第8話 日常を構成する簡単なレシピ
草と土を踏む音と森の呼吸だけが支配してしまう静寂を時折破る二言三言は、ついさっきの僕らからすれば素っ気ない会話だった。どちらかが言った言葉に相槌を打つだけの、とりつく島のないやり取り。
森で見つけた鹿の残骸と大きな獣の足跡の正体を、僕はシシリオに問うことはできなかった。
けれど彼女が見せた、敵意を剥き出しz2n
Sにしたオオカミの威嚇のような、恐ろしい表情は言葉よりも雄弁に状況を説明していた。
僕だって状況から何も推測できない能天気な馬鹿者ではない。大きな足跡、それから推定すれば僕らの住む小屋を
そんな怪物――魔物が森を未だ闊歩している。そして、罠に掛かったであろう鹿を食らったというのなら、その魔物はまだ付近にいるはずなのだ。
未だに帰る道のりは、鬱蒼とする樹林の中。いつ出くわしてもおかしくない。まだ見ぬ巨大な魔物、だからこそ僕は芯まで恐怖に蝕まれる。見えないからこそ、敵を想像してしまう。今にもそこの木々の影から現れるかもしれない。
怯えるだけの僕にそれでもなんとか叫び出さない勇気を与えてくれたのは、シシリオの強かな足取りとその大きな背中だ。
彼女の険しい表情は最大限の警戒、そして臨戦態勢を意味する。僕は彼女の実力を知らない。しかし迸る熱気にも似た殺気が、一切戦いの経験がない僕であっても曖昧にではなく、鮮烈に感じ取れた。
シシリオに対する畏敬。
家族的な情や年長者への尊敬ではなく、シシリオ個人が秘める膨大な存在感に畏れている。それは家を跨げる魔物を屠ってしまうのではないかという、説得力さえ産み出した。
そして無事に家へと帰れた僕は半ば無理やり、開いた玄関へ駆け寄ったネーシャさえも退けるようにしてシシリオに部屋へ押し込まれた。
ネーシャを下敷きにしまいとよろけた足を持ちこたえる。呆気に取られた僕は瞬時にネーシャが怪我するかも知れないシシリオの乱暴な行動に憤りを覚えた。
「ちょ、ちょっとシシリオッ」
「今日はもう外へ出るな。いいかい。アタシが帰るまでに豪華な夕食の支度をしておきな」
「な、まっ! ……説明ぐらい、いいじゃんか」
引き留める一言を言い放つ暇もなく、玄関は力強く閉まった。バタンッと大きな戸の音が静粛を問うかのように雑音を奪い、むなしい感情だけが込み上げた。
扉越しに一人分の足音が森へと踵を返す。数歩もすれば風の音が勝って聞こえなくなった。
シシリオの有無を言わせない、一方的な釘を刺すだけの言動はひどく傷つけるものだった。そして強く自覚させた、僕がまだ守られるべき子供だということを。
分かってる。シシリオの尋常でないことぐらい。
彼女が取り乱すことは、一ヶ月以上の共同生活を経ても一度もなかった。
それは何年も共に暮らしてきたネーシャにとっても初めてなのだろう。幼い少女の不安げな表情が僕の顔をじっと見つめた。
「レッド……?」
か細く、状況を飲み込めていないネーシャの震える声は鋭く心臓を抉った。
悲しみというか、やるせなさというか、悔しさというか、まだ僕はシシリオに頼られる存在ではないということに無力感だけが込み上げた。
「……なんでもないよ、大丈夫。きっとシシリオは壊れた罠を回収しに行っただけだから」
「ほんと?」
「うん……。だから美味しい夕食を用意して待ってよう。たぶん、お腹空かせて帰ってくるから」
「うん、わかったなのです」
嘘だ。いや、本当かもしれない。
だってシシリオ本人から何をしに外へ行ったのか、なにも説明されていないのだから。
ネーシャのすぐに折れてしまいそうな背中を庇うように押す僕の手は、滑稽なほどに頼りなかった。
僕は驕っていた。認めていい。僕は、色んな仕事を任されて、シシリオから頼られていると思っていた。
だから、惨めで仕方なかった。
僕は"子供“としてシシリオを頼っていたし、やっぱり森から帰る道中も彼女に守られていることを誇らしく感じていた。
でもいざ僕が演じていた"子供“として扱われると、納得がいかなくて、僕に向き合ってくれないシシリオに憤りさえ覚えて、一丁前に何かをやれる気振りになって、そしてすぐに自覚するんだ。
ああ、当たり前だ。
いったい、この"子供“の僕に何が出来るっていんだ。期待する方がおかしい。
