第4話 覚えていること、覚えていないこと

 僕が目覚めて初めて――もはや人生で初めてといってもいいだろう――食べたのは、ウサギのスープと硬いパン、それといくつかのクルミだった。

 枯渇した体力とまだ万全ではない体を無理に動かすことはできなかったので、シシリオとネーシャが着く机ではなく、盆に寄せた物を膝元に置いてベッドで食べた。

 森に住むということは常に食料が確保できるとは限らない。また冬ということもあるため、大体を貯蔵している干物や備蓄を入れたスープを二、三日かけて長持ちする堅パンと一緒に食べるのだ。

 堅パンはそのままでは食べられない。食べてもいいが齧った歯が逆に折れるらしい(シシリオが言っていた)。スープに浸してふやかし、スープに溶け込んだウサギや野菜の出汁と塩味を吸わせて食べるのだ。

 特別美味しいって感じではない。味の感想を言えば、素朴とか質素とか純朴とか、その辺りになる。

 だがウサギのスープも堅パンも全て森で採れる物を老齢のシシリオが調理したものであり、仮に僕がこの生活に慣れて同じように作っても数段は味が劣る仕上がりなるだろう。

 それでも不思議なもので舌では味を理解しているのに、一口食べれば手は止まらず、頭ほどの大きさだった堅パンも水差し並々にあったスープも全て僕の胃袋に収まってしまった。

 むしろ一週間飲まず食わずだった胃袋はまだ足りないと不満足気味だったが、流石に食べるのに疲れて食指は止まった。


「朝から惚れ惚れする食いっぷりだね。一週間も食わなければそれだけ食べるか」

「ご飯を食べて元気になれるのも、シシリオさんとネーシャが看病してくれていたおかげです」

「ハハッ。じゃその分、体が治ったらたんまり働いてもらうよ。森で暮らすってのは存外やることが多くてね」

「もちろん。でないと少しも恩返しできないですから」


 意地悪に唇を歪めて堅パンの最後の一欠けを口に放り込むシシリオに、僕は二つ返事で応える。そこに偽りはない。

 どうやら『僕』という人間は無償の愛を甘んじて受け入れるたちではないようで、恩には相応の義理で返さないと気が済まないらしい。もし怪我が治っているのなら今にでも立ち上がって全力で働きたい気持ちだ。

 しかし気持ちだけで森を裸足で駆け抜けてできた傷が癒えるわけがない。歯痒いが最低でも今日一日は安静にしなければ、歩くことも難しい。

 シシリオは木を削って作られた食器を集めて洗い物の桶に寄せると、立ち上がってシャツの上に壁に描けてある二着の毛皮を羽織った。


「アタシは罠を見てくる。ネーシャ、昼前には戻るからそれまでに掃除と薪の補充頼んだよ」

「はい!」

「僕は何かした方がいいですか?」

「まずは休むことがレッドの仕事だ。それでも何かやりたいというなら……そうさね……ネーシャの話し相手でもしてな。何を忘れてるのかも会話を通して分かるかもしれないからね」


 何を忘れているか。何を覚えているのか。

 シシリオの言うことにハッとする。

 自分の名前の忘れる――僕自身を成す記憶喪失は簡単に分かる。だが、僕が記憶していったはどの程度まで喪失しているのかを自問自答で明らかにするのは難しい。

 現に僕は言葉を巧みに操っているが、どうして自分自身の名前を忘れていながら使っている言語を忘れていないのか、その違いを説明できない。

 これしきのことで年の功と言ったらシシリオは怒るだろうか。記憶喪失という稀有なはずの例に、こうもすぐ名案を思い付くの長い人生経験の賜物だ。


「なんか失礼なこと考えてないかい」

「え、いやぁ……何も」


 僕って意外と考えが顔に出るタイプ?

 

