第21話 事務員佐山アカリ

「とにかくいまはラーメンが食べたい」


 こってりして脂ぎったスープに分厚いチャーシュー、そして玉子と海苔。ニンニクもガッツリ入れよう。ふん、どうせ誰も気にしない。異性の目? そんなものは生まれてこの方見たことない。つーか都市伝説でしょ。


 凸凹商事の事務員を務める佐山アカリは自他ともに認める超絶美女だ。整った容貌に切れ長で美しい瞳。あきらかに北欧の血が混じっているだろうと思われる八頭身のアカリは胸は大きく尻も必要以上に自己主張しており、美形が珍しくないこの年代でも際立っていた。腰まで届く黒髪の手入れは完璧で鏡のように周囲の景色まで映りそうだ。

 愛と美の女神アフロディーテが顕現されたと言われてもおかしくない不可侵のパーフェクトさを誇ったアカリの機嫌は朝から悪かった。


 理由はひとつしかない。それは昨晩『孕ませデータバンク』と俗称されていた政府が推進していた精子バンクの抽選に漏れたからであった。


 多くは望まない。同年代などという不遜な望みは抱かない。50代、60代、70代でも構わないのだ。男子とマッチングしてひと晩でも抱いてもらえれば私は生まれてきた意味があるというのに。


「なのにはずれちゃった。はあぁあん」


 夏のボーナスを全ブッパして乾坤一擲の勝負をかけたのだが、昨晩の抽選にアカリは選ばれることはなかった。


 そして次回の抽選予定は未定となっているのだ。これにはさすがのアカリも秘蔵のワインを痛飲するしかほかはなく、結果今朝の気分は散々だった。


 さらには、彼女らしからぬ凡ミスを会社で連発して、いまのアカリは死に体である。となれば、ランチにこってりぎとぎとラーメンを喰らって精をつけねば生きてゆく自信がなかった。


(ふふんだ。あ、そだ。チャーハンも食べちゃお)


 とんでもない蛮行である。アカリが意気揚々とヒールを鳴らして店に入ると、券売機の前でやたらに髪の長い女が長考していた。アカリはかなりイラっとしたが蹴飛ばすわけにもいかず、ジリジリと待った。


(にわかが。とっとと決めろや。こちとら早く糖質をかき込みたいんだよ)


「えっと、どれにしようか迷うな」

 アカリは「お」と思った。どうやら目の前にいるのは昨今流行の男装趣味らしい。声までもが、かなり作り込んでおり低めである。


 ほとんど後方からはわからないが、これで顔が小動物系だったら笑うぞ、とアカリはすさんだココロで毒づいていた。やはり女装男子にはある程度ワイルドさが求められる。


 が、根は善人なアカリは目の前の女がやたらに迷っているようなので、ついつい助け舟を出してしまう。


「あの、ここは魚介系よりも断然とんこつがおすすめですよ」

「お、ワリーな姉ちゃん。助かったよ」


 迷い人が振り向く。瞬間、アカリは呼吸ができなくなるようなショックを受けて両眼をカッと見開いた。


(こ、これ、ホントに男装? このクオリティはさすがにハリウッド並みの特殊技術じゃないの?)


 きりりとした眉に力強い光を宿した瞳。凄みのある顔の古傷を目にしただけでアカリは大事なところがキュウッと変な感覚になった。


(ややや、やばい。変な趣味に目覚めそう)


「あ、あの、男装ですか、お姉さん。そ、それ? すっごく真に迫ってますよ。やはは。凄いですよねえ。私も一瞬ドキッとしちゃいましたよー。え、あ、え? 声も、すごいですよね。低くて、ホントに男の人みたい。声まで成りきる人って、聞いたことない。あ、そうだ! お姉さん、地声が低音――」


「なにを言っているんだ。俺ぁ男装もなにもしちゃあいねえぜ。にしても、あっちいなあ。ホントにもう10月なのかよ。秋ってこんな暑かったけっか?」


 独特の匂いが漂ってきた。アカリはくらくらしながら、むせ返るような男のフェロモンに倒れそうになった。


 男だ! 間違いない。アカリは男が風を入れようとくつろげながら引っ張ったシャツから覗く、確かな喉仏を目にして凍りついた。54歳で亡くなった伯父の喉元にも同じようなものがあった。


(授業で習ったとおりだ。ホントに、これが男のヒトだ)


「なあ、アンタもそう思うだろ?」

「は、はひ……」


 焦りのあまりアカリは間の抜けた声しか出なかった。男はいぶかしげにこちらをジロジロと眺めていたが、不意に食券機のほうへと向き直った。男性だとわかるとその後ろ姿からも違いが如実にわかった。肩幅が広い。蒸すような陽気の10月初旬とはいえ、男は白いカッターシャツ一枚だ。目を凝らせばわかる。薄い布一枚を隔てて発達した筋肉が苦しそうに収まっている。はあ、なんだろう。なんか、胸がドキドキする。というか、見てるだけで達しそうな。ヤバい、あ。達する。達しそう。なにかが、来る、来る、来る!


