第5話 ここで生きていくために必要な役割

「うん。痕が少し残ってるけど、傷は治ったようだね」


 ずっと包帯に覆われた僕しか見てこなかったせいで、素肌を見せるのは少し恥ずかしかった。

 目覚めて五度目の朝だった。


 体に付いた傷痕――裸足で走ったことで脚に焼き付いたくさむらの影ような痕を見ると、途方もなく逃げてきたのだと窺える。

 シシリオが自ら森の薬草で調合した塗り薬の効果は絶大だった。完治に半月は必要な傷の多くは半ば無理やりな縫合のような痕を残しているが、見事に治っている。

 一週間以上も寝たきりだった僕には立ち上がることさえちょっとした労働になっていた。椅子やテーブルを伝ってよたよたと歩き、部屋を見渡すとベッドからは見えなかった場所が見えて新鮮だった。

 僕がいつ倒れてもいいように側にいるシシリオは、立ち上がってもやはり大きかった。頭一つ分の差があり、顔を上げなければ彼女の鎖骨と目が合う。

 逆にネーシャはとても小さく、僕の胸下ぐらい。赤頭巾の尖った先端が丁度僕の顎を刺してくる高さで若干痛い。

 三人で会話すると何度も首を上下させるのに忙しくなる。でも楽しく、新鮮な会話だった。

 シシリオは昔の話。ネーシャは本の話。

 町での思い出や、そこでの美味しかった食べ物。

 魔物の雑学や、絶滅した竜に関する考察。

 狩りの方法に、綺麗に剥げなかった毛皮を言葉巧みに高値で売った話。


 少しずつ体を動かすのに慣れていく。

 包帯を取った次の日から僕は一日の作業を手伝い始めた。無理にならない程度で。

 食事の支度に後片付け、拭き掃除、食器の削り、焚き火の崩しから火付け、教えてもらいながら少しずつ日常に溶け込んでいく。

 


 シシリオのお下がりの毛皮を羽織り、目覚めてから初めて外へ出る。

 玄関の戸を開ける時、少しだけ足がすくむ。

 窓から見える森は遠い国を描いた絵画のようで現実味を感じなかった。遠くが霧でぼやけ、針葉樹の景色が果てまで続く。扉一枚、壁一枚しか隔てていないはずなのに別世界だった。

 まるで生気が褪せているみたいで、魂を吸い取られてしまうのではないかと馬鹿馬鹿しくも僕は思った。

 ……怖い。

 もし扉を開けてしまったら、僕は"目覚めて“しまうかもしれない。今はただ夢を見ているだけで、玄関を開けたら転んだ瞬間に戻ってしまう、そんな考えが脳裏をよぎる。

 全てが幻想で、嘘で、妄想で――これも馬鹿馬鹿しい空想だけど『可能性』が一片もないなんて、言いきれない。

 だって僕には、僕という存在を支える歴史ものがないから。

 そんなことはデタラメだ、それこそ嘘だ、って言いきれる安心感も説得力もない。裏付けてくれる記憶もない。


 

 プツン。




  

 と何かを拍子にまた『僕』は忘れてしまう。

 途絶えてしまう、そういう不安がつきまとう。


 ドアノブに手をかけたまま、僕は時が止まったように躊躇していた。


「……」

「さっさと行くぞ、レッド」

「あ、ちょ」


 心の準備が整う前に、シシリオが僕の手の上から扉を開けた。躊躇いなく、僕の恐怖心を欠片も理解していない無遠慮な態度のまま、優しく。

 そして冷たい風が僕の頬を撫でた。


 扉の向こうは、窓から見えた景色と同じだった。


 一歩、狼狽する背中をシシリオに押されて外へ踏み出す。硬い木の床から踏み固められた地面に足をつける。そして一歩二歩と進む。

 不思議な感情だ。崩れるはずのない大地がガラガラと音を立てて崩れてしまうのではないかと怖くて仕方なかったのに、今こうして歩いて、冷たい風を受けて、恐ろしい森の唸りを聞いて、わずかに見える太陽の日差しを浴びて、僕は切ない喜びを感じている。

 ここはどこなのか、居場所を確かめる。森小屋を中心に森を切り拓いた土地、周辺には生活に必要な手作りの設備が点在している。いくつか森林へと伸びる踏み固められた道は、その道中でうやむやになって先が見えない。

 迫ってくるよな針葉樹が柵のようで広くも感じるし、狭くも感じた。

 シシリオが僕を追い越して、前に立ちふさがる。


「うし。じゃあレッド、森で生きるための作法を学ぶ時間だ」

 

