第7話 獅子の横顔
『獅子の横顔』。
あるいは吠えたる大地、それが僕たちが生きるこの大陸の名前。暗喩でもなんでもなく、世界地図を見せて「何に似ていますか」と質問すれば吠える獅子の横顔と百人中九十人は答えるだろう。つまり何も捻りもなく、その大陸の形からそう呼ばれてる。
なら僕らが住む森はどこにあるのだろう。地図で見れば丁度獅子のアゴヒゲ辺り、『イズメ森林』と呼ばれる場所だ。
このように大陸を獅子に見立てることで識字率の低い場所であっても、獅子の○○辺りといえばほとんどの人にはどこを指しているのか伝わる。
さて突然この話をした理由は単純明快だ。僕が大陸の形状を知らなかったからだ。始めに場所の説明がないと、"僕が何者であり、どこから来たのか“というシシリオの考察を展開されても理解できない。
幸いなことにわざわざ世界地図を開かなくとも簡略化した獅子を枝で地面に描けば、それでこの説明的なモノローグは終わりを迎える。
そして、シシリオの罠の見回りに同行する僕は、以上を念頭に置いた上で再び質問した。
「僕が奴隷かもしれないって、どういうこと?」
奴隷。
商品のように売買される人間のことを表す単語。
「推測すればするほど、奴隷じゃないとも言える話だけれどね」
「それこそどういう意味? 矛盾してない?」
「それほどにお前さんは
僕がしていた服装……?
あの時は剣を持っていることさえ忘れてしまうほど、必死になって逃げていた。服装のことなど覚えているはずがない。
「アタシが見つけた時、レッドが着ていたのは薄汚い麻袋だった。庶民でも物の運搬にしか使わないであろう麻袋に穴を空けて作った、粗悪な袋をお前さんは着ていた」
「つまり、人が着るようなものじゃない、それこそ道具扱いされた跡があったてことでしょ?」
「ああ。それでアタシはこう考えた。お前さんは、現在国際法で禁じられている違法商人から命からがら逃げてきた、奴隷の小児だと。実際、イズメ森林は広く、違法商人の運搬ルートに使われてる」
シシリオの説明は実に納得できた。シシリオが嘘を吐く必要はなく、当時の僕の状況を鑑みれば信憑性のある話だ。
僕が奴隷だった、という結末は辛いし味気ないものだけれど、一番現実味がある。
「それでどうして奴隷でもない可能性が浮上するの?」
「根拠は二つある。一つは体の傷さ。無理のある辻褄合わせにも聞こえるが、レッドを保護した当時、お前のさんの体には逃げた時についた擦り傷や裸足で走った傷しかなかった。奴隷にあるべき虐待の痕が一切なかった」
「でもそれは国際法で禁じられているからこそ、商人も奴隷だって思われないように敢えて虐待していないのかも知れないよ」
「ああ。一理ある。だがそれだとレッドの記憶喪失が説明できない」
反論を予想していたような落ち着きで答えたシシリオは、次に予想外の話題を接続した。
記憶喪失だって? 虐待と記憶喪失になんの関係があるんだ? そう僕が問う前にシシリオは説明する。
「記憶喪失は戦災孤児や子供奴隷に見られる、ショック症状のひとつだ。耐えられない悲痛な状況を乗り越えるために防衛反応として、自分の名前も生まれも忘れてしまうような記憶喪失に陥ることがある」
「…………それが今の僕に当てはまるってことだね」
「そうだ」
どうして具体的にそんな話を知っているのか、僕は喉まで出かかったその言葉を飲み込んだ。
しかしもし彼女の仮説(子供奴隷だったから記憶喪失になっている説)が間違っている場合、つまり、僕が奴隷だったことと記憶喪失が関係ない場合、僕の記憶喪失は何が原因となっているのか、その疑問が新たに生まれることになる。
