
「ほんと……?」
「ああ! 本当だよ!」
「じゃあ、『やくそく』して」
差し出された小指に、僕の小指を結ぶ。
「絶対、帰ってくるから。約束する」
小指の先からネーシャの熱い体温が伝播して、抱えていた焦りが融解する。
僕がいくら言い訳しても、僕の使命感を必死に説明しても、そんな堅苦しい言葉でネーシャを納得させる術になるはずがない。
約束。それで良かったんだ。
僕らは背伸びをしてもまだ子供で、子供に相応しい幼い感情があって、それゆえのすれ違いがあって、またその不安や苛立ちを晴らす方法も幼いままだ。
絶対――この世に絶対という言葉ほど信用ならない言葉はない思っているのに、自然と口にしてしまう。未熟な僕らを安心させてくれる魔法の言葉だからだ。
背伸びして、大人ぶって、賢い振りをしていた僕からそういう子供が顔を出す。
もっと早く気付いていればよかった。そうすればもっとネーシャと笑って過ごせた時間が増えていたはずだ。
もっと僕が正直になっていれば――。
赤い頭巾から零れた金色のおさげと、白肌の弱々しい笑みと――小さな涙が。
「やくそく、なのですよ」
輝いて見えた。
■■■
「馬鹿だろう、アタシは。そうやって孤立して、ようやくアタシは何か人道を踏み外したんじゃないかと考えた。でも馬鹿だからそういうことを考えるのが嫌いで、すぐにどうすれば戦争に参加できるか頭を使った」
戦いに明け暮れる、もはや人ではなく獣のような生活。そこから再び人の生活に戻るのは無理だった。
殺しという選択肢を持った人間と、殺しのための戦争が蔓延している世界を引き離すのは不可能だった。
「一人になってアタシは見境なくなった。かつて所属していた軍隊も、同じ目と髪色を持つ同郷も、火事場泥棒する盗賊も、魔物も、全て等しく戦って、殺した」
今も血生臭い記憶。
華々しく、忌々しい、若い狩人。
遠くを見つめるシシリオの瞳には嫌悪と、未だ戦いへの憧れが入り交じっている。
「戦争という殺しの大義名分が得れる時勢に、アタシはただの殺人者だった。でも気にしてなかった。なぜなら楽しかったから。けれどそれが幸か不幸かアタシの轟いた悪名を元に、アタシのように傭兵を追放された獣たちが集まり始めた」
ニュースが回った。
戦場を駆け回る、戦乙女がいる。
その悪魔たる所業と、血飛沫の中で舞う可憐な姿のトリストン人。名前までは分からずとも、戦場に出れば誰もが一度はその姿を見たことがあった。
記憶に焼き付く、あの女傑。
彼女と同じ戦いに飢え居場所を失った獣にとって、この上なく分かりやすい
「誰もが同じ思い、同じ境遇、同じ欲望で集った……すぐにアタシたちは共に戦い始めた。いつも爪弾きにされてきた者だったからか、初めて本当の仲間ができたことに喜びを分かち合った。……嗚呼、懐かしい。普通の人から見れば異常かもしれないが、アタシたちにとってそれが『青春』だった……」
■■■
結んだ小指を離す。
ネーシャは涙を頭巾の端で拭う。目元はわずかに赤く腫れている。それを恥ずかしそうに誤魔化すため、にへっと笑った。
胸で絡まっていた不安が取れて僕も同じようににへって笑う。
それがおかしくて二人で声を出して笑った。
こうしてネーシャと戯れたのはいつ振りだろう。いや心から笑えたのは、何日振りだろう。ここ二か月半ほどしか記憶がない僕にとって、それは途方もなく長かった。
「おーい、レッド。まだかー!」
見計らったように外からシシリオの呼ぶ声が聞こえる。昼の訓練の時間だ。
そういえば今日は真剣――僕の剣を使った訓練だ。いつまでもままごとのように木刀を振り回すだけでは実戦とのギャップに慣れない。今日はその溝を埋める、訓練の最後の仕上げだ。
シシリオに返事をして、壁に立て掛けていた剣を手に取る。くるんでいた布を剥がし、ベルトを腰に通して装備する。
やはり何度見てもこの剣の銀飾は艶美であり、かといって華美ではない実にいい塩梅である。シシリオにも宝剣や儀式の剣と言わしめる逸品である。
そしてそのシシリオから直々に訓練を積んだ今、新しい発見がある。なぜ彼女が剣について話した時、長年に渡り使用された痕跡があることに驚き、話していたのか少し理解できる。