 僕らが住む森小屋をぐるりと囲うに拓けた土地に、いくつかの人工物が見える。

 薪割り場と積み重なった丸太に薪が掘っ立て小屋の軒下に置かれている。


「冬場は二日に一回は木ィ十本分、だいたい薪四百本を切り出す。振り下ろす時は腰と尻に力をギュッと入れて、体を波打つように使う」


 シシリオは説明しながら斧を振り下ろし、切り株の上に置かれた丸太が小気味いい音を立てて綺麗に両断される。

 それをまた集めて斧を振り下ろし、さらに分割して横の薪場に積んでいく。


「アタシたちの生活は薪が尽きれば凍え死ぬ。薪の数は余命の数。レッド、試しにやってみな」

「はい!」


 斧を受け取――うわっ!

 棒の先に嵌まる鉄の塊。それはずっしりと重く、丸太を割るために振り上げるのすら大変だ。やっとの思いで振り下ろしても丸太の中心に斧が当たらず、皮を剥ぐような着火材代わりの木片を生み出すばかり。

 中心に当たっても垂直に刃を捉えなければ丸太を両断するのは困難。シシリオは簡単に行って見せたが、薪割りは技術と腕力双方を求める高等スポーツだ。

 八度の挑戦の末、漸く丸太は左右に別れた。


「うーん……まあ初めはそうだ。気に病むことじゃない。次ィ!」


 苔の生えた石積みの井戸。


「森は水の貯蔵庫。幸い水が枯れることはないが、アタシらは汲まにゃアタシらが干上がっちまう。大事な生命線さ」

「ネーシャは毎日たるをいっぱいにするのです!」

「レッド、今度は水を汲んで樽を満たしな。ネーシャでもできる簡単な作業さ」

「はい!」

「がんばるのですよ!」


 井戸屋根の柱に括られたロープを引っ張り、深い井戸底まで滑車から垂れ下がるロープを引き上げる。僅かに重たいロープを胸元まで手繰り寄せる度にカラカラと滑車が回り、次第に暗闇からテラテラと光るものが上がってくる。

 上がってきた頭ほどの大きさのバケツを井戸のへりに引っ張り上げ、握っていたロープを柱にくくりつけて係留する。

 そしてバケツの水を溢さないように丁寧に蓋を外した樽へと注いでいく。だが両手で持つにしてもいささか重いバケツに並々と汲まれた水。少し傾けるだけで簡単に溢れてしまし、樽に注ぐのも難しい。溢れた水で樽も地面よびちゃびちゃだ。

 空になったバケツを再び井戸底に下ろし、同じように引き上げて樽へと水を移す。その繰り返し。

 一度の動作は対して大変ではない。しかし何度も何度もロープを引き上げる、樽に移し変える、そういう動作を行っていく内に疲れていく。

 十度目の汲み上げにして漸く樽はいっぱいになっま。


「ふぅ……はぁ……」


 額と背が少し汗ばみ、荒い呼吸を整える。体が火照り、羽織った毛皮が暑苦しくて閉じていた首元を僅かに開ける。


「うーん。改善の余地ありって感じだね。無駄な動きが多い。よし次ィ!」

「つぎぃ! なのです!」


 こじんまりとしたかわや


「……深くは説明しないが、そういうことだ。排泄物は適切に処理しなければ瘴気を生み、瘴気は病を流行らせる。こんな森奥で病気になれば野垂れ死ぬのはごめんだからね」

「ここで作業は……?」

「一週間に一度の掃除だが、それはアタシがやるから気にしなくていい。ただルールとして使ったら便槽べんそうにおがくずを放り込む、徹底してくれ」


 厠の横に置かれている革袋の中に手を突っ込み、僕にほぐれて絡み合った木屑を見せる。他には焚火の灰も混ぜているようだ。


「どうしておがくずを入れるんですか?」

「臭いを消す、それが一番だね。あとはまとまりやすくなって掃除が楽になる。おかくずは木を切るにも削るにも出るからね、一石二鳥ってやつさ」

「そんな効果が……シシリオさんは物知りですね」

「いや昔、夜営に詳しい仲間に教えてもらった知識だよ。アタシの知識はほとんどが受け売り。森で暮らしているのもアタシが馬鹿者だからさ」

「へぇーシシリオさんは馬鹿なんですね。意外です」

「…………」


 シシリオはゆっくりと口を曲げて苦い顔をした。長い沈黙のすえ吐き出した溜め息は白い渦を作る。

 少し寂しそうな彼女の目線が刺さる。

 

 あれ?