物事が複雑化する前にこの意味を手短に言い換えるならば、仮に僕を載せた奴隷商の足跡を追っても、別の要因による僕の記憶喪失が挟まることで、僕の足取りは消える。
とどのつまり、僕が誰なのか奴隷の線で探っても記憶喪失の壁によって、それこそどこかの戦争に巻き込まれた孤児であったという無限の可能性が生じる。
無限の可能性、それは考えても無駄だ。だからシシリオはこの可能性――奴隷と記憶喪失が無関係であること――を除外した。
この可能性を除外できたのは二つ目の根拠の存在が大きいだろう。
「根拠の二つ目。それは今お前さんが腰に帯びる、剣だ」
振り返った彼女が指差したのは、今僕が携えるあの美しい銀色の剣だ。
過去と向き合うのならばと、心のどこかで距離を置いていたこの剣の正体も探らねばならない。だから僕はこうして一日中、その剣があるべきように持ち運ぶことにした。シシリオの物置には本当に街のゴミ箱全てを漁ったのかと思うほど色々なものが放置されており、剣を装備するための剣帯もあったのでそれで固定している。
彼女が指摘するように、このなんの特徴もない剣帯をみすぼらしいと思わせてしまうくらいに、僕が持つ剣は息を飲むほど美しい。この剣を携えるにはまだ適していない背丈も相まって、着せられている感が否めない。
「その長剣の形状、銀と青を基調とした装飾……忘れるはずもない。アタシたちのクソみたいな故郷、『トリストン剣王国』の品だ。それも一種の祭具と言える」
「ちょ、ちょっと待って。アタシたちだって?
「あ? そりゃレッド、お前さんだが?」
ぼ、僕?
急いで飲み込まれそうなほど美しい剣を抜き、鏡のように反射する刀身に自らの顔を映した。
「トリストン人は深い碧眼と月のない宵色の髪を持つ。なおかつトリストンは純血主義だからね、碧眼黒髪の特徴がなくなることはほぼない」
そこに映る間抜け面は、間違いなく僕のもので。
「髪はすっかり白くなっちまったが、ほら瞳の色は、アタシと同じ青ってことさ。まさかそれすらも忘れてたのかい?」
ああ、忘れていた。
剣に反射する黒い髪と、シシリオと同じ深い青色の瞳。
どうやら僕はトリストン剣王国の血を引くらしい。意外というか、衝撃というか、もはや呆気ない事実だった。
獅子の横顔において、目と髪の色はその人間の人種を見極めるのに重要な要素となっている(もちろん、それだけで判断できない場合もある)。
青目黒髪は、イズメ森林とは対極の最北端、獅子の横顔のたてがみ頭頂部分に位置するトリストン剣王国の特徴である。対してネーシャの琥珀色の瞳と黄金の髪は『花肌 オーロール』という、獅子の後頭部に位置する国の特徴だ。
「というか、それならすぐに僕が何者か分かるんじゃない? 記憶がなくともそのトリトリ剣王国にいけば」
「トリストンな」
「分かってるって、わざと間違えたんだ。その……トリストン剣王国にいけば、僕を知ってる人がいるはずだよ」
「アタシ的にその可能性はゼロだ」
ばっさりと否定するにシシリオに少しムッとするが、それに構うことなく彼女は再び歩き始めた。
「トリストン剣王国は“実力”と“地位”を混ぜ込んだ、まさに騎士社会だ。姓だけでなく、勲章の数や武勇によって貴族地位を確立する。話を戻せば、今レッドの持つその『剣』はアタシでも祭具、最高級の一品にしか見えない。そんな国王から拝戴されるような宝剣を持った身分不詳の子どもがいたら要件を聞くまでもなく、即刻簒奪者として投獄が関の山だ」
