第11話 きっとそれは殺したいという感情
「ずっと気になっていたこと訊いてもいいですか」
家の前の拓けた場所。年が明けて暖かくなると、そこは畑にし、芋や野菜を植える。そういう場所に僕とシシリオは少しの距離をとって対峙している。
「おいおい急に改まってどうした? 怖いことは言うなよ。内容によっては手加減できなくなる」
「シシリオの方が百倍怖いんだけど?」
「ハハハ。こんな老婆一人に怯えてちゃこの先思いやれるなぁ。当時よりも丸くなったと言われているだがね」
そう言って笑うシシリオは手持ち無沙汰を解消するように、右手に持つ
会話をしながら平然と行うその巧技。二十日間、目が覚めてからベッドで眠るまで四六時中剣の訓練漬けだったからこそ、その異常性を理解する。
身体から離れた長物を目視せず、真上に投げ、垂直に落下させ、動かさずに開いた手のひらで再び掴む。その動作一つひとつが極限の集中をもってしても、僕には到底真似できない。
歴然とした差。今から始まることを考えるとたまらず苦笑する。
ゆえに訊きたい。
「シシリオはここで隠居する前は、何をしてたの」
「…………ふーむ」
その問いに、シシリオは木刀を投げるのを止めた。
これまでシシリオの過去の片鱗は嫌というほど見てきた。だがシシリオが何者だったのか、確信を得るには至ってない。
そしてこの話題は彼女自身から話されていない。
「アタシの昔を知りたいってのかい」
「そうなるね」
「どうしても?」
「うん」
「…………はぁ。
「できれば
「ハハハ! そうはいかないねぇ。……アタシに一発当てれたら教えてあげるよ」
「だと思った」
その高価ぎる要求に口の端を片方だけ上がる。人はあまりに無謀なことを命じられると、笑ってしまうらしい。
僕は半ば無理だと諦めつつ、万が一を掴みとるため木刀に再び意識を集中させる。練習した甲斐あって基礎型の立ち姿はなかなか様になっているのではなかろうか。
「じゃあ始めようか」
「よろしくお願いしま――すッ!!」
開始の言葉と共にシシリオに飛びかかる。振り上げた木刀を余裕な表情を浮かべる彼女の顔へ、躊躇わず叩きつける。
当然、僕はそれが全く意味がない、水に火をつけることぐらい無意味な攻撃であると理解していた。
カァンと木刀同士がぶつかる軽い音が、それに比例しない凄まじい衝撃が僕の腕を駆け登る。
速度と体重を乗せ、さらに重力も利用した僕が発揮できる最大威力の振り下ろしは、シシリオが片手で持つ変哲もない木刀によって容易く止められていた。
「威勢は良い。だが……」
「うわっ!」
シシリオが絡めるように木刀を動かすと、僕は空中でふわりと一回転した。
簡単にあしらわれる。もう何度も経験した。僕は慌てることなく再び距離を取って木刀を構える。
「ちゃんと使うべき技を見極めろ。アタシに果敢に挑んでも剣は当たらないぞ」
「それ言ったら何してもシシリオに当てれる気がしないんだけど」
「ハハ。じゃあ当たるように努力しな」
滅茶苦茶な暴論でありながら、正論だ。努力して剣が上手くなれば、いつかはシシリオに届くだろう。その"いつか“が何十年後になるかは分からないが。
ニヤニヤといたずらの笑うシシリオは自らの意地悪さを理解していた。僕の克己心を煽るように、その何十年後になる剣術をたった今獲得しろと言わんばかりに。
今日は、シシリオとの三度目の模擬戦。
どれだけ成長したか確かめるためにやっているが、これまでの二回は当たり前のように木刀は彼女に掠りもしなかった。さらに絶望を煽るのは、シシリオが本気のホの字も出していないことだろう。
少しだけ腹立たしい。
諦観しつつ、僕は戦略を変える。木刀がほんの少しでも当たればいい、それがルールだ。
斬りかかるなんて真向勝負、当たり前だがそれで彼女に勝てるはずがない。ただ木刀を当てる、それだけに集中する。滑稽で真剣では意味もない戦い方。
当たるはずがないと思いつつ、転ばないギリギリの姿勢のまま、僕は地面を這うように走り出す。日々の生活で鍛えられた体幹が僕の体を支える。