むなしくなる。
シシリオならきっと大丈夫。確証はないのに無条件でそう思ってしまえるのが、何よりも決定的な僕とシシリオの違いだった。
「ああ、もうッ!」
「わっ! なになのです!」
僕は髪を乱し、声を荒立てる。答えのでない霧の感情を晴らすために。
隣でびっくりしているネーシャに膝をつき、彼女の両肩に手を乗せる。真っ直ぐとした目で幼い琥珀色の目を見返した。
不安の色に染まっている。でもそれはシシリオのせいではなく、僕がしっかりしてないからだろ。
「ネーシャ! とびっきり上手いご飯を作ろう! それでシシリオをびっくりさせよう!」
薄暗かったネーシャの瞳は、大声に驚いて見開かれると、次第に僕の言っている意味を理解していき、再び見開かれた。そこにはもう薄暗さはない。
返ってきたのは笑顔と。
「うん!」
元気な頷きだった。
僕から変わらないと。頼ってもいい存在に成るために。
夕食作りに取りかかった僕とネーシャは、シシリオの言いつけ通り、最高の馳走を用意しようと息巻いた。
「むふー! さぁやるなのですよ!」
お気に入りの赤頭巾を深々と被り直したネーシャシェフがきりりとした表情を浮かべ、腕を組んだ姿は威厳すらある。
そしてシェフの的確で素晴らしい指示が飛ぶ。
「えっと……まずはボウルにあかキイチと……ラズゥを、つぶして……まぜるなのです!」
「了解シェフ!」
干してある赤小ぶりな赤キイチと黒いラズゥの実を潰して砂糖と混ぜてジャムを作り、半分は塩漬けの鹿肉に漬け込む。
「つぎは、こむぎこのきじでつつむ、なのです!」
「了解シェッ!」
小麦粉と水で作った生地を薄く伸ばし、包丁で叩いたウサギとキノコなどを包んでいく。
「ここはとってもじゅーよーなさぎょうなのです……」
「了解ッ!」
煮て灰汁抜きした芋を他の野菜と共に潰しながら混ぜ、さらに小麦粉を加えてまとめたらフォークとスプーンで親指の爪ほどの大きさに丸めておく。
「ソースはおいしいごはんのきめ手なのです!」
「りょッ!」
いくつかの香辛料と
「たべものにすてるところなんてぜんぜんないなのです!」
「ッ!」
屑野菜と肉の端材は、鹿骨を煮出したスープの入る鍋へ放り込み、
「あ~、シェフ……ちょっとこれはグロで無理かも……」
「シェフのいうことはぜったいなのですよ! ん~びびびびびー!!」
「ぐわー! リョウカイ、シェフ・ネーシャ、貴女ノ命令ハ絶対デス。バンザイ。ネーシャ、バンザーイ!」
「のわっ!? やりすぎてしまったなのです!」
あまり直視できない内臓系もシェフの魔法にかかれば立派な食材だ。
一つ一つ丁寧に隅々まで酒の入った水で洗い、下処理をしてぶつ切りにした後は炭と塩、少量の爽草を揉み込む。真っ黒になったものを要らない皮革で包み、串で口を閉じたら暖炉の上の方に掛けて遠火に置く。
こうしてシェフに従いながら僕が仕込みを行っていく。時には言いつけを破って外の氷室に荷橇を引いて走り、必要な材料も持ってきた。
他にも色々と仕込みを行ったが、そうこうしている間に行うべき作業は一通り終わった。あとは仕込んだものを焼いたり、茹でたりするだけだ。
けれど時刻はまだ夕食には遠い。夜が早い冬でも今はまだ空が仄暗くなった程度。ネーシャと二人で張り切りすぎたと笑いつつ、外に出ることもできないので部屋の中で過ごすことにした。
ネーシャは多彩なもので料理や読み書きの他に、最近は絵を描く趣味を作った。ナイフで少し先の方を削った炭を握り、屑紙に絵を描く。始めた頃は拙い絵だったが、今では僕でも分かるほど上達している。
対して僕はなにもしていない、訳にもいかず、少し休憩していたが、まだ何かシシリオが帰ってくる前までにできることはないかと考えた。
そして、シシリオとネーシャの寝室に入って、大きな本棚を見上げた。以前は文字が読めることを知られないためにこそこそと近場の本を読んでいたが、バレた今となっては堂々と物色できる。
改めて本の背表紙に書かれた表題の眺めていくと、新しい発見があった。ネーシャが読むものは物語集が多く、僕が読んだものも詩集や簡単な内容のものだった。それらは本棚の下段に密集していた。
本棚の上段には、僕ですら読めない刻名文字が使用されている本がいくつも並ぶ、学術書や歴史書、図鑑までもが収まっていた。
