第9話 スプーンが落ちた

「むぅー」

 

 膨れっ面のネーシャが僕を睨んでいる。少しだけ開いた家の小窓から、赤頭巾の陰の中でもはっきりと分かる幼女の凄まじい眼力が飛んでくる。

 庭にいる僕がその視線に振り返るとネーシャはヒュンッと頭を引っ込めて隠れる。頭巾の先っちょは小窓からひょっこり顔を出しているけれど。

 それで僕が「気のせいか……」と呟いて前に向き直ると、まるで滑車みたいにネーシャの膨れっ面がズズズと上がってくる。

 そして振り返ると、またヒュンッとネーシャは隠れる。横目で見ているから何もかもお見通しだから、少し暇潰しにそれで遊んだ。


「何か視線が……」、スッ。

 ヒュンッ。

「気のせいか」

 ズズズ。

「ん?」、スッ。

 ヒュンッ。

「気のせいか」

 ズズズ。

「やっぱり視線を感じるな……」、スッ。

 ヒュンッ。

「気のせいか」

 ズズズ。

「……」、スッ。

「あ、わ!」、ヒュン。


 あ、目が合った。

 ちょっとした悪戯で前振りを入れずに振り返るとネーシャは驚いた声を出して、慌てて頭を隠す。小窓から飛び出た頭巾の先っちょが恥ずかしそうに右往左往している。

 もうばっちり隠れる瞬間を見ているのに僕が気付いていないと思っているだろうか。おかしなネーシャに僕はくすりと笑った。


「むぅー!!」


 笑ったことでさらに腹を立てたのか、ゆっくりと浮上してきたネーシャははち切れんばかりに頬を膨らませて威嚇する。

 他愛ない、もはやどちらが遊ばれているかも分からない児戯を楽しんでいると、動きやすい格好のシシリオが家から出てきた。かくいう僕も動きやすい服装だ。

 外は冬にしては珍しく晴れて、暖かい風を運んでいる。春がもうすぐそばまで来ているのだろう。運動をするのにもってこいの日だ。


「レッド」

「うわっ!」


 シシリオは予告もなく、手に持っていた二本の木刀のうち一つを僕へと投げた。唐突過ぎて変な声を出してしまったが、木刀にぶつかるというドジもなく、両手で難なく受け取った。

 絶妙な重さを持つ、細かな傷が入った年季のある木刀。

 シシリオは肩に木刀を掛け、小窓から飛び出ている頭巾の先っちょに微笑みながら嬉しそうに目を細めた。


「昨日はどうしようかと思っていたが、子供ってのは案外立ち直るのが早いもんさね。ネーシャの初めての反抗期が一晩だなんて呆気ない」

「そう? 朝から一言も口を利いてくれないよ? めっちゃ睨まれてはいるけど」


 ネーシャの口ではなく目だけで訴えてくる態度は、小さな体で怒り心頭と暴れるより何倍も怒気が孕んでいる。


「ハッハッハッ。それはお前さんがあんなはぐらかすように言い訳するからだろ。あとでちゃんと説明しておきな。怒ってるのはレッドに懐いてるからさ。ちゃんと説明すれば分かってくれる」


 いいことを言ってくれる。

 怒っているのは愛情の裏返しだと。こうして改めて言葉にすると、僕もネーシャの家族になれたのだと嬉しくなる。 

 それにしても言い訳だって? 聞き捨てならないことを仰るものだ、この老婆。


「こうなった原因は大方シシリオのせいだけどね」

「ギクッ。……アタシはレッドに睨まれるってことかい」

「フフッ。怒ってないからいいよ」


 なかなかしょうもない怒りの連鎖は早々に断ち切って、ネーシャが怒っている発端について少々回想でもしてみよう。

 出来事は昨日の晩、帰ってきたシシリオに剣の扱い方を頼み込んだところから始まる。


「「剣の扱い方について」」


 重なった言葉に僕は彼女の顔を見た。思考と結論が重なったシシリオは僕の真剣さとは異なる、実に不吉にニヤリと笑った。


「奇遇だね。アタシもお前さんに教えたい、その剣の振り方を。――トリストン流の王国剣術を、さ。レッドも学びたいと思っていたのなら話が早くて済む」

「本当に!? でもどうして突然どうして? 朝の……罠の件もある?」


 僕から剣の扱いを頼み込むならわかるが、シシリオからも提案されるのは意外だった。嬉しい反面、あれだけ罠で見た魔物の痕跡について僕に触れさせないようにしていたシシリオが、むしろ参加させようとしている心変わりに懐疑する。

 けれど彼女は僕の畳み掛けを切り捨てるように手のひらを空で振り、親指でテーブルの方を指す。

 

「待て待て。先に食事だ。こんなご馳走が話で冷めたら台無しになる。話なら食事中でいいだろ?」

「あっ、そ、そうだね……」

「ごはんなのです~!」


 楽しそうなネーシャがいてくれてよかった。ネーシャの無邪気さがなければ、先走った恥ずかしさを紛らわすために僕は柄でもないことを口走って、恥の上塗りをするところだった。