シシリオが初めて驚きの表情を見せる。だがそれは僕が新しい動きを見せたことへの驚きである。
その顔をさらに驚かせてやる。
大きな弧を描いてシシリオの背後へ回り込む。
しかし剣士たる彼女も簡単に背後を取らせてくれるはずもなく、剣は構えずとも追随するように体の正面を僕にぴったりと合わせる。
なるほど、僕は漸く理解する。シシリオは何の構えもしていないように見えるが、その自然体で隙だらけに見える立ち姿こそ『構え』だ。
ずっと愚直に剣の戦いをしようとしていた僕が馬鹿だった。同じ土俵でシシリオに勝てるはずがない。
足取り、力加減、剣捌き、攻撃を誘う技術、位置的優位。僕が理解できる範疇を超えるシシリオの戦闘スキル。何一つ僕が適う点はない。
だったら僕は、僕の土俵は、道具を信頼していることだ。僕ではなく、使われるために存在してい道具の力を発揮させることだ。
倉庫にある何十もの道具に触れて理解した。複雑であれ、簡素であれ、道具には与えられた役割がある。
使われることにこそ意味がある。
僕はそれを信頼するだけだ。自らの技術を信頼するのではなく、人が決めた使い方ではなく、道具そのものを信頼すること。
――その瞬間、僕は木刀を投擲した。
右手から離れた木刀は回転しながら一直線にシシリオへ向かう。
「ハハッ」
シシリオはそれを見て、短く笑った。
嘲笑いではなく、その鋭い犬歯を覗かせた、戦いに飢えた獣のそれ。奇を
僕が投げた木刀は、呆気なくシシリオの木刀によって弾かれる。届かない。頭上へ弾かれた木刀はクルクルと力なく回りながら彼女の背後へ落下する。
そしてその木刀が地面に落ちる寸前に、僕は左手で掴みとる。
信頼していた。
道具だからこそ、剣術だからこそ、投げられた木刀は弾かれる。
そして必ず、その木刀が僕の手に戻ってくることも。
投擲した木刀に一瞬でもシシリオが意識を向けたことで、僕は彼女の背後へ飛び込んでいた。
速度を殺さず、這うような姿勢で死角へと入り込み、地面スレスレからの斬り上げ。
剣を持たない彼女の右脇腹、それも背後からの奇襲、完全な無防備の場所への一撃。
これが僕の一手先だ。
カァン――と軽い音が響いた。
「良い剣筋じゃないか」
正午の太陽がシシリオの顔を影に隠す。
その声音は笑っているようにも、喜んでいるようにも聞こえたが、ひとつ確かなのは脇腹を打たれた痛みに悶える様子はないということ。
手応えはない。
木刀越しに伝わってくる筋肉を打つ、固くも柔らかい感触はない。
悟る。
ああ、またか、と。
僕の渾身の一撃は、曲芸のように背中から伸ばされた木刀の
シシリオは僕の斬撃の全てを木刀のただ一点のみで受け止めたのだ。人が為せる技ではない。
彼女がその切っ先を僅かに動かすと木刀は滑り、僕はバランスを崩して地面に手をついた。晒した背中に硬いものが突き立てられる。
振り向かずともわかる。シシリオの木刀だ。
「アタシの勝ちだ」
いとも容易く、何一つの焦燥はなく、しかし優越することもなく、手心を加えることもなく、合理的に、圧倒的に、そして不条理的にシシリオの勝利だった。
「何回か模擬戦をやってきたが、この中で一番よかった。特に戦術。真面目に剣を振っていたのに、突然走って、さらに剣を投げるなんて大胆な作戦…………柔軟で良い発想だ」
「ありがとう……怒らないの?」
「何に?」
本当に分からないとシシリオは首をかしげる。
地べたで三角座りする僕は、彼女の顔を見ないように、指同士を絡み合わせて、唇を尖らせる。
「いやだってさ、一番よかったのが今のって……全然教えてもらった基礎型ができてなかったから」
僕だってこれしきのことでシシリオが怒るはずないと知っている。負けた憂さ晴らしの言い訳を探しているだけだ。
僕の事情なんて知る由もないシシリオはきょとんとすると、豪快にで笑った。
「ハハハハッ!! 言っただろう、あれは『握り方』にすぎん。初めは型も重要かもしれないが、実戦で必要なのは