シシリオはわざとこの配置にしたのだ。幼いネーシャが読めるものを下段に置き、自身の物あるいはネーシャが大人になって自力で手に取れる年頃に合わせた物を上段へ置いている。
素直にシシリオの表には出されない教育方法に感心する。
「これって……」
ある一冊に目が止まる。
本に手を伸ばした。背伸びをしてようやく届く高さにあるそれを引っ張り出し、あまりの重さに落としそうになるのを何とか持ちこたえてシシリオが普段使いしているであろうデスクへと置く。
浅雪のように埃被っている表紙を軽く手で払い、持ってきたカンテラのつまみを捻って火を灯す。
それは『魔物に関する解説およびいくつかの仮説について』と革表紙に刺繍された、分厚い図鑑だ。
ヒストゥル・ワルダー・デボラテラ 著。
啓く学座スールパレス 刊行。
古い革の滑らかさに指を楽しませて表紙を開き、序文へと目を落とす。
最初にこの本を読むに当たって、動物と魔物の違いを知らなければならない。多くの読者はその違いについて考えたこともないだろう。だが両者を隔てる絶対的な相違点や特徴が存在するというわけでもない。極論、どちらも同じ延長線上にいる生物であり、また人間をその線上で考える時、未だに動物なのか魔物なのかは主張によって異なる。
しかしここでは魔物学に焦点を当てた内容となるため、両者を区別する定義付けを行う必要がある。本日は魔物学でもっとも広く使用されている基準を用い、読者皆々様にも直感的かつ理性的に納得し得る定義付けによって本序文は仕舞いにするとしよう。
魔物学は四つの定義を用いて魔物と動物を区別する。
・進化論的発展とは異なる、また突然変異とも近似ではない生体的特徴を有すること。
・他種族に対して侵略的、あるいは加害的性質を持つこと。
・自己保存を超えた超自然的活動を行っていること。
・魔法的性質を所持していること。
上記したものが二つ以上当てはまる場合、『魔物』と分類する。他にも複数の基準はあるが混乱を招かないために仔細は省く。補足しておくと、まず進化論的発展とは、全生物には共通する祖先の特徴を持つのだが、魔物はその範囲を超えた非進化的性質や本来獲得することのない能力を持っている。また魔物には高い知性を持つ種族が多く、人間以上の知能を持つ魔物もいるとされている。
以上を踏まえたうえで次項から魔物の説明に移る。
そこからは、多種多様な魔物に関する記述が説明文と緻密な絵図を用いて数百ページと続いた。
トロル。
巨躯を持った人型の猛豚。侵略的性質を持ち、好んで他種族を虐殺して食い尽くす高い知性を持つ。脂肪で覆われた醜悪な容姿は装甲と重量を兼ね、また集落を形成する文化的特性から常に集団行動を行うため、人間でも騎士団ほどの規模でなければ退治できない危険な魔物である。また性器以外で雌雄の判別を行うのは困難であり、トロル自身もオスとメスで役割を変えない生物の中でも珍しい社会的性別を持たない文化を築いている。
プクゥプゥ。
ムササビのような姿であり、空気を貯める風船袋を利用して風の乗って長距離を移動する。攻撃性はなく、その革や風船袋は丈夫さと高い収縮性から様々な用途で幅広く活用されている。しかし一時期プクゥプゥ狩りが流行したことで絶対数が激減し、今では保護に乗り出している研究者やプクゥプゥ狩りを禁じる国際法も施行されている。
リュグンヒ。
植物の蔦に擬態したでゲソが三本しかない陸上に住むイカ。死骸に寄生して、その体を宿主として獲物を狩って捕食する。寄生された個体はいかなる体躯であろうと四足歩行であり、外見も全身に蔦が絡まったように緑色の触手が絡み付いている。独自の言語を有しているようで、五匹程度の集団を形成しながら奇怪な鳴き声を用いてコミュニケーションを行い、狩りを行う。
ラボット(現在でもラボットは動物である、という意見は根強い)。
細身のサイに似た魔物。分厚く頑丈な皮膚を持ち、素早くはないが長距離の移動を可能とするスタミナがある。非常に温厚な性格であり、最初に家畜された魔物と考えられており、現在に至るまで魔物が跋扈する世界の心強い運搬係を担っている。
動物だと判断されがちだが、ラボットの祖先にあたる動物がいないため、魔物だとするのが妥当。