「うーん……。どこから言えばいいのか迷うけど、まず、どうして僕はそんな凄い剣をもっていたわけ? でも同時にそんな凄い剣を僕が奪えるはずないから、この剣は僕の物だという可能性が高いって話でしょ?」
「ああ。だからこそお前さんは奴隷じゃないし、そんな嘘みたいな……いや嘘かもしれない話を信じてくれる人間はいない。レッドにはすまないがアタシにとって一番の謎は記憶喪失よりも、その剣だ」
「本当にすまないことだよ、それ」
僕が苦渋しながら選んだ大切なのに、彼女の関心は剣に注がれているなんて失礼な話だ。
とまあ冗談はさておき、彼女の審美眼がどれほどかは分からないが素人の僕にもこの剣が素晴らしい一品であるのは分かる。だが彼女の言う話を客観的に理解すれば、僕の記憶喪失と同じぐらい僕が持つに不相応すぎる物であり、もっと噛み砕けば本来ここにあるべき代物ではないのだ。
シシリオが後ろ手を差し出し、その剣を貸してくれと促すので渡すと、刀身を睨みつける彼女の難しい表情が横顔で見えた。
「やっぱりな……」
「何がやっぱりななの?」
「アタシはこの剣を祭具を表したよな?」
「うん」
「レッドは祭具をどう使うと思う」
祭具、と言われてもすぐには浮かばないが、言葉通りに解釈すればこんな感じだろう。
「お祭りとか儀式とかじゃないの? 祭具なんだから」
「ああ、その通りさ。祭具とは祈りであり、裏を返せば献上されるために鍛冶師が仕上げる特別かつ最高の物だ。戦闘で使う代物ではない。だから変なんだよ。最初は見間違いかと思ったがこの剣には、研いで擦り減った痕も、実戦で使われた傷も、挙句には他の金属を継いだ痕さえある」
結論を述べるまでもなく、彼女の発言そのままが疑念の発端であった。
祭具ほどの品であるのに、戦いで使われてきた痕跡があるということ。
「トリストン剣王国は、身分によって国王から剣が授与され、そして剥奪される。剣を見れば身分も実績も判断でき、剣こそが家督に値する」
剣に生き、剣に死ぬ。そんな国であるのはシシリオの説明で重々理解できた。
もしこれに更なる議論に発展させるならば、こう続く。
「根拠の二つ目に話を戻そう。つまり、レッド。お前さんは、いやお前さんでなくとも、本来誰も携えることのできない剣を持っているんだよ。奴隷であったことを仮定すれば、剣は身分を保証する、ゆえにレッドは剣を持ったままでいられた、そう無理やり辻褄を合わせられなくもないが……な」
それは遠回しの否定。
ならば、なぜ、僕はこの剣を持っていたのか。
そうだ。これが問われてしまうと、この疑問が起きる。
本当にこの剣は、僕の物なのか? トリストン剣王国では剣が身分を示すというのに、仰々しいを超えて禍々しいこの剣は僕の身分とは関係ない、全くの別件が絡んでいるのではないかと勘繰ってしまう。
シシリオが返した刀身に僕は再び視線を落とす。
僕の年齢にも適していない剣の大きさ。持つだけで大変な重さ、最近筋肉がついてきたとはいえ僕の細い腕で振ることも難しい。それはつまり僕が使っていたという訳ではなく、他の誰かが使っていた剣を僕が持っていたということ。
ああ、確かにここまで来れば、僕が簒奪者として投獄される結論も見えてくる。
「どうしてレッドがその剣を持っていたのか、記憶喪失と関係あるのか、そもそもその剣は何なのか、アタシにはさっぱりだね。でも一つ言えるのは、お前さんの記憶喪失はアタシが考えている以上に複雑かもしれないってことさ」
彼女が好む単純明快とは真逆な、複雑多岐な実際問題。考えれば考えるほど【僕】という人間が深い霧の向こうにいる。
「どうだい? 少しでも『前の自分』を知るのが怖くなったかい?」
怖くなった、だって?