そういえば、そうだった。
シシリオは基礎型を構えではなく、心得や作法として説明していた。構えはその修得を促すものに過ぎない。
自らが実践することでその言葉が触れられるものとして脳裏に刻まれていく。
「ほとんどの新人剣士はそこで躓くんだがね……むしろ教えずにレッドができるなんて思わなかったよ」
ふーん、新人剣士は躓くところなのか……。
僕は教わらずにできたのか。
教わらずに真理に到達しちゃったわけか。
ふーん。
ふーん……。
「ふ、フフっ……」
「嬉しいなら素直に笑いな、レッド……キモい笑い方になってるぞ……」
「へえっ!? 顔に出てた!?」
「もう満面の笑みだったね」
シシリオの冷静な指摘に、火を纏ったかのような恥ずかしさが駆け巡る。耳の端まで熾火のような熱を帯び、今にも心臓が弾けそうだ。
頭から水を被りたい気持ちを抑えつつ、恥ずかしさを紛らわすために僕は手に持つコップを呷る。
もう負けていじけた子供心はいなくなっていた。
「だがどうしていきなり戦い方を変えたんだい? 何か吹っ切れたのかい?」
「吹っ切れた……のかな。どうなんだろう」
吹っ切れた感覚はない。
道具――木刀を信頼し、その役割を最大限発揮させようとした結果、僕は走り、投擲もした。
打算的だったことは認める。シシリオが弾いた木刀を利き手とは逆の手で受け止めるなんて、普通に考えれば無理だと思って実行しない。
でもシシリオにそれが唯一勝てる要素だったから、そうしたまでだ。
それに失敗するイメージが湧かなかった。必ず成功する確信もなかったけど、道具を信頼することで生まれた自信が僕を導いてくれた。
「勝つためにはって考えて、
「なるほど。そうか……潜在的に…………」
「え? なんて言った?」
「いや、なんでもない」
何を言った気になったが、僕自身も掴みとった成長の余韻に浸るのに手一杯だった。
ずっと負け続きで、一度も惜しい勝負をしていなかった僕にとって今回シシリオがちゃんと褒めてくれたのは、本当に嬉しかった。言葉にすれば陳腐だけど、羞恥心がなければ小躍りしたいほど嬉しい。
「でもアタシに当てれなかったからアタシの昔話はお預けだよ」
「ちぇッ」
「ただ……そうさね。教えずにその感覚が掴めたのならいいか」
「え、昔のこと教えてくれるの!?」
「違うよ。もっと身になることさ」
シシリオは腕や足の関節をほぐし、まるで先程の模擬戦は運動にも満たなかったかのように、体操を始めた。
後ろで組んだ手をぐぅーと持ち上げ、肩の関節を外す勢いで頭の上に運ぶ。
屈んで片足づつ伸ばす姿勢は、彼女が座っていた切り株よりも低い。
軽く膝を曲げて跳躍するだけで僕の身長の半分は跳んでいる。
「もう訓練を始めて二十日経つ。いつまでも生温い模擬戦をやっていても実戦じゃ意味をなさない。卒業試験みたく、最後にやろうと思っていたんだが、この成長速度ならアタシの『本気』を知るのもいい機会だろう」
シシリオは首を回しながら言う。
僕はゾッとした。
「シシリオの本気……?」
「安心しろ。戦うわけじゃない。アタシの『本気の殺気』をレッドに当てる。それだけだ」
彼女の「安心しろ」という言葉ほど、疑心暗鬼にさせる言葉はない。その枕詞がある場合、経験上八割は安心できない。
だが本気の彼女と戦うわけでないのなら、それ以上の最悪はないだろう。その点では安心できる。
「でも殺気って何?」
「気配みたいなものさ。当てられる側からすれば危機感かね。当たり前だが実体はないよ」
「うーん。いまいちわからない。実体がないのに、あるってことでしょ、殺気が。今からそれを僕に当てる?わけだし」
「体験した方が早いが……いや先に言葉で説明しよう」
シシリオが勿体ぶる理由は分からなかった。
「例えば殺気は『やる気』に言い換えてもいい。多分レッドはやる気のない剣士に出会っても即座に命の危機は感じない。『殺気』のまま考えても、町にいる兵士と会っても斬り殺されるとは思わないだろう?」