この刀身から放たれる呑まれそうな剣気だ。殺気ではないにしても、今にも斬り裂かんと訴えかけるこの感じ。前の持ち主の強い思いがこびりついているみたいだ。
「じゃ、行ってくるよ」
「ね、ネーシャもみたい! なのです!」
咄嗟にネーシャが引き留める。
いつも窓から顔を少しだけ覗かして、頭巾だけ飛び出ていたネーシャ。口を利いてくれずとも彼女は毎日訓練を見守り続けてくれていた。
本当はずっと近くで見守りたかったのだろう。あるいはこれまでの時間を取り返すために、少しでも長く近くにいたいのだろう。
温かい。小さな彼女の持つ、ささやかな願いに自然と笑みになる。
それを断る人間なんてどこにいる。いや、いない。
「いいよ。強くなったから近くで見ていてくれな」
「ふふん。まいにちみてたからレッドがつよくなったのはしってるなのですよ!」
「そうなの? でも昨日の僕より今日の僕の方がちょっとだけ強いよ、多分」
「いちにちじゃつよくならないなのです!」
「ウッ正論!!」
本当に久し振りなやり取りをしながら、シシリオの待つ外へ出る。
家を出たところにある、少し広い場所。いつも僕が剣を振っていた地面は踏み固まって、そこだけ草が生えていない。
いつもはその少し奥で、仁王立つか、木刀を片手で弄ぶ鬼教官シシリオが待ちわびたとばかりに立っている。
けれど今日は真剣を使うからか、シシリオはいつもと出で立ちが異なる。まるで武人のように僕らに背を向け、森を正面にしている。
「シシリオ、準備で――」
「こっちに来るな!!」
大気を揺るがすシシリオの警告、僕らは意味を理解するよりも先にその音圧で足を止めた。
シシリオが何かを察知して、口を開。
「
シシリオが眼前から消失する。
そして背後で家が破裂した。
■■■
「意気投合したアタシたちは好き勝手に暴れた。町には入れないから盗賊が奪った物をさらに奪い、闇商人に都合して町の食料や酒、世界情勢の情報を買った。甘菓子に集まる蟻みたいにあっちこっちの戦争に顔を出した」
活躍。そう書くとまるで素晴らしい功績のように見えてしまう。内実はただ世界中の争いにちょっかいをかける、嫌われ者だった。
まさに腫れ物だ。
あえてそれを未だに『活躍』と評したいなら、シシリオたちの活躍によって一部の戦争ではかえって戦死者が減った。
そしてその情報は瞬く間に世界へ広がった。
「最初は十人にも満たない小さな盗賊モドキはそうしているうちに人が集まった。戦いが好きな者もいたが、アタシたちの行いが善行だと言う人間もいれば、自由を求めた脱走兵もいた。アタシたちはそんな高尚な人間じゃなかったけど、どうやら世間では戦争を終わらせようとする義賊なんて呼ばれて、気分がよかった。次第に人が増えて、アタシたちは組織に成った」
爪弾き者たちを、築いた新しい居場所を、好きでやっている行為を、彼女らは何一つ変わることなく、社会が変わって肯定した。
しかし初めて社会が彼女たちを求めたことで、彼女たちもまた変わり始めた。
そこには道楽の戦いだけではない。
複雑に絡み合ったイデオロギーに適う、使命感。
殺しを正当化する大義名分。
組織へと。
■■■
「――え?」
ガンッ!!――耳を
それを見て反射的にネーシャを抱き寄せて両手で庇う。意味も分からず立ち竦む僕らに木片が当たらなかったのはもはや奇跡だった。
「は? え?」
突然の出来事に怯えることもできない。
頭を左右に振って見回し、何が起きたのか把握しようとする。
何だ。何だ。一体、何が起きた。
頭の中で繰り返させる言葉が堆積し、その重みが段々と焦りとなって噴出する。現状を理解できない僕自身に苛立ってくる。
しかし腕の中で震えるネーシャの存在が僕を急速に沈静させる。
落ち着け。今僕にできることは。
シシリオが消失する寸前に見せた、鬼気迫る表情。僕らに向けられたものではないそれは、外から来た脅威に向けたものに他ならない。
すなわち、敵。
シシリオが消失したというのならば、敵が現れたというのならば、家が破裂した原因は――。