 そして食事を楽しんだ。

 一品一品、これまで食べてきた野性的な食事とは似ても似つかない華やかな美味しさだった。

 ネーシャの天才的な料理センスと仕込み作業を手伝った思い入れも相まって、たぶん同じ料理を出されても今食べている料理が世界一美味い。

 いつも荒々しい食べっぷりのシシリオも今回ばかりは丁寧にナイフで内臓焼きを切り分け、薄く切った堅パンへ香辛料と爽草のソースと共に乗せて口へと運ぶ。ゆっくりと咀嚼すると、いつも使っているコップとは形状が違う真ん丸としたコップに注がれたワインを呷ると、なんとも優雅に恍惚とした表情を見せた。

 それは、老体のシシリオであったが、彼女の肉体が全盛期だった頃にあった妖艶さを僕にでさえ思わせた。


「美味しいねぇ……こんなに美味い肴、いつだったかな。随分昔に二度くらいあった気がするよ。やっぱりネーシャは天才だ」

「にへへ。ネーシャがお店やったら、いっぱいおきゃくさんくるなのですか?」

「そりゃ当然さ。何せ何十年も生きてるアタシのお墨付きだからねぇ。むしろさっさとネーシャが町で自分の店を持つ姿を見ていたいよ。きっとすぐに大繁盛で世界一有名になっちまうだろうね」

「むふー! まちにもおいしいお店いっぱいなのです。でもスーパーシェフのネーシャがもうばったばったたおして、ぎったんぎったんにして、もうぎゃふんといわせて、いちばんになるなのです!!」

「その意気だネーシャ! ハハハ!」

「考え方が戦士すぎるよ……」


 料理の話なのにばったばった倒すって……料理って何かの隠語だったか?

 ネーシャの発言から戦士要素を取っ払って年相応の物言いに換言すれば、たくさん料理して他の店よりも美味しいものを作る、というただそれだけの普通のこと。

 だからこそ、やはりネーシャはシシリオの子だ。可愛らしい容姿に似つかわず、シシリオから学んだ逞しい考えと言葉遣いは彼女にそっくり。それに、その奥深くにある信念もやはりシシリオと同じだ。

 微笑ましい二人に僕も自然と笑みがこぼれた。


「レッドも一流までとは言わんが、剣の腕、アタシが教えるんだからそこそこ上手くなってもらわないと困るよ」


 ナプキンを押し当てるように唇の汚れを拭うシシリオが言う。

 アタシが教えるから、それはまるで自らを強者だと自覚している人間の言い方だった。

 いつも彼女の言動から感じていたものが、今はっきりとした疑問へと変わるのが分かった。


「純粋な疑問なんだけどシシリオって剣の扱い上手いの? というか強いの?」

「アタシは強いし、当然剣も扱えるさ。レッドの一億倍は強いだろうね」

「一億!? ……ってどれくらい?」

「もうアホほど強いってことさ」


 シシリオは冗談を言う気配でもなく、淡々と真面目にそう答えた。自らのおかしさに笑い出すこともなく、真顔で真実だと言わんばかりに言い切ったのだ。

 慢心や自信の類いではなく、真実なのだろう。鍛え上げられているとはいえ、老い衰えているはずのシシリオと僕とには一億倍の差があるのだろう。

 それは僕が戦い方も剣の持ち方も知らない子供ということもあるだろうが、同時にシシリオが戦う人間として格の違う領域にいることを意味している……ように僕は確信した。

 でなければあんなに力強く、一切の動揺なく、何度も言ってきたように淀みない言葉は出てくるはずがなかった。

 だから僕も淀みなく真っ先に感じるべきことは、光栄だということだ。一億倍……アホほど強いシシリオに剣を学べるのだから光栄極まりない。

 誠実に、それでいて貪欲に!

 短期間で一人立ちできるように全部を吸収する気持ちでいかないと、魔物蔓延る世界に立ち向かうことすら無理だろう。


 彼女が呷ったコップをテーブルへ置くと、話が切り替わるように組んだ焚火の薪が崩れた。


「だからレッド、お前さんが懸念している森のは気にしなくていい」


 突然の言葉が心臓を滑らかに刺した。

 どうしてずっと黙っていたのか、虚をつかれた僕が最初に抱いた疑問だった。しかし僕が疑問を呈する前に、シシリオは続けた。


「何があってもアタシがやる。むしろ、レッド如きがどうにかできる相手じゃない。分かったね?」

「…………うん」

「不承不承だな。でもこれは理屈じゃない。本当にこの件はアタシがどうにかしないといけない領域さ。レッドが相手するには三十年早い」

「そんなにヤバいの?」

「ああ、そうさ。だからレッドが一人で旅するためには、今回の相手ほどじゃないにしろ、ある程度の魔物や盗賊にも負けない力をつける必要がある。じゃなきゃアタシたちと離れた瞬間、即刻、死だ。それが世界さ」

