第10話 夏元陽毬のディストレス


 僕は夏元と二人で話せる場所に移動した。

 学園四階。ここにはクラス教室はないし、朝のこの時間だと廊下はすっからかんだ。

 だから、二人きりで話すにはちょうど良い。

 

「…………」

 

 僕は夏元に、なんて切り出そうかと迷っていた。いきなり本題に切り込むのも、何となく憚られるし。

 

「…………」

 

 夏元の目からは今にも涙が溢れそうだった。

 

「あの、さ」

「……うっ、ん」

 

 声だって震えてる。

 

「走るのが嫌いになったんじゃ、ないんだよね……?」

 

 僕の確認に夏元がコクンと頷く。

 

「……昨日も夜に走ってたからさ」

 

 それで今日は僕たちのところには来なかったし、朝練に行ったとかだと思ってたんだよ。

 

「き、のぅっ……燿くん、にっ会った……からぁ」


 何とか声を出して、僕の疑問に答えはじめる。


「うん」

「朝、練……でなきゃ、って……思ったのに」

 

 でも、行けなかった。

 だから、今は制服のまま。朝練に行かずに。そしてトイレのところで僕と出くわした。

 

「大丈夫。大丈夫だから」

「……うん」

「ねえ、夏元さん。部活……今日も休もう」

「……いい、の?」

「それで僕と冬野さんと一緒に帰ろ。僕は夏元さんと一緒に帰るの楽しいからさ」

 

 そういう理由もあるから、夏元が部活を休んでも良いと思う。

 

「ボクも、美月さんと……燿くん、好きだから」

 

 夏元にこう言われてしまっては少し照れ臭いけど、今はそんなの置いといて。

 

「────ボク、スポーツ推薦で入った……から」

 

 ぶちあたる壁がそれだったか。

 

「部活……休っで、て。でも、辞めた、ら」

 

 他の人に後ろ指さされる可能性があるってことは僕にも想像できた。

 

「だからっ……」


 彼女が苦しんでいて、それが邪魔になるんだったら。


「夏元さん。僕と冬野さんは夏元さんを一人にしない」

「でも……ボク、は」

「そのままそこに居て、夏元さんは楽しい?」

 

 一人にするつもりはないから、辞めたいなら辞めてしまえと僕は言ってる。これが夏元にとっては大きな選択だと僕だって分かってる。

 

「……しいよ」

 

 夏元が口を開いた。

 

「苦しいよ……っ! 嫌なんだよ、ボクは!」

 

 夏元は感情剥き出しで叫ぶ。

 

「ボクは! ボクは……先輩が、嫌いなんだ。あの部活場所が嫌いなんだ!」

 

 それが、今回の原因。

 一度、言葉にしてしまったからだ。夏元の口から洪水のように溢れてきた。

 

「更衣室に、カメラが、しかけ……られてた」

「……盗撮」

「うん……その先輩は……怒られて、カメラ処分されて」

 

 でも、と彼女は続けた。

 

「それだけ、だから。みんなも……バカだよねって終わって。笑ってた。先生からも注意で、終わって」

 

 その盗撮した先輩が少し怒られたくらいでこの話は終わり。笑い話みたいに片付く。

 

「ボクは……それが、嫌だ」

 

 手のひらに爪が食い込みそうなほどに拳を握りしめ。唇を噛み締め。

 怒りと悲しみの混ざった顔をしている。

 

「何も……っ、笑い話じゃない!」


 叫んで。


「仕方ないねで片付いて! それじゃ、またこうなるかもしれない!」


 叫んで。


「そんなの。そんなの、ボクは嫌だ!」


 これが夏元の、本音だろう。


「当たり前みたいに繰り返されるかもしれないじゃん! 今回みたいなことがまた! ボクは、そんなとこに居たくないっ。そんな場所に居続けるの、嫌だよ」

 

 思っていた事を吐き出した彼女は深呼吸してから「ボク、部活……辞める」とつぶやいた。

 

「いいの?」

「うん……ボクは、走るの好き。でも、走る場所はどこだって良いから」

 

 夏元は「ありがとう」と言ってきた。

 

「……夏元さんはもう心の中で答え出てたんだよ。だから、僕はほとんど何もしてない」

「ううん」


 夏元は首を横に振る。

 

「燿くんがこうしてくれなきゃ、ボクは……どうしたら良いかずっと分からなかったから」

「そっか」

 

 ホームルーム前のチャイムが鳴った。

 

「教室行こうか、夏元さん」

「うん」

 

 問題は色々あるかもだけど、そのあたりは今後考えてこう。

 

「さっきも言ったけどね。夏元さん、今日一緒に帰ろうよ」

「うん!」


 頷いてから、夏元が言う。


「ボクも……二人の事、好きだからねっ」

 

 教室に戻ると春木が僕にこっそりと話しかけてくる。

 

「平坂くん。ずっと何してたんですか?」

「トイレだよ。トイレ」


 さっきのは誰かに吹聴する事じゃない。


「そうなんですか? 随分長かったですね。大丈夫ですか?」

「大丈夫。なかなか出てこなくて。僕もまさか時間ギリギリまで粘るとは思わなかった」

「そこまでは言わなくて良いですよ?」

「あ、すみません」

「ふふ。でも、お隣さんが中々戻ってこなくて心配してましたから」

 

 僕は周防を一瞥する。

 主人公が知らないところで色々とあった。まあ、結局今回も主人公に関わる事はなかったけど。

 

「平坂くん。暦くんの方を見てどうしました?」

「あー……その。春木さん、周防くんとは話さないのかなって」

「ホームルーム直前や授業時間の合間に話に行くほどじゃないですからね」

 

 だったら隣の人と話してる方がバタバタしなくて済むもんね。 


「そうそう、平坂くん」

「はい?」

「秋谷凛の写真集がもうすぐ出るそうですよ。私は購入予定です」


 生・秋谷凛はクラスに居るんだけど。


「僕も買おうかな」


 当の眼鏡美少女は黙って本を読んでる。


「春木さんとの話題にも良さげだし」


 あと秋山の応援にもなるだろうし。


「ホームルーム始めるぞ」


 先生が教壇に立った。

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