第15話 ジュースうまうま

「竜斗。とりあえず、ホテルを用意してあるからそこに行きましょ。アンタと話し合わなくちゃいけないことはたっぷりあるけど、いまはゆっくり休みなさい」


「おう。それよりもさ、俺と一緒にいたハルカって子はどうなったんだ?」


 一姫が一瞬だけ形容しがたい苦しげな表情を作った。が、すぐさま仮面をかぶったようににこりと笑みを張りつける。昔と変わっていない。一姫は困ったことがあるととりあえず笑ってみせるのだ。微笑みはすべての感情を覆い尽くす。竜斗は腹芸ができる性質ではない。ずいと進み出るとストレートに訊ねた。


「なあ、もしかしてあの子になんかあったんじゃねえだろうな」

「あの子、霜村ハルカのことだけど、うーん。話すと長くなるんだけど、とりあえず無事よ。すり傷程度はあるけど、大事はないわ」


「そっか、良かった」

「っふふん」

「なに笑ってんだよ」


「アンタって子は昔とちっとも変ってなくて安心したのよ。とにかく、今日はゆっくり休んで。ハルカのことは明日、また話すから、ね」


 竜斗が集まっている人たちに向かって忙しなく視線を送っていると一姫は優しさを湛えた瞳で言った。


「心配しなくても、明日にはみんなに会えるから。アンタ以外はきちんと戻れたのよ」

「お、おう」


 グッと自分の頬を両手で抑え込む姉の顔を間近で見た。記憶とは違い、すぐ目の前で見る姉の顔には年相応のものであり、竜斗はもはやそれ以上なにも言うことはできなかった。






「すげぇ、フワフワだ」

 竜斗は案内されたホテルに通されると、まず目の前の広々とした空間に置かれたベッドに靴のまま腰かけた。


 このように豪華な一流ホテルに泊まったことは一度もない。青春を戦時で過ごし、ダンジョン内で20年を過ごした竜斗は凄まじい物資制限と灯火管制の敷かれた東京しか知らなかった。


 魔王を斃したことによって、世界は一応の平穏を得たのだろうか、竜斗が幼少期の時に知っていた日本と変わらない繁栄を取り戻していたのだ。


 黒塗りのリンカーンから眺めた街並みは整っており、かつてのようにロクに舗装の手も入らず、ヒビや凹みがあたりまえだった道路ではない。


 街並みにも陰惨な空気はなく、色とりどりの品がズラリと並んだ店の軒先は竜斗にとってカルチャーショックを充分に与えた。


「にしても、美人な受付のおねーさんだったなあ」

 ほぼ通り過ぎただけであったフロントにいた受付嬢は竜斗の目からすれば、極上すぎる美女であった。


 竜斗はベッドの毛布にうつ伏せになると、匂いを胸一杯に吸い込んだ。両足をバタバタさせながら靴をすっぽ投げる。


 ダンジョン内で履き古した半長靴はズタボロで見かねた姉が探索者協会の事務所を出る前に用意してくれたものだ。


 サイズは29センチ。

 まっさらで泥ひとつない靴は見るだけで竜斗の胸をわくわくさせてくれた。


 ――この街には物があふれている。


「やべっ。寝ちまうところだった」

 竜斗はベッドから飛び起きると、備え付けのテーブルの上に置かれたグラスを取った。


「ごくり」

 キーンと冷えて汗をかいたグラスは青く輝いている。口をつけると、適度に冷えていたオレンジジュースが口腔から喉に落ちる。ほとんどひと息に呑み切った。同時に、脳髄が痺れる。


「う、美味っ。ジュースってこんなに美味かったンか?」


 思わず、ぐらりとふらつく。20年近く甘みを断っていたのだ。ダンジョン内では、甘味など存在せず、ビタミンを補給する手は血の滴るモンスターの生肉を摂取するほかに手はなかったのだ。


 人間はどれだけ過酷な状況に陥っても、一度覚えた甘みを忘れ去ることができない。第二次大戦の陸戦では軍馬でさえ、兵隊が配給された角砂糖の欠片を喜んでしゃぶるほど甘みというものは貴重なのだ。


「チキショー、うめぇぞ、これ。こんなんじゃ足りねーよ。腹が弾けるほど呑みてぇ。足りんぞぉお。ん?」


 