第16話 秘書月影ユリナ

「リュウトさま。月影です。お飲み物をお持ちしました」


 月影ユリナはふたりの受付嬢にドリンクポットの乗った台車を運ばせながら、部屋の前で小さくノックをした。


「?」


 返事がない。反射的にユリナは表情を小さく強張らせた。救世主パーティーの英雄で民聖党の有力議員である弦間一姫が第三秘書であるユリナを世話役とつけたのには理由があった。坂崎竜斗の身辺保護である。


 いずれは知れ渡るであろうが、魔王を討伐した立役者で、いまや「勇者」として新興宗教の対象とまで成っている竜斗の生還は政治的にもトップシークレットなのだ。

 

 そのために、現在竜斗が宿泊している20階の全室はすべて政府権限で借り上げられているし、ユリナ自身も各種戦闘技能を身につけかつては探索者としてBランクまで到達した凄腕の猛者なのだ。


 彼女は、163センチと見た目は細身であるが、特殊訓練を受けた軍人や秘密警察の人間が相手でも10人以内ならば即座に制圧できる超人的な肉体能力の持ち主である。容貌も群を抜いて飛び抜けており、東北出身のいわゆる肌の白さは透き通るような輝きがあった。


(なにか、リュウトさまの身に――?)


 ユリナは素早くカードキーでロックを解除すると部屋に駆け込んだ。竜斗の姿はあたりにない。パッと視線を巡らすと、浴室の前に着衣が散乱している。耳を澄ませると、シャワーを使う音が聞こえてきてホッとした。


「わるーい。いま、風呂使ってっから! ジュースはそのへんに置いといて!」


 竜斗の突き抜けるような声が浴室から響いてきた。あまりの声の大きさの凄さに、ユリナは思わず片耳を押さえた。


 ダンジョン内では、音が吸収されやすいために探索者の声は大きくなりがちだが、竜斗のそれはずば抜けている。これが男女差というものなだろうか。ふと気づくと、ジュースを運んでくれた受付嬢たちが微妙な笑みを浮かべながら立っていた。


「あ、あのお。リュウトさまは」 

「なにかお手伝いいたしましょうか?」

「ありがとうございます。あとは、私がやりますので、ご退室願います」


 魂胆はわかっている。この受付嬢たちも、あわよくば竜斗の尊顔を仰ごうと必死なのだ。


 ユリナがほとんど殺気を乗せて言うと、それでも受付嬢たちは怯えながら食い下がろうとした。なかなかに良い根性だ。ユリナはいい笑顔でにっこり微笑むと、いまだぶつくさいう彼女たちを半ば無理やり廊下に押し出して扉を閉めた。


(まったく図々しい人たちね)


 とはいうユリナも、先ほど着ていたパンツスーツをスカートに着替えていた。理由はあきらかに竜斗が受付嬢たちの尻をジロジロと見ていたからだ。


(姉である先生がお世話役を私に任せた。ということは、もはや私は家族公認ということになるわね、なります。なるの!)


 ユリナも完全に処女をこじらせていた。


「でぃ!」


 唐突に浴室の扉が開いた。なので、ユリナは妙な声を上げてその場に小さく跳びあがった。


「ああ、悪い。てっきり、もう帰っちまったのかと」


 そこにいたのは、ハーフパンツだけを履き、裸の上半身から濛々と湯気を立たせた筋骨たくましい青年の姿だった。


「あ、あ、あふ」


 竜斗である。


 ユリナはかつて非合法の男性が裸体を晒している写真集を目にしたことがあったが、実物の男の裸を見るのは初めてだった。


 言葉が出ない。竜斗の身体は大小の傷が無数に走っていたが、惚れ惚れするほどにたくましい身体だった。これはスポーツや鍛錬で作れる筋肉ではない。無駄な贅肉はなにひとつなく、鉄線を束ねたような強力で張りのある筋肉が全身に纏われていた。腹筋はみごとに割れて薄っすらとした脂肪がわずかに乗っている。足腰や腕のしなやかさは野生動物の虎や豹を思わせる美しいラインを描いていた。


 ユリナは常々女性の身体よりも鍛え抜かれた男性の肉体のほうが美しさではるかに優ると思っていたが、まさしくその証拠が目の前にある。


 拝みたくなるような、服従したくなるような圧倒的な力を感じ、へなへなとその場に頽れそうになる。ああ、竜斗に無理や押し倒されてしまったら、自分は瞬間的に発狂する自信がある。というか押し倒せや。


「ちょ、どうしたんだよ。大丈夫か、ユリナさん」


 知らず、フラフラしていたのかユリナは素早く竜斗に腰を抱き抱えられて、思わずあられない声を上げそうになったが、最後の理性がそれを押し止めた。


「だ、大丈夫です。心配ありません、わたしはへいき」

「いや、ちっとも平気じゃなさそうだが」


 気づいた。ユリナは竜斗が真剣に自分を心配していることに気づき、恥じた。邪な考えだ。


 思えば、一姫は自分を信頼して、ようやく戻って来た大事な弟を任せてくれたのだ。それなのに、ふわふわとくだらない自己本位な情に衝き動かされて竜斗に妙な気持ちを抱いている。でも、抱くよ、そりゃ抱くさ。あたりまえじゃん。


(ああん、リュウトさま。もっと、もっと)


 目が合った。あきらかに竜斗が怯えたような瞳でこちらを見た。ユリナはいつものような平静さを保つと、胸の内で血涙を振り絞りながらそっと竜斗から離れた。ああ、悔しい。


「リュウトさま。ご所望のフレッシュジュースをお持ちしました。存分にご賞味ください」


 上手く笑えたとユリナは思った。


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