「はは、まさか。楽しみだよ。
不敵に笑った。本当は少しだけ怖かったけど、強がって言い切って見せた。
僕は、年が明ければ記憶を捜す旅に出る。あと二ヵ月もしない内に、僕はここから巣立って何者であったのかを知るための旅に出るのだ。それが僕が大切を選択した日に、シシリオと決めた覚悟だった。
シシリオたちは年明けになると森を出て、イズメ森林の辺境にある『メーデル』に行き、新年祭に参加するのが通年だ。僕らはそこで別れることになる。
ネーシャには知らせていない。もし拙い言葉で引き留められてしまっては僕の決心が揺るいでしまうかもしれないかもしれない。だからちゃんと僕自身も落ち着いた時にはなそうと思っている。
剣にまつわる問答はこれが始めてだったが、何度か同じ質問をして同じ回答が為される問答がある。三回目に質問した時はシシリオでさえ「しつこい」と一蹴した問答がある。
それでもやはり胸に燻る、焦燥感さえ立ち込めている疑問がある。
シシリオの作業を見守るように一歩後ろに下がる僕は、再三になろうと訊ねてしてまう。
「あのさ、本当に聞いたことも見たこともないんだよね」
「またその話か?」
八ヶ所目の空っぽの罠を直しているシシリオが手を止めずに僕を一瞥する。威圧的なその反応は何度も僕の質問を受けて、何度も同じ解答することに内心苛立っているからかもしれない。
「紫色の瞳だろ。聞いたことも見たこともないね」
予想していた、むしろ経験済みの返答に僕は唇をぴったりと閉じ、二言目は言わないようにした。でないと僕は彼女を疑うような言葉しか出ないだろうから。
作業を終えたシシリオが額の汗を少し拭うような動作を見せると、すぐそばの木に凭れかかった。
「夢に出てきたウェンバースだっけ? 瞳が紫だったらしいけれど、アタシも全部を否定するわけじゃないが、夢の内容を手掛かりにできるほどその夢には信憑性があるのか?」
「…………多分」
「………………」
夢が証拠になり得るか。
絶対に剣よりも記憶を探す証拠にはなり得ない。僕だってそのことは理解しているし、人から夢の話を基に説明されても信憑性はない。
僕の場合、記憶喪失だからいくらか前の僕の証拠になる可能性はある。しかし内容が断片的だし、シシリオさえ知らないものばかりが登場している。それを存在していると信じる方が無茶だ。
でも……あの現実味は夢よりも、やっぱり記憶としか思えない。
断片的でも感じ取れた、風の涼しさや火の熱は、生々しく込み上げた感情は夢なんかじゃなかった。
ウェンバースが夢の作り出す虚像だとは思えなかった。
そうシシリオに言えないのは、僕自身も夢の内容を信じきれていないからだ。
「……アタシも知見が広いわけじゃないからね。なにせアタシゃ三十年以上も森に籠ってるだ。探せば紫色の瞳を持つ種族がいるかもしれない。情報が少ない以上、触れられるものよりかは劣るが夢で見た内容も立派な手懸かりになるさ」
ぽつりぽつりと口から溢れ落とすように、シシリオは慰めの言葉をなげかけた。さっきとは真逆なことも言った。
「…………あからさまだね、シシリオ」
「ったく、そういうのは素直にありがとうって言っとけばいいのさ。可愛くない子だね」
「あはは。ありがとう」
「もう遅いよ。じゃ次の罠行くよ」
シシリオは不機嫌そうに口を尖らせて背を向けた。彼女なりの大人びた優しい気遣いだったのに、その態度は物凄く子供っぽかった。
そこまで僕、落ち込んでいたのかな。シシリオの考えも正しいから責める気にはならない。ゆえにこのモヤモヤした感覚は形容しがたい。
自己消化しようと少し俯きながらシシリオの後ろを付いて行くと、ふわふわしたものに頭をぶつけた。見上げると一面の毛皮、シシリオの大きな背中だった。
ぶつかった拍子に毛皮についたゴミが僕の顔に乗り込んできたので片手で取り払いながら突然立ち止まった彼女に何事かと前に回り込む。
しかしその行く手は、シシリオが伸ばした腕によってふさがれた。
どうしたのかと顔を上げると――それが僕に向けていないものだと分かっているのに体が震えるほど、怖い顔をしていた。
「………………帰ろうか、これは少し、危険だ」
彼女が落とす視線の先には。
千切れ落ちた鹿の後ろ足と。
僕が寝るベッドをも超える、大きな獣の足跡だった。
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