「そうだね。僕を殺そうとはしてないから危機感なんて感じないと思う」
「だが殺そうとしている……例えば兵士が犯罪者と対峙した時、あるいは戦争で剣士同士が向き合う時、そこには明らかにレッドに向けられていなかった感情・気配があるはずだ」
「ああ! なんか分かった気がする!」
殺気の実体は掴めないが、シシリオの言っている意味はすごく納得できた。
殺されるかそうでないか、それを分けるのは確かに『殺気』だ。
例えば剣が置かれていも僕らは殺されるなんて思わない。それは置かれた
しかし人が剣を携え、あまつさえ敵や魔物と対峙していたら、その剣は抜き身にされていなくとも命を奪うための道具になる。
両者にあるのは殺気の有無のみ。
人の殺すという思いが道具に可殺性を生じさせる。
シシリオは歩いて薪から飛び出る細い枝を手のひら大に手折る。乾いているが軽く振るとたわむ柔らかさは残っている。
「分かってくれて何よりだ。だが論理で知っても、結局、殺気は感情の部類。体験しないと意味がない」
「なんか、頭で殺気を理解できたからなおさら怖くなってきたんだけど……今からシシリオが本気で僕を殺すって思うわけじゃん? あはは……どんな感じってわけだよ」
自然とヘタクソな笑い声を漏らしていた。手の震えに気付いてから、僕は体の芯から怯えているのだと他人事のように思った。
シシリオが優しい笑みを向ける。穏やかで朗らかな殺意とは無縁の笑顔は、体が本能で理解する光景とあまりに違っていた。
「そうなる。でも安心しろ。死にはしない。死を体験することはできるがな」
「ちょっとシシリ――」
ピィ。
無造作に振ったシシリオの手が僕の首の前を通過する。
ア。
世界が真横になると重力も真横に働いて、僕は反り立つ地面へと落下した。ゴトン。頭になっても不思議なもので、痛みはあった。
シシリオの足だけが瞳に写る。
切断されあ首からねっとりとした血液が溢れているのお感じる。ヒューヒューと口笛のように呼吸が断面かラ鳴る。
まだ意識はあル。しいかし段々と日が暮れて、闇がが来る。急に脳みおが沸騰したヨうに熱くなっって、明滅する。
苦しいィ。呼吸をしてモ漏れだしててていく。声もで亡い。全てが抜けていクみたいあ。
い寒。か頭ら離てれる体がい、手足がむ痛。
死ぬ。いやだ。
死だ。いぬや。
い死、ぬや。だ。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
夥しい恐怖の虫が頭の中を掻き毟る。
「バカタレッ! 本当に死ぬぞ!!」
シシリオの怒号を孕んだ焦りの声が耳に届くよりも先に、彼女が放った平手打ちで走る頬の激痛に悶えた。
脳内に火花が散る。
痛みで遮断された恐怖心の合間を縫い、彼女に操られる僕の手が死の輪郭を触れさせるために動く。頭髪から顔面へ撫で下ろし、その切断された首へと伝い、そして地続きの胸へ肩へと指が皮膚を引いていく。
首は繋がっていた。
死ぬなんてことは、なかった。
理解するや否や、痙攣を始めていた四肢や顔面が次第に落ち着いていく。暗闇に飲み込まれていた意識も、今でははっきりと太陽の朗らかさを知覚できる。
数秒遅れて僕は張り裂けそうな鼓動と共に飛び起き――切断されたと勘違いしていた体はいつも通りには動かず、芋虫のように地面を跳ね回った。
「あ、ああ、ああ」
喋ろうにも舌もうまく機能しない。息もうまく吸えない。
まるで首から下が死体になってしまったかのようだ。死んでいるのか生きているのかもわからない体に、爪先から浸蝕する恐怖に理性が溺れる。
シシリオは両手で安定しない僕の頭をがっしりと固定し、自らの額を僕の額へ当てる。少し乱れた彼女の呼気もわかる距離で、綺麗な蒼い瞳と目が合う。
「落ち着け! 深呼吸しろ! いいかい!! ほら深く息を吸って!!」
「あ、あ、う、ふ、スゥー、ッ、はっ、はっ、ふー。すう、スゥーっ、はふ、ふぅー。スゥー、ふぅー」
「よし!! よし良い子だ! そのまま続けて」
