第31話 消えない傷

「すごい食欲でした」

 サヤカはシャワーを浴びながら先ほど凄まじい勢いでチャーハンを食べきった竜斗のことを考えていた。


 やはり英雄。昨今は草食系男子が富に増えている。そして彼らが小食なのは世事に疎いサヤカでも知っていた。あらかじめ、竜斗の姉で今回自分を専任警護官に強く推してくれた一姫に「弟は大喰らいだから」と聞いていなければ不覚を取るところであった。


 多めに作ったチャーハンを瞬く間に空にしてしまった竜斗の力強い動作にサヤカは胸の鼓動を早めて、軽い興奮状態に陥った。


 思えば、物心ついてから家族と食事を共にした記憶はほとんどない。儀礼的な集まりではさすがに同席しないわけではないが、両親と祖父母の中心にはいつも妹の姿があった。そこに自分の居場所はない。サヤカは濡れた髪から滴り落ちる雫をボーッと見つめながら、瞬間的に乖離していた意識を取り戻した。


 ――わたしはいつもこうだ。

 以前、同僚に指摘されたことがある。凄まじい幽霊顔。サヤカは過去の辛い記憶を無意識に思い出している時、自然と自分を守るためだろうか死んだような状態になることがあった。浴室から上がって鏡の前に立つ。バケモノみたいな顔をしていたら、主である竜斗を怯えさせてしまうだろう。チェックだ。ドライヤーで髪をかわかしながら、自分の身体を点検する。日々の鍛錬によって、身体は引き締まっている。無駄な贅肉は、ひとつまみもない。あざや虫刺されの痕もない。ことに臨んで、肉体的があれば殿方は容易に興ざめするナイーブな生き物と聞いている。とりあえずはオーケーの判断を下した。


(リュウトさまは、わたしの身体に興味を示してくれるだろうか)


 サヤカは下着姿になると、激しく脈打つ心臓を意識しながら竜斗の個室へと向かった。


 ――また、拒否されてしまったらどうしよう。


「リュウトさま? まだ、起きていらっしゃいますか?」

 幸か不幸か部屋の扉は施錠されていなかった。これで、また逃げる口実が消えてしまった。扉の隙間から明かりは漏れてこない。電気を消している証拠だ。


 今夜、彼に抱かれる。つもりだ。竜斗が以前に仕えた少年のように、好みのタイプが完全な少女趣味であったら、わたしの物語はジ・エンドだろう。その時は、もはや男性警護官を辞退して、元の軍籍に戻り、ダンジョンから地上に湧くモンスターをぷちぷち殺しながら、誰とも深く接することなく余生を送ることにしよう。そんな思いで部屋の扉を開けたサヤカの目に、ベッドの上で毛布を頭からかぶりながらジッとこちらを見ている竜斗の姿が飛び込んで来た。


「リュウト、さま?」

 ベッドの上で片膝を突いて座っている竜斗は侵入者がサヤカであると気づいても、張りつめるような殺気を微塵も緩めなかった。直視した瞬間、喉の奥になにかを突っ込まれたような、強烈な圧迫感があった。


 竜斗の瞳は獣のように、闇の中でも爛々と輝いている。サヤカは軍においてそれこそ血反吐を吐き、生理が止まるような過酷な訓練を受けてきたが、とてもではないが目の前の男を見た瞬間、そのような矜持が消し飛んだ。


「悪い。たまぁに変なこと思い出しちまうと、熟睡できなくてね」

「あ、は、はい」

「癖なんだよ。大丈夫だってわかっていても、気が張り詰めちまう。こんなふうな夜は、特にそうなんだ」


 会話はできる。サヤカは膝頭から力が抜けてしまいそうで立っているのがやっとであった。ここで怯えてどうするんだ。

「おそばに行っても構いませんか?」

「ああ、いいよ」


 許された。サヤカは震えながらベッドの上に乗ると、自然な動きで竜斗の隣になんとか移動した。すぐそばまで行ってわかった。竜斗の身体は火のように熱かった。初冬もそろそろだというのに、身が焼かれるように熱い。ハッと気づいた。竜斗は震えていた。


「リュウトさま、どこか体調がお悪いのでは――?」

「いや、寝たいんだけど、なんか落ち着かなくってさ。ダンジョンの中じゃあ、とてもじゃねえが熟睡はできなかったからな」


 息を呑む。サヤカが動揺を抑えようと意識をコントロールしていると隣の竜斗が寄りかかってきた。気づけば、サヤカは顔中に汗を掻いていた。戦闘訓練とは別種の強烈な緊張感で自分の呼吸が止まりそうだ。床の上での作法は自分なりに研究していたつもりであったが、上手くできるかどうかはわからない。


 ええい、どうにでもなれ!


「リュウトさま、わたしは――」

「くかーっ」

「は?」


 くたりと、サヤカの膝の上に竜斗の身体が転がり込んでいた。反射的に抱き止めてしまう。計らずとも、サヤカは竜斗を抱き抱える格好となった。重みは消えない。それからどのくらいの時間、そうしていただろうか。サヤカは意を決して、ベッド脇にある小さな照明をつけた。


「寝てる」

 竜斗は母親に甘える子供のように安らかな表情で寝入っていた。サヤカは竜斗の頭をそろそろと持ち上げて、上手く自分の両膝に乗るようにセットした。


 それから、恥ずかしくなった。わたしは愚か者だ。20年間ダンジョンでさ迷い続けていた竜斗の心を自分は本気で思ったことなどありはしなかった。彼は英雄だと。英雄には、微塵の心の隙もなく、強く、堅く、傷つくことなどありはしないと勝手に決めつけていた。こうして自分の膝の上で寝ている竜斗の寝顔は安らかだった。


 それから、サヤカは彼の20年に渡る地獄のような苦闘を思いやった。性の獣。自分は竜斗に一方的な情欲だけを覚えて、相手のことを考えずに行動していた。なんで、そのようなことが平気でできるのだろうか。ただ、自分は少しでも相手に寄り添って欲しかっただけなのに。竜斗は本能的にサヤカを敵ではないと認識して、その身を預けてくれたのだろう。


(少しは、わたしのことを信用してくれているのね)


 そう思った瞬間、サヤカの胸の中に、情欲とは違った強烈ないとおしさがこみ上げてきた。こんな母性が自分の中にあったとは。竜斗をギュッと抱きしめる。それから、ベッドに広がる彼の長い髪に指を通した。


「う、うーん」

 伏せられた目蓋から伸びるまつ毛は長い。よく見ると、右目の下や額には細かな古傷があった。サヤカはそっと竜斗の鼻先をつまんでみる。キュッと眉間にシワを寄せて竜斗は唇を子供のように尖らせた。


「ふふ、面白い顔です」


 ――守ろう。


 そのために、今日まで生きてきたとサヤカはいまこそ胸を張って言えた。ダンジョン内では無敵でも、地上ではどのような困難が彼を襲うかわからない。竜斗のために戦うと決めた。サヤカはくすくす笑いながら、ほのかな明かりのもと安らかに眠る主人の顔を飽きもせず、いつまでも見つめていた。


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