第四話 魔法のような言葉

 五月二十八日の日曜日、午前六時二十七分。ドアの向こうから聞こえる鍋を取り出す音で隼は目を覚ます。


 

 「朝か…」


 

 上体を起こし、室内を見渡す。目の前に広がるのは見慣れた景色とは全く違う空間。


 

 「そうか…。昨日から…」



 前日の出来事を思い出す隼。


 

 「お姉ちゃんと陽菜子さんのマンションを訪れて…。一度荷物をまとめるために…。そして…」



 前日から陽菜子との共同生活が始まった。



 純平の視線はドアへ。すると、前日の晩に微かに届いたあの声が頭の中で再生される。



 「あの声…。陽菜子さんだよな…。何て言ったか、はっきりと聞き取れなかった。でも、心が安らいでいくのが分かった。そして、気付いたら…」



 深い眠りに就いていた。


 もしかして、陽菜子には…。


 そのようなありもしないようなことをふと思った隼。しかし、首を数回横に振り、自身に言い聞かせる。



 「そんなこと、あるはずないよ」



 ドアを見つめながら僅かに口元を緩めた純平はそのまま立ち上がり、着替え始めた。




 「おはようございます」 


 「おはよう。もうちょっとでできあがるからね」



 隼が寝室を出ると、陽菜子がキッチンで振り向き、隼に声を掛ける。



 「はい。ありがとうございます」



 隼は頭を下げると、ダイニングの椅子へ腰掛け、陽菜子の背中を何気なく眺める。


 彼女の後姿はどこか、ある人物と似ていた。


 前日まで一緒に過ごしていたあの人物の後姿に。すると再び、ありもしないようなことを思った隼。


 しかし、今度は首を横に振らなかった。



 「偶然とは思えないんだよな、この状況…。お姉ちゃんが六月から他の店舗の応援で部屋を留守に。それで、お姉ちゃんは僕を預かってくれる人を…。その人が…」



 陽菜子だ。



 「顔は全然似ていないけど、握手を交わした時の手の感触はお姉ちゃんの手の感触と全く一緒だった。やっぱり、陽菜子さんは…」



 純平の言葉からすぐ、陽菜子はトレイを持ち、キッチンを出た。そして、ご飯が盛られた茶碗から朝食をダイニングのテーブルへ並べ始めた。


 

 「今日は練習、お休み?」



 陽菜子は食事を並べ終え、椅子へ腰掛けると同時に隼へ尋ねる。


 隼が「はい」と答えると、陽菜子は微笑む。


 

 「おお、よかった…!私、土日がお休みだから。実は、隼君と遊びに行きたくて。ダメ?」



 首を僅かに傾げ、尋ねる陽菜子。


 隼は僅かに顔を赤らめ、視線をダイニングテーブルへ。



 「い、いや…。そんなことは…」


 

 照れたような声で隼が答える。


 それからすぐ。



 「じゃあ、決まりね!」



 陽菜子の明るい声が隼の耳に届く。


 隼が視線を戻すと、笑顔の陽菜子の表情が目に映る。その姿はどこにでもいる女性そのもの。


 

 「は、はい…」



 少しの間の後、嬉しさと照れが混じった声で隼が応えると、陽菜子は小さく頷き、手を合わせる。


 それからすぐ、隼も。


 そして、声を合わせ、箸を持った。




 「ごちそうさまでした」



 朝食を済ませ、陽菜子は食器を流しへ下げ、洗い始める。隼はしばらく陽菜子の背中を眺め、寝室へ。ドアを閉めると、窓際に立ち、視線を澄み渡る青空の広がる上空へ。


 それからすぐ、一つ深呼吸。



 「昨日とは違う…。昨日は買い物の付き添い…。でも、今日は…」



 心境が全く違っていた。



 「女の人と遊びに出掛ける直前ってこんな感じの気持ちなのかな…」


 

 これまでに経験したことのない緊張のようなものに襲われる隼。気持ちを落ち着かせるように再び深呼吸。


 すると、それに抗うように、隼に鼓動が高鳴る。


 

 「楽しみだけど、緊張するなあ…」



 しばらく空を眺め、隼はスパイクの手入れを始めた。普段は慣れた手つきで手入れを行なっているが、この日は何故か手間取っていた。




 午前九時二十七分。



 「隼君」



 ドアの向こうから陽菜子の声が隼の耳に届く。


 

 「はい」



 椅子から下りる隼。そして、スライド式のドアを開ける。



 「準備できた?」



 微笑みを浮かべ、尋ねる陽菜子。


 彼女問いに隼は。



 「はい」



 緊張を隠したような笑顔でそう答える。


 微笑んだまま、小さく頷く陽菜子。



 「じゃあ、行こうか」



 やさしい声に隼は頷く。そして、二人は外へ出た。




 「隼君はポジション、どこなの?」


 「ミッドフィールダーです。その中の守備的なポジションです」


 「守備的なポジション…。ボランチ?」



 陽菜子の言葉に驚くように彼女の横顔を見つめる隼。



 「もしかして、サッカー…」



 隼が尋ねるように言葉を発すると、僅かに口元を緩め、頷く陽菜子。



 「私、サッカー好きで、よくスタジアムでも観戦してるから」



 そう応えた陽菜子の視線は隼へ。


 

 「応援に行くよ、中総体」


 

 やさしい眼差しが隼を見つめる。



 「三ヶ月間は私が隼君のお姉ちゃんなんだから」



 隼は一瞬だけ視線を下へ。



 「あ、ありがとうございます…!でも、逆に空回りしちゃいそうです」


 「あはは!何それ!」


 「その…。試合による緊張と、陽菜子さんが観に来ることの緊張で」


 「もう…!」



 笑顔の陽菜子。


 隼は翌週の土曜日に中総体の初戦を迎える。


 今度は試合が近づくことの緊張に襲われる隼。


 すると、微かに女性の声が隼の耳に届く。


 声の主は。



 「普段通りプレーすればいいんだよ…!」



 隼のすぐ近くからその声が。


 既に聞き慣れた声。


 やさしい声。



 隼の視線は消えが聞こえた方向へ。目に映るのはやさしい表情の陽菜子の横顔。


 隼の試合が近づくことの緊張はいつの間にか消え去っていた。


 魔法のような言葉で。



 「陽菜子さん…?」



 隼の目に映るのは、どこにでもいる一人の女性、橘陽菜子の姿。


 自身の耳に届いた声の主は陽菜子だったのだろうか。そして、陽菜子の正体は…。そのようなことを考えているうちに、山取ショッピングモールに続く横断歩道の信号が青に切り替わった。

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