言われるがまま呼吸を整えていくと、体は僕の言うことを聞き始めていく。完璧に呼吸が落ち着くと、今度は込み上げる嘔吐感にうずくまった。幸いなことに胃からは飲んだばかりの水だけが吐き出された。
切断された首を触る。当たり前だが傷はない、切断されていないのだから。血液だと勘違いしていたものはべったりとした冷や汗だった。
冬の真夜中に外へ飛び出したみたいに体は冷え、震えている。凍えているわけではないから手足を引き寄せて暖めても無駄だった。死の恐怖を前に竦んでいるのだ。
しかし、ああ、嬉しい、
生きている。
胸から響く鼓動に安堵する。
「落ち着いたか?」
あぐらをかいて座るシシリオが心配そうな声音で伺う。
「う、うん。なん、とか」
気力を出して言葉を紡ぐ。
震えた声に力はない。
「すまない。アタシもやり過ぎた」
「…………うん」
シシリオが申し訳なさそうに頭を下げた。
許しの言葉はかけなかった。本当の死にそうだった、それだけの苦痛だった。いくら家族だとはいえ、それを簡単に許すことはできなかった。
だから僕は頷くしかなかった。
彼女の足元にある木の枝を見る。
それだ。変哲のない、少し曲げれば折れてしまう、振り回すにも頼りないただの枝。
しかしその木の枝で首をなぞられて、僕は首を落とされたと思い込んだ。
木の枝で首をなぞられたところで、誰も首が切断されたとは思わない。思えもしないし、理解もできない。
でも僕は、首を切断されたと思い込んだんだ。
現実的に不可能だとしても、相手に可能だと
シシリオは『殺すという感情』だけで僕にただの枝を断頭できる凶器へと思い込ませたのだ。そして首を落としたて思い込ませ、思い込みによって僕は殺されそうになった。
それこそが『殺気』。
もはや質量を帯びた、実体のない武器。
相手を殺す――という戦いに於ける基礎感情。
「シシリオは……。すごいね」
「いや加減できなかった。アタシは未熟者さ。これに関しては何一つ尊敬されることはないよ。危うく本当に殺すところだった」
「そんなこと、ない。なんとなく、分かった気がするから」
見えないけど、見える。
シシリオが背負う、数多の屍。
それは恐ろしいほど大きく、罰の形をしていた。
■■■
深く深く、手付かずの緑が夜ほどになるイズメ森林の最奥地。
鬱蒼とする樹々が互いに縺れて亡骸に、その屍に芽吹く新たな花を持たない草と蔦が纏わりつく。
滅びと蘇生を繰り返す、永劫致命の森には一陣の風も響きたる、しじまで満たされる。
……。……。……。……。
無音に近い足音が、草木の隙間を抜ける。
行く行く道に、齧られ、噛み砕かれ、食べ残された死肉は腐り始めている。それも今では森に住む蟲が群がり、分解を始めている。
歩くモノは自らが敷いた残骨の床を見向きもしない。奪ってきた命は、そのモノにとって勲章の価値はない。平伏す悉くを冒涜的に踏みつけ、潰していく。
グシャリ、グシャリ。
なんと残忍で、悪意ある、嗜虐の音であったか。
その音に知性ある生き物は逃げていく。
悠然の歩みに亡骸は弾け、腐肉がヒタヒタと滴る。生まれながらにして赤茶に染まる足先の体毛はまるで、その返り血を隠すためにあるようだ。
おもむろに倒れた樹々が作る窪みへ腰かける。手足を折り畳み、尻尾を巻く。その様相は高潔な死であった。
森がざわめく。
「………………」
そのモノはひとつの気配を感じ取り、顔を向ける。見えないはずの樹々の壁の向こう、そのさらに奥を見つめる。
伝播してきた、己に匹敵する、膨大な殺気。
濃厚で、苛烈で、洗練された強者の気配。
そのモノは毛を逆立て――ニタリと涎を垂らす。剥き出した歯から食い千切った毛皮の一部が落ちる。
まろび出た血気に高潔さは消え失せ、醜悪だけが滲み出す。戦いに飢えるおぞましい本性が、死の臭いに混じって現れた。
もし、この魔物が言語を持つならばこう呟いていたに違いない。
嗚呼、殺しに行こう。
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