「ひんっ」

「?」


 男が一瞬振りむいた。が、また券売機に向き直った。

 アカリは幼少期に駄菓子屋で初めてたまごボーロをパクった時以上の後ろめたい興奮を覚えた。


「んん。魚介、魚介ねえ。ピンとこねえな。とんこつ、とんこつか。それにしよ。あ、なんだ! これ?」


「え」

「なんだよ、これオモチャ? 将監の野郎、偽札じゃねえか! ふざけたもの掴ませてくれやがって。こんもん使ったらお店の人に悪いじゃんかよ。せっかくコッソリ抜いといたってのに」


 男はポケットに裸のまま入れていた札を見ながら激しく動揺していた。確かに、一見すれば昨年切り替わった札は漢数字からアラビア数字に変わっているので、紛らわしいがそれもいまさらの話だ。ちなみに、竜斗は端からホテルから脱出しようと企んでおり、金は財布ごと将監からギッた。返せばいい、という勇者らしからぬ考えである。盗み、良くない。


「あ、あの。それオモチャじゃないですよ。紙幣は去年変わったじゃないですか」

「はあ? だって万札は諭吉、千円札は漱石って決まってるじゃん」

「違いますよ。ふふ、いつの話してるんですか」


 アカリが知っている限り、それらが使われていたのは自分がまだ幼児だったころの話である。男はなにか納得がいかなかったらしいが、とりあえずは目当てのものが決まったのか、次々と食券を機械から吐き出させている。


(あらあらあら、ってすごい注文するのね)


「あん? アンタはとんこつじゃねーの」

「い、いえ。なんか、私ちょっとさっぱり系が好きかなあ、なんて」

「ふぅん」


(話してる。私、男性さまと普通に会話できてる! しゅごい!)


 男はさっさとカウンター席に着くと、店員に食券の束を渡した。

「あ、あの、本当にこんなにいいんですか?」

「おう、構わねえよ。ちょっと小腹も空いてるし。いけるさ」

「え、あ、え、あの、アナタはもしかして……?」

「とにかく、早く、くんな」

「わ、わっかりましたぁ!」


 ――男の食欲はすごかった。

 まず、とんこつラーメンの大盛りを二杯ほどぺろりと平らげると、続けて来たチャーハンのマックスでか盛り(推定3キロ)をギョーザ5人前(25個)と同時に食べきってしまう。


「お、なんこつ唐揚げと、このまかないチャーシュー丼、それにつけ麺とまぜそばってやつをそれぞれ5人前くださいな。あ、食券めんどいんで、金はこっから」


 見ていて気持ちいくらいの食欲であった。アカリではなく、店内では昼食を取っていた付近のOLたちが異質さに気づいて、どよめいている。テレビの大食い選手が目の前でチャレンジしていれば誰でも目を見張るだろう。


「がるるっ」

 男は唸りながら丼ものをかき込むと、勢いのあまり手にした割り箸をへし折った。


「あ、あの、これ」

「ん、ありがとな」


 自然とアカリは新しい割り箸を手渡していた。それがあたりまえだというように、男は受け取ると実にやわらかな笑みを浮かべた。


(やらぁ、なにこれぇ。胸の奥がきゅんきゅんすゆ……)


 ポーっとなる。頭の中が燃えるように熱い。アカリは目の前の男のこと以外考えられなくなる。なにもかも捧げたくなる。やさしく身体のどこかを触られたら、確実に絶頂する自信があった。


 どちらかといえばアカリは気が強い。言いたいことはすぐ口に出すし、人間関係とか思い悩むくらいなら言いたいことをバーッとストレートに口に出して、それで嫌われても仕方ないと割り切れる、男前な部分が大きかった。


 現に、学生時代は下級生(当然皆女)たちから王子さまと慕われて男役にされることに慣れ切っていた部分がある。


 だが、目の前の人物を前にすると、自然と屈従してしまいそうなドMな自分がいることに気づき、むしろそれは喜びに近かった。女だ。自分は女であると確信できた。


「だあぁ。美味かった。満腹じゃ。ぷうっ」

 食事後の発汗作用で汗だくになった男はあろうことか、無造作にシャツを脱いだ。当然ながら、店内は女たちの悲鳴と歓喜の声で満ちあふれた。


「な、なんだぁ?」


 男の上半身は凄まじかった。贅肉ひとつなく鍛え抜かれた肉体は無数の古傷が走り、それだけで見る者を圧倒する。


 その場の誰もが思った。これが男の肉体であると。

 