破裂したそこは丁度シシリオたちの部屋で、壁を失ったことで屋根は沈むように音を立てて落ちる。衝撃で長年積もった塵が舞い上がり、土煙を生んだ。
奥で赤い影が動く。
心臓を掴まれた。
「カハハ」
煙の中から裂いて、ドロドロの
知っている。
僕に向けられていないとはいえ、その余波でさえ息がつまる。濃密で強烈で、獣では絶対に到達し得ない滑らかな殺気。
その主は。
■■■
「『組織』って笑えるよ、好き勝手してきたアタシが組織を束ねるようになったんだ。本当に出来の悪い冗談だった……」
かつて、殺人者と変わらない行いをしていた人間が、そう評価されていた人間が、視点を少し変えるだけで、民衆は彼女らを『英雄』と言った。
なんとも馬鹿げた話だ。
しかし、シシリオたちは初めて与えられた透明の武勲と静かな名誉を前に、兵士よりも真摯に向き合った。
その心には温かいものが宿った。
彼女たちもまた『英雄』的な振る舞いをするようになった。
「名前が必要だった。歴史に刻まれ、現れた時は皆が高らかに読んでくれる、誰も忘れないための名前が。アタシの着ていたそれに
■■■
吹き飛ばされたシシリオは運良く、毎日寝ている自身のベッドに仰向けで止まった。それでも
痛い。老いによる体のガタではなく、殴られ、蹴られ、斬られ、落とされ、そういう戦って感じる痛みの類いだ。
だがその体に目立った外傷はない。生まれながらにして祝福された身体がゆえだろう。
うつける意識で周囲を見回す。
町の大工に頼み、ビクビクと怯える職人たちをイズメ森林まで連れてきて作らせた、森の小屋。一人で住むのに適していて、三人も住むには手狭な作り。
建てて以来掃除を全然していなかったせいか、崩れて舞い上がるホコリが螺旋を描いて立ち込める。
木の壁は無惨に飛び散り、ネーシャの筆記道具やシシリオの本が床へ倒れ、屋根が崩れて、青い空の天井が一面に広がる。
嗚呼。
青い。遠い。
今、アイツらは何をしているのだろう。
死ぬわけでもないのに走馬灯にも似た、あの日々の懐かしさを思い出す。
雨の日でも、嵐の日でも、雪の日でも、火が伸びる日でも変わらず戦ってきたが、良く晴れた青い日は死の臭いが一層強かった。
シシリオと共に戦った獣の多くは停戦になったことで散り散りになった。けれど獣が行ける道は二つに一つ。
人に成り、人として営み、人並みの幸せを送るか。
獣へ戻り、言葉を忘れ、戦いに明け暮れる生活を送るか。
アタシはどちらでもない。
どちらも選んでいない。
一人、群れを離れて森に隠れた半端者。一匹狼は狩りの方法も社会性もダメになるというが、アタシはまさにそうだろう。
今や老いて、かつての牙も毛並みもない。過去のアタシが見たら冷笑し、絶句し、失望するだろう。
『戦うことも満足に出来ないほど
若いシシリオが笑う。
黒く長い髪とギラついた青い目の獣が佇む。
今、アタシは後悔しているのだろうか。
人にも獣にも成りきれず、何者にも成れなかったアタシは間違っていたのだろうか。
一冊の本が開いている。
ノートの一面、一生懸命に書かれたネーシャの拙い文字が埋め尽くされている。
一輪の花が落ちている。
差していた花瓶から抜けた
「………………」
静寂。
ドゴォン!!!!!
シシリオが寝室の床を殴る。拳は容易に床板を突き破り、下へと抜ける。
この感情は、怒り。
殺気が吹き出る。
抜けた床下にある
懐かしい。勝手にもう使わないものだと思っていた。
そして被る。あの日々のように。
鈍った三十年前の感覚が昨日のことのように冴え渡っていく。
吹き出て充満した殺気を一つに集め、圧縮し、成形し、鋭い戦意へと加工する。
半端者だからこそできることがある。
ゆえに獣として、乱暴に、純粋に。
ゆえに人として、劇的に、性悪に。
シシリオが被る
「カハハ」
瓦礫を踏みつけて、戻ってきた
「単純にいこう、犬っころ」
■■■
「アタシたちの、組織の名前は」
■■■
「殺し合いだ」
"朱染め“団長。
シシリオ・ロッソ。
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