 シシリオが玄関を開くとビュォと冷たい風が吹き込んだ。肌が縮こまり、身震いが起きる。

 焚き火で暖まった部屋だから忘れていたが、外は凍えてしまうぐらい寒い、冬の森なのだ。毛皮を二枚も着こんだシシリオでさえ寒いのか、首元の生地を手繰り寄せた。


「そういえば、レッド」

「はい」

「言い忘れてたがそこにある剣。お前さんが倒れてたところに一緒にあったから持ってきた。見覚えあるか?」


 彼女が指差す先には壁に立て掛けられた、布にくるまれた一振の剣があった。記憶が正しければ布から覗く銀色の柄は、僕が森で意識を失う前に見たそれだった。


「見覚えはありますけど……正直僕のかどうかまでは……」

「んなこといっても現状持ち主はレッドだ。何らかの縁はあるはずさ。一度見ておいて損はない」

「分かりました」

「じゃアタシはいくよ。何かあったらネーシャに聞きな。ネーシャもレッドを頼むよ」

「はい! まかせてばぁば!」


 ネーシャの元気いっぱいな返事を見送って扉が閉まる。冷気と共にシシリオは森の中へと向かった。

 カタカタと重ねられた木の食器が鳴る。ネーシャはひとまとめにした食器を、シシリオが寄せたものと一緒に桶に張った水で洗い流していく。


「ううぅちべたい!」

「あはは……冬だと大変そうだね」


 かじかんだ手を桶と焚き火とを行ったり来たりさせるネーシャ。慣れた手つきではあるものの、幼いがゆえの危うさにハラハラしてしまう。

 幼女の家事を見ながら手持ちぶさたに耽る趣味はないので、僕は早速取ってもらった剣を確認することにした。

 改めて持つと否応にもずっしりとした重量を感じる。僕の起こした上半身よりも少し長い刀身、それだけの金属を使っているのだから重くて当然だ。

 布からはだける柄の部分だけでさえ間近で見ると、銀色の光沢と刻まれた曲線の意匠が驚くほど精緻であることに気づく。

 十字に伸びる二又の鍔の先には宝石にも見える、深い青色の石が埋め込まれており、その青は根のように細く剣全体へと刻まれている。

 布を開き、刀身部分を露にするとまた美しい青を貴重とした鞘が僕の目を奪った。風や波を彷彿とさせる緩やかな流線と星屑のような青が散りばめられている。


「わぁ……」


 小さな感嘆に隣を見るといつの間にかネーシャはベッドの端で腕を乗せ、剣の装飾に目を輝かせていた。僕は彼女にも見やすいように少しだけ剣を降ろし、鞘から刃を抜く。

 ぬらりと湿ったような刀身は鉄だけでない合金らしく、銀の反射に緑色が混じっている。透き通るような刃の奥には焚き火が艶やかに反照している。

 見惚れてしまう刃はただ在るだけで瞳を切り裂いてしまいそうな鋭さだ。


 だが。

 一切、この美しい剣を見ても僕が思い出すことは一つもなかった。

 僕がこれを抱えていたことも、逃げていた理由も、そして僕自身の存在も教えてはくれなかった。


 剣を鞘に戻し、いつか思い出すかもしれないと淡い期待を抱いて手がすぐに届くベッドの横に置いた。淡い期待……そう思ってしまっている時点で本当は何も得られなかった落胆を隠しきれていなかった。

 溜息が、仕事に戻るネーシャの忙しなさにかき消された。


「何か僕にできることってある? やっぱり何もしないでネーシャを見ていると居心地悪いからさ……」

「だいじょうぶなのですよ! ネーシャは“かじ”すきなのです! レッドは休むが一番ですのよ!」


 赤い頭巾の端を持って口元を覆い、羽叩はねはたきで暖炉周りの煤を払い落とすネーシャの明朗な答えに僕は黙った。

 その後もネーシャは掃除を行い、終わると休む暇なく彼女用の小さな毛皮を着て外に出ていくと、すぐに小さな手引きの荷橇にぞりにいっぱいの薪を乗せて戻ってくる。その往復を四度行えば、その薪を暖炉横にあるスカスカの薪棚に補充していく。高い薪棚の上にも階段になっている足場を使って積んでいく。

 それも終わるとネーシャは自身の背丈ほどある樽を転がして外へと運んでいき、今度は少しすると重そうな樽を転がしながら戻ってくる。ドゥンドゥンとくぐもった水音が、外から水を汲んできたことを示す。

 もとあった場所に樽を持ってくるとネーシャは壁に押し付けて、背中で押すように水の入った樽をゆっくりと持ち上げ始めた。


「ん、んん~~~~ッ!!」

「だ、大丈夫!?」

「~~~~ッぱ!!」

 

 ネーシャが樽に押し潰される、脳裏に浮かんだ悲劇に僕は身を乗り出した。しかしそれが杞憂なのだとすぐさま悟った。

 顔にギュッと力を入れて踏ん張ると、樽は少しづつ傾いていき、起き上がる。そして疲れた様子は見せず、達成感ににんまりとした笑顔を僕に向けた。

 安堵する僕をおいてネーシャはまた仕事に戻る。時刻はあっという間に回り、もうすぐ正午だ。

 鍋で水を煮沸しつつ、昼食に向けて乾燥させた魚をナイフで薄く切り出して、少し炙る。ネーシャの手付きは慣れており、先入観を取り払ってしまえば危なっかしいことはひとつもない。むしろシェフのような手際さえ感じられる。

 それを見ているうちに僕から彼女を心配する気持ちは消えていった。

 

 朝の残りのスープで堅パンを少し湿らすと、指一本ほどの厚さにカットし、切った魚の切り身と野菜と僅かな香辛料を乗せ、瞬く間に朝食とは大違いな美味しそうなサンドイッチが完成した。