アロンバウル。
一匹で群れを作らずに生きる、巨大な狼。繁殖期だけ他のアロンバウルに会って子孫を残すが、出産後すぐに両親はいなくなるので子供の時だけ群れで生活する。主に岩場の影や深い森林の奥地に生息する。全身は黒色であるが、膝から足先までは赤茶の体毛で覆われている。一匹狼として生きるために、機動力と破壊力、隠密などの能力に長ける。
バリオン。
特殊な液状の脂肪を溜め込み、身の危険を感じると口内に備わる特殊な分泌腺からその脂肪を引火させ、火炎放射するイノシシの魔物。その上質な油と耐火に優れた体毛は様々な応用が期待されている一方で、襲ってきた密輸目当ての盗賊を追い返すにあたり、火炎放射によって火事被害が頻発している。
ガフドリ。
死体やゴミを漁る掃除屋の鳥であり、我々がどこにいてもゴキブリのようにどこにでもいる魔物。弱っている生き物は自らついばみ殺して食す危険性があり、賢い個体は人や動物の子供を拐って空中から落下させて捕食する。キラキラしたものを集める習性があるため、身の危険を感じたら銅貨一枚を反対側へ投げるのが有効である。
エンク。
角が顔を覆う盾のように生える大きな鹿の魔物。人間で言う完璧主義に近い性格であり、巣作りや餌取りが上手くいかないと周囲を薙ぎ倒す習性を持つ。一般的には草食性だが、発情期に入ったオスの個体は肉食性へと一時変化するため、十数人からなる商隊が襲われて一人残らず捕食された記録もある。エンクが行う素早い突進は命に関わる攻撃であり、巨岩にさえ打ち勝つほど頑丈な角や骨はしばしば我々を守る武器や鎧にも利用される。
ギザム。
猿のような人型の魔物であり、知能が高く、様々な生物や魔物の動きを見ただけで模倣する。これを魔物学では模倣された生物を先頭につけて『◯◯拳法』と呼び、地域によってギザムは全く異なる拳法を使用することが確認されている。ギザムは戦争で使われた武器や道具さえも見ただけで学習し、それを後世へと教育する習性もあるため、学習個体は即時に聖竜隊またはギルドへの討伐要請を行うのが懸命である。
サーベルス。
宵砂の弧グーの市民と共存して生息する、刃物のように鋭い尻尾を持つ馬程の獅子。彼らの唾液は非常に粘りけがあり、乾くと石のように硬く固まる性質を持つため、刃の尻尾や防具みたく固まった体毛は彼らの毛繕いによるもので、またグーの市民もそれを日常生活で接着剤や化粧の素材として使っている。唾液は水で洗い流すとすぐに柔らかくなり、簡単に取れる。社交性が高く、グーとの結び付きが強いので野生している個体は少ない。殆どは市民に同胞として生活基盤の一つとして生存している。
フロワー
二足歩行するカエルの魔物。主に水辺や沼地に生息している魔物であり、決まった縄張りを持たない。長く粘着性のある舌には触れた対象を麻痺させる毒が分泌されている。雑食性であるのだが極度に臆病であるため、フロワーは狩りを行う時、孤立した対象に向けて草むらから舌を伸ばし、麻痺して動かなくなってから捕食する周到な狩猟方法を確立している。人間もフロワーの捕食対象だが、フロワーの持つ毒は鎮痛薬としても高値で取引されることから乱獲が危惧されている。
ヌノマブリ。
馬のような見た目でありながら蟻の頭を持つ昆虫の魔物。外骨格に覆われており、背中には翅が収納されているので翔ぶことができる。ヌノマバリは常に複数個体で狩猟活動を行い、襲撃を受けるとその内の一体が天然の洞窟を拡張して作った石巣へと戻り、大量のヌノマブリを率いて集団によって対象を抹殺する習性を持つ。
本来は忌むべき存在である魔物。時に村々を襲って暮らしを破壊し、蹂躙し、何一つの躊躇いもなく子供さえ屠る。人々が築き上げてきたものを打ち砕くために設計されたような生物。
しかしページをめくる度、興味深さとおぞましさを生起させる内容に、僕は自然と夢中になっていた。旅に出ればこのような魔物が無数に蔓延る世界を横断して行かねばならないのに、不謹慎にも目を煌めかせて、好奇心のまま未知なる『魔物』に魅了されていた。
ふと意識を本から上げると窓から差し込むのは光ではなく、青暗く塗った夜だった。冬は夜が早いが、ここまで僕は読み耽っていたのかと感動した。……って、夕飯の準備!