 なにか変なこと言ったか、僕。


「………………はぁ。レッド、お前さんはもう少し"人心ひとごころ“ってのを理解した方がいいぞ」

「ひとごころ……ですか?」

「ま、そのうち分かる。次いくよ次」

「つぎにいくのですよー!!」


 彼女の後ろをついていく。小鹿の解体にも使った、鉄棒とそれに架かる鉄鎖の物干し竿の横を抜けて、家の裏手に回る。

 そこには二つの物置小屋があった。一つに至っては厠よりも一回りは小さい、扉だけしかないような小屋だ。


「こっちは物置。罠とか道具だったりを詰め込んでるんだが……少し手入れすれば動くやつばっかりでね。少しずつでいいから錆びとりとかをやっておいてくれ」

「…………この量をですか……」


 流石の僕でも二つ返事はできなかった。

 物置の扉まで埋め尽くす、まるでパズルのように山積みになる道具の数々が出迎えた。一度触れてしまえば雪崩となってしまいそうな山をシシリオがどうやって築き上げたのか、最大の謎である。

 当の本人も僕に頼んでみたはいいものの想像以上の量だったのか、毅然とした仮面の奥で目だけが何度も物置を見た。


「なんでここまで放置したんです」

「暇がなかったのさ。手入れする暇がね。錆を落とすにも研ぐにも時間が掛かるからねぇ。いやぁ暇がなかったなー」

「本当ですか」

「ほんと――」

「ウソなのです! ばぁばこのまえめんどくさいってこわれたのなげいれてたのです!」


 割って入ったネーシャの暴露に刹那、シシリオは完全停止した。

 目を合わせようとすると光の速さで目を逸らされる。疑いの余地なく、図星だ。


「ウソはダメなのです! ムフゥー!」


 ネーシャは誇らしげだ。そんな彼女の頭に伸び、撫でる手に少し元気がなかった。その手が、自らが育てた子に正論で殴られたシシリオ自身のものなのだから当然だ。

 だが瞳に力が入ると、ニヤリと不敵に笑う。


「おお、ネーシャ! 偉い子だ。アタシゃが育てただけはある。そう! その通り! 面倒くさくて片付けていない! レッド。代わりに片付けてくれ!」

「うわ開き直った!」

「忙しいのは本当だ。でもね、昔からアタシゃ片付けが苦手でね。後でやろうと思って物置に放置していたら、こんなに山積みになっちまったのさ! フハハ!」

「全然笑いところじゃないですよ……」


 ここまで言われると、シシリオは微塵も片付けるつもりはないのだろう。苦手という領域を越えている気もするが、逆に家の方は整理整頓されていることに疑問を抱いてしまう(ネーシャがいるからある程度は綺麗なのか?)。

 かといってこの道具の山……放置したままにしておくのは危ない。何かの拍子に物置が壊れて、仮に近くにネーシャがいれば大惨事だ

 それに――。


 今一度、山積みの道具に目を向ける。

 山積み、それはただ無造作に積まれ、絡み合い、一個の道具としてではなくガラクタの山のようになっている。

 埃被り、見向きもされずに物置で眠り続ける道具たち。いや、こんな墓場もどきの場所で眠れるはずかない。

 

 ――勿体ない。道具っているのは使われてこそ本望だ。こんな修理もされず、放置されているなんて……可哀想じゃないか?


「はぁ……分かりました。片付けますよ。助けてもらった恩もありますし……」

「おお! そうかレッド! ありがとう! アタシもどうしようかと思って古い友人を呼ぼうかと思っていたんだが、レッドのおかげでこの年にまでなって恥を晒さずに済むよ!」