「じゃーん!」

「おおー。すっごいじゃんネーシャ。料理人みたいだった」

「ネーシャは本でいっぱいべんきょうして、ぷろの"りょうりけんきゅうか“になったのですっ」

「その年で料理研究家に!? ネーシャは天才だ!」

「フフン!」


 頭の上にサンドイッチを掲げたまま、ネーシャは得意気に胸を張った。

 丁度玄関の戸が開き、シシリオが帰宅した。行きとは違い、肩から茶色い袋のような物を掛けている。


「おや、良い時間に帰ってこれた」

「あ、ばぁばおかえりなさい!」

「ただいま。ほお、サンドイッチかい。良いモン作るねネーシャ。食べたいと思っていたところだよ」

「うん! ばぁばは何かあった?」

「ああ。今日はレッドも起きた日だからねぇ、大猟だったよ。ほれ」


 彼女が肩から背負っていた物は袋なんかではなく、力なくうなだれる小鹿。袋のだと思っていたのは小鹿の後ろ足だ。

 また毛皮の懐を漁れば、茶色いウサギが二羽が紐に繋がった状態で取り出される。


「わー!! すごいすごい!!」


 ネーシャは僕が目覚めた時と同じぐらい、いやそれ以上に踊って喜んだ。鹿に負けた気がして癪だな……。

 というのも、どうやら小鹿の肉は柔らかく、臭みもない。森で得られる、最上級の食材らしい。要するにご馳走というわけだ。


「そんなに喜ぶものなんですか」

「運がいいだ、本当に。レッドは知らないと思うが、いつもなら十数個ある罠のひとつにウサギが掛かれば上々の成果なんだよ」

「じゃあ罠に掛からない日も?」

「ざらだね。この時期は特に。冬眠だったり餌の少なさだったりで動物たちはもっと暖かい場所に移動するもんさ。レッドが目覚めたお祝いに森が運んできたのかもしれないねぇ、ハハハ」


 シシリオのキリッとしたオオカミのような顔も自然と明るくなる。それだけ嬉しいことのようだ。

 あんなに外は寒いというのに昼食を終えた二人は踊り出す勢いで小鹿とウサギの解体をし出ていった。

 吊るした小鹿の前にエプロンとナイフを持つ二人の姿を、僕は家の小窓から覗いた。

 血抜きをして、水に晒し……ぎょっとする光景だったので、皮を剥ぎ始めた頃合いで見るのを止めた。

 しかし同時に、シシリオが解体しながら手順や知識を説明し、それを熱心に聞くネーシャ、その二人の姿は羨ましくても感じた。

 暫くするとネーシャだけが戻ってきた。


「解体終わった?」

「うん。はこぶのは大変だからばぁばがやるって。あとまき割りもするからいいよって」

「へぇ」


 いくら服の上から分かるほどの筋肉があっても老婆じゃ……と頭をよぎったが、それがあまりに浅はかで失礼な考えだったことを今すぐ謝りたい。

 小窓から見えたのは片手で屠肉が入った袋を持ち、もう片手でネーシャよりも大きい丸太を抱えて楽々と運ぶ老婆とは決して似つかわしくないシシリオの姿だった。

 どういう腕力をしているのか。

 確かにこれだけの力を身に秘めているなら、シシリオに若いオオカミのような逞しい雰囲気を感じるのは当然だ。むしろ恐ろしい。

 頭を軽く小突かれたら首の骨が折れるんじゃないか? 馬鹿馬鹿しいが、彼女に叱られた時を想像するとゾッする。


「いいもの持ってくるのです!」

「いいもの?」


 暇しているとネーシャは暖炉横の部屋から何かを持ってきてベッドの端に置いた。大小異なる二冊の本と枝に炭をくくりつけたペンだ。

 床にペタンと座り、ベッドを机代わりに本を広げた。一冊は物語集で、もう一冊は屑紙を綴じた白紙の本だ。

 ネーシャは高らかにペンを掲げて、白紙の本に炭の先を置いた。


「これは?」

「文字のべんきょうなのです! この本にある文字を、おんどくしながらこっちの本にかきうつすべんきょう! ばぁばが文字がよみかきできたらしょーらいお金にこまらないって! だからべんきょうしているのです!」

「へぇ。料理もできて文字の読み書きもできて、ネーシャは将来大金持ちになっちゃんじゃないか?」

「えへへ。レッドもいっしょにべんきょうして、いっしょにお金もちになるのです!」

「あはは。そうだね。えーっと、どれどれ……」


 僕は目撃した。

 目視した。

 目した。

 その文章を読瞬間に身の奥から凍りつく。そしてすぐにマグマみたいな熱が全身を熱くする。


 僕は書かれた文字を

 

 発声音のみを表した"民唱文字“も、一語やいくつかの接続した単語だけで一定の意味を表す"刻名文字“も、そうした文字体系があるという学術的な知識も。

 ほとんどの人が使うのも本や書類で使われているのも民唱文字で、刻名文字を使う場面なんて貴族や王族の記述やあるいは高名な著書や学術書だけであるのを、僕は知っていた。


 僕は知っていた……どうして?


 僕は、僕は本当に。



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