 脱いだシャツから露になった腕は異様なまでに太く、金属ワイヤーが束になったような筋肉が異様に発達していた。胸筋もみごとである。無数の汗の雫からたとえようもない香気が漂い、隣にいたアカリはそのフェロモンをもろに嗅いでしまい、知らず、陶然となりほとんど反射的に達した。


(ああ、やだぁっ、うそっ。こんな人前で至ってしまうなんてぇ)


 びくびくっと爪先まで足がピンッとなり全身が痙攣している。大事な部分がドッとあさましいまでに大洪水になってしまったのはいうまでもない。


「男ォ!?」

「うぞっ!」

「なんで、こんな場末にっ!」

「場末のラーメン屋で悪かったわねっ」

「この店に通って良かったって思える日が来るなんて」

「ちょ、うぞっ。男? なんでぇ! ひんっ」


「神さま、同僚を見限ってしゃらくさいカフェランチにしなかったあたしを祝福して」

「うおっ。なんぞ!?」


 女たちに取り囲まれた男は当然ながら数秒後にもみくちゃにされた。アカリが動くのがもう数秒遅かったら、救出は困難だっただろう。


「だりゃあああっ!」

 アカリは176センチの長身を生かして咄嗟に身を低くして女たちにタックルをかました。両腕は交差させて的確にラッセルを行う。


「きゃああっ」

「やあっ」

「ひんっ」


 その突破力はただのOLたちをその場から駆逐させる十二分なエネルギーを有していた。なにを隠そう、この10月で22歳になる佐山アカリは2年前までダンジョン内で現役バリバリにモンスターを狩っていたB級探索者であった。


 重戦士――いわゆるパーティーの盾役で活躍していたアカリは、一見すればグラマラスな八頭身美女でしかないが荒事となれば地上の有象無象に遅れを取ることはない。


「立って! 走ります!」

「あ、おう」


 アカリは男性の腕を取って引き起こすと、ポカンとこちらを見ているラーメン屋の店長(美形27歳)に万札ありったけと名刺を投げて


「足りなきゃ後日名刺の会社に!」

 と、怒鳴った。






 走り去る後方からは、飢えに飢えた狂犬たちの怨嗟の声が響き渡っていたが、アカリからすればどうでもよかった。


 だが、アカリは逃げることに夢中でしばらく気づかなかった。男の上半身は裸だった。考えても欲しい。人通りの多い都心でトキやライチョウ、ヤンバルクイナやクロイワトカゲモドキやトウキョウサンショウウオ並に珍しい男性が目立たぬはずがない。


 時刻はちょうど昼の休憩時間である。ひと時の憩いを求めて街の人間が闊歩する最中を筋肉隆々とした若き男の疾走はありえない幻だった。人々は真昼に白蛇が蛇行するのを目の当たりにしたように、初めは凍りつき、やがては絶叫を上げた。


「な、なんだ、この騒ぎは?」

「こっち!」


 状況が理解できていないのか男はポカンと突っ立って狂奔している周囲の女を眺めている。


(ああ、こんなところに居たらどうなることかわかってないの!?)


 元探索者であるアカリはかつての勘を一瞬で取り戻したのか冴え切っていた。幸か不幸か、人々は男にスマホを向けて写真を撮っているか興奮して騒いでいるだけだが、いつそれが蛮行に変わるかわからない。特に、群衆とは恐ろしい。


「ね、ねえ。もしかしてこれってAVの撮影ってやつかな?」

「じゃあ、ちょっとくらい触っても?」

「わ、わ、わたし、男の人のアレ見てみたい」

「ですよね!」


「それどころかぺろぺろするのは?」

「ありよりのあり?」

「ちょっとだけ乗っても平気なやつ?」

「ロデオよ、ロデオ! おとなのロデオマシーンで鍛えた私の技を活かすのよ!」


(冗談じゃない!)

 このままでは無垢な男さまが野獣たちの性欲の生贄として捧げられてしまうのは時間の問題だろう。アカリの判断は早かった。


「すみません、撮影ではありません! 緊急の要救助者です! 通してください!」

 ダンジョン内で鍛えたアカリの良く通る声は半径数百メートルに響き渡った。これは指示や伝達が拡散してしまう洞窟内で磨き抜かれた探索者独特の発声スキルである。


「え、撮影じゃないの?」

「ぺろぺろは?」


 すでにジャケットを脱いで下着からはみ出そうな胸を誇示しているアホっぽい女たちが呆気に取られている。


 アカリは、すぐさま男の手を取るとその場から脱出した。


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