「死……」

「記憶を探す旅で死なせないために、アタシはお前さんに剣を教える。決して今回の件じゃないからそこは履き違えるじゃないよ」

「分かったよ」

「よろしい」


 僕が納得すると、シシリオは一息ついて椅子に凭れた。

 落ち着いて、淡々と話していた彼女の態度は聞き分けのない僕を叱るようなものではない気がした。敢えていうなら毅然とした彼女が話していたのは、もっぱら使命感から生じているように思えた。

 夜になって漸く僕に告げた森の魔物ことと、それまで家を一人で出ていたこと。僕らにそのことを説明しなかったというのは、裏を返せば一人でどうにかしようと考えていたからだ。

 どうにかできると知っているからだ。

 だからシシリオは僕に剣術を教えなければならないと考えた。

 今はシシリオが一人でどうにかできても、今後レッド・ロッソは進むべき道にいる敵を己一人で倒さなければならない。

 強者ゆえ、そして平穏ゆえの思考が今回の件を機にがらりと変わったのだ。


 変わったのはシシリオだけじゃない。

 コツン、と床にスプーンが落ちた。


「いなく、なるなの……?」


 ネーシャの震えた声の呟きは、暗闇で火を灯すように広がった。見開かれた丸い瞳は驚きと、まだ咀嚼しきれていない悲しみの原始に染まっている。

 咄嗟に僕はシシリオを見た。助けを求めるためではなく、彼女が口を滑らした僕が一人旅に出る事実を今さらになって恨めしく思うためだ。

 だがすぐにそのような思いをぶつけている暇はなくなる。視線をネーシャへ移すと唖然とした彼女がわなわなと震え始め、今にもわっと泣き出しそうだ。

 僕はネーシャの泣く姿は見たくなかった。今日は特にそうだ。頑張って作った豪華な食事だというのに、泣いて気分が萎えれば最高の日だって最悪足りうる。そんな思いをさせたくはなかった、

 だから言い訳がましく、ご機嫌を取るために、でも嘘は吐きたくないから正直に僕はいそいそと言葉を仕立てた。


「ネーシャ。ネーシャ良く聞いてくれ。今日の夕食は超うまい。町で店を出せるレベルだってシシリオも言ってた、だろ? ネーシャもいつかは料理人になる。それってつまり一人立ちするってことで、森を出て町に行くってことだ。な? 僕の旅って言うのもそういう話なんだ。僕の夢のために森を出る、そういうネーシャもいつかは経験することを、僕は少し大人だから先に経験するって話なんだよ。突然だと思うけど……あはは、こういうのっていつも突然だから信じられないと思うけど、ごめんネーシャ。もうシシリオと決めたことなんだ。でもいつかはネーシャも経験することだから悲しまないでくれ、頼むよ」


 矢継ぎ早の言葉を半ば、僕自身も理解できていなかった。

 ネーシャは、ぎゅっと口をつぐんだ。


「ん!」

「え?」

「んー!!」


 閉じた口の中で訴えるが、何を言っているかさっぱりわからない。言葉にも、ただの叫びにも聞こえてしまうのに、伝わってくるのは僕を睨む彼女の双の瞳の怒りだけだ。

 ネーシャはテーブルの上にある予備のスプーンを手にとって、夕食を味わうことなくカカカッと口へ搔き込むと頬袋をいっぱいにしたまま、寝室に閉じ籠った。

 バタンッと力強く閉められた扉は、普段のネーシャからは想像もできないほど荒々しく、悲鳴のように軋み上がった。そしてリビングは静まり返った。


 結局、僕はネーシャの怒りを静めることに失敗した。それもくすぶった怒りに薪をべてしまった。

 剣の練習を約束したのに、その夜はなかなか寝付けなかった。

 もっと早く、決断したその日にネーシャにも伝えればよかった。時間が迫っている時よりも、まだ幾日か余裕があった日に説明できていれば、すぐに僕自身も納得できる説明ができたはずだ。

 後悔している。

 後悔して、なんだか上手くやっていると思っていた僕自身に落胆している。


「でも、今は、それに引っ張られる場合じゃない」


 回想は終わり。ここで話は終わらせるべきだ。

 再確認だ、僕が今シシリオと向き合う理由の。


「剣を習う。謝るのは、その後でいい」

「そうだな。今はに向き合おう。木刀だがな」


 軽い冗談に空気は冷えて、シシリオは不敵な笑みを止め、すぅーと表情を消していく。

 まだ何も始まっていないのに、吸い寄せられるよに本能が目の前にいるシシリオから離れなくなる。勝手に感覚が鋭く冴え渡っていく。

 目が、離せない。意識が逸らせない。

 錯覚に陥る。

 それがシシリオ・ロッソが持つ、戦士としての存在感だ。


「さあ、剣の握り方から始めるとしよう」

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