「ただし条件があります!」

「条件…………? 場合によっては――とかダサいことは言わない。どんと言え! 何でもいいぞ!」

「テンション高ッ。じゃなくて、片付けるっていっても使えるものは全部直します。だから直し方は教えてくださいよ。僕一人じゃ何も分からないんですから」

「なんだいそんなことか。条件というからもっと現金な話かと思ったよ。勿論。アタシとしても捨てるのは忍びないからね、快く教えよう」


 その言葉が聞けて胸を撫で下ろす。

 片付けが面倒だという理由ばかり意識してしまいがちだが、手入れの暇がないのもおそらく事実なのだろう。

 人手ぼくが増えれば回らなかったことにも手が回る。それで良い結果が得られるなら、これから『恩』を口実にしてする必要はないだろう。

 だって僕はレッド・だろ? が協力するのに理由なんて必要ない。


「あー、それでだなレッド。怒らないで聞いほしい」

「なんですか、歯切れ悪い」

「いや~、うん。見てもらった方が早いな」

「え、嫌な予感すること言いますね」


 ばつの悪いシシリオに一抹の不安を覚えるが、隣の小さな物置に移動したところで薄々感づいてきた。

 というのも見てきた施設の中で、外に出たことがない僕でも唯一存在を知っているものがなかった。

 そしてそれが、ネーシャの立ち入らない建物だということ。

 小さい倉庫と呼ぶにも、小屋と呼ぶにも、こんな薄っぺらく小さい建物に何が入るというのだろう。

 シシリオの背丈と丁度の高さしかないし、奥行きも人間二人分の幅しかない。

 当たり前だ。なぜなら、地下に繋がるのだから。


「まさか氷室ですか?」

「お、知ってるのか。そうさ、氷室さ」

「……いえ。僕が言った"まさか“っていうのは、これは氷室ですかって意味じゃなくて――」


 僕が目を泳がして言っていいことなのかを吟味しているうちに、あるいは次の言葉を紡ごうとした瞬間にシシリオは扉を開けた。

 

 嫌な予感がする、と思ったのは万が一のための言い訳みたいなもので、僕が臆病でなければきっと間違えることを恐れずに力強い断言によってこう表現していた。


「やっぱり氷室も汚いんですね……」


 瞳いっぱいに入り込むのは雑然。

 氷室。それは地下に穴を掘り、氷塊を置くことで温度を低温に維持し、食材や物を腐敗から遠ざける倉庫を指す。日常的に使うものだ。

 しかしそれは綺麗とは程遠い、僕でさえ汚いと憚らずに表現する惨状だった。

 乱雑な配置だとか、投げ入れただとか、重ねて置いただとか、"片付けていない“状態を表す言葉を全て集約したかのような有り様。

 乾燥させた多種多様な野菜に、捌いた屠肉やなめした獣皮。あるいは袋に入った小麦粉や芋。それらが何の秩序もなく、ただ積み上がっていた。


「こっちもぐちゃぐちゃ……て、これ……どうしてズボンまで食料の下に埋もれてるんですか。あ、折れた」

「ハハハ、アタシも皆目見当がつかないよ」


 凍りついたズボンを拾い上げようとしてパキンと折れたすその破片を放り投げる。

 笑うシシリオに溜め息を吐く。もはや彼女も呆れてしまっている現状に、少しがっかりした


「はぁ…………んくくッ、ふひ、あはははっ」


 だけど同時に僕もおかしくて、にやけて、堪えきれずに失笑する。

 やがてゆっくり鼻で深呼吸をして落ち着いて、熾火のような燻る苛立ちを笑顔で彼女に向ける。


「流石に氷室の整理はシシリオさんがやってくださいね」

「も、もちろんだとも! レッドにこっちの整理も任せるなんて、大人のやるとじゃないからね!」

「本当ですか~? 絶対流れ的に僕に任せるつもりでしたよね~?」

「いやいやそんなつもりは毛頭なかったさ! 少し見せておこうと思っただけだよ」

「ばぁばウソ! ウソなのです!」

「シッ! ネーシャ。それ以上は言っちゃ口を縫っちまうよ!」

「ワァーー! きゃっきゃっ!!」


 シシリオの怖い叱り方に、ネーシャは悪戯が成功したとばかりに嬉しさが十割の悲鳴をシシリオが自ら森の薬草で調合した塗り薬の効果は絶大だった。完治に半月は必要な傷の多くは半ば無理やりな縫合のような痕を残しているが、見事に治っている。あげて逃げていった。

 誤魔化して笑い、図星をつかれて逆ギレするシシリオの姿が僕の知ってる人間臭さがあって、雄々しく凛々しい雰囲気を纏うだけの彼女と遠くかけ離れて、安堵する。 

 

 家族というものが自身の恥も晒すような関係だっていうのは知っていたけど、結局僕とシシリオは他人だった。

 他人を理解するために、理解させるために恥を意図的に晒すことなんてない。いつも取り繕った答えで話してしまう。

 だからこうしてシシリオから自分自身の足りない所を見せてもらって、僕はやっとレッド・ロッソとしての役割を与えられた。

 安心した。


 僕はここにいてもいいんだ。

 不安は少しだけ残るけれど、僕の森での生活が始まった。

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