変な汗が吹き出すのを感じて、尻を蹴り上げられたように立ち上がった。それと同時に扉越しに玄関の物音が聞こえる。
時間を忘れて読み耽っていた数秒前の自分に恨み節を心の中でも吐き捨てながら、読みっぱなし本をそのままにして一秒でも早くリビングに向かおうと体と足を捻る。
でもそれが間違いだった。腰に帯びていた剣の存在を僕は忘れていた。
しっぽのように突き出る剣鞘が椅子とデスクの隙間にぴったりと噛み合った。ぐいっと引っ張られる予想外な力が加わり、瞬時の計算で弾き出されていた扉までの最短距離と完璧だった姿勢制御に差異が生じる。
このままだと確実に転ぶ。そう確信しているのなら受け身をとればいいのに体は諦めきれないとドアノブへと手を伸ばし、無理な姿勢なまま指先を引っ掛ける。
森で転倒して受け身を取れず激痛を味わったはずなのに学習しない自分に呆れながら、蹴破る勢いでリビングへ転びながら扉を開ける。
「いってェ……」
「わー! たいへんなのです!」
「ったく、何やってんだい。家を壊すつもりかい?」
視界の上からシシリオとネーシャの顔がニュッと伸びてくる。違う、僕が仰向けに倒れているだけだ。逆さまでもネーシャの心配と楽しさが混じっている顔と、背が高くて顔が良く見えないシシリオも呆れているのは伝わってくる。
「あー、あははは……おかえりシシリオ」
「ただいま、お留守番できたか?」
「かんぺきなのです!」
穴があったら逃げ込みたい気分だ。急いだ挙げ句すっ転んで理想とは程遠い醜態を晒して、ああ意識するだけで恥ずかしい。
熱くなった顔を夜の薄暗さに隠せているかと不安になりながら起き上がる。顔を伏せたままちらりとシシリオを伺うと、「なにやっているんだ?」と言いたげな苦笑いにも似た表情を浮かべて毛皮を止める紐を
その姿に何かしらとの戦いの跡や森を駆けずり回った汚れなどはなく、朝と変わらない乱れもない綺麗なままだ。
その視線をゆっくり右へ移すと僕が案じていた夕食の準備は、優秀なネーシャシェフによってつつがなく整えられていた。テーブルにはほとんどの料理が湯気を立たせながら配膳されている。
「これぜんぶネーシャとレッドがやったなのです!」
「本当かい? すごいじゃないか! 腹ペコだけどこんなに食べたらアタシでも満腹になっちまうよ」
「ネーシャのかんがえたレシピなのですよ! すごいなのです?」
「もう凄すぎて、ばぁば感動して泣いちまうよ。ったくネーシャは天才だね」
「えへへ~」
シシリオに撫でられて表情を蕩けさせすネーシャの二人に、ホッと胸を下ろす。
良かった。シシリオの態度が昼のままだったらどうしようかと思っていたが、いつものシシリオだ。
だからといって僕が頼りないのは変わらない。頼られないのは僕が弱いからだ。魔物の図鑑を読んで、いかに世界が理不尽であるかも少しは知れた。
弱いままでは記憶を探す旅に出ることもままならない。魔物に殺させるのが関の山だろう。死ぬのが嫌で家に籠るのは本末転倒だ。
だから年が明けるまでの少し間でも僕は強くなるしかない。
腰に携える剣に触れる。冷たさの奥に焼けるような熱を感じる。
これは玩具でも装飾品ない、戦うための武器だ。
「ゴホンッ」
わざとらしい咳払いでシシリオの注目を集める。
真剣な目で顔を見ると、彼女もそれに応えてくれた。
「シシリオ、僕から頼みたいことがある」
「丁度いい。アタシからもお前さんに教えたいことがあるんだ」
「「剣の扱い方について」」
え?
僕と彼女の声が重なる。
シシリオの不敵な笑みが暖炉の焚火に照らさせて浮かび上がる。
「奇遇だね。アタシもお前さんに教えたい、その剣の振り方を。――トリストン流の王国剣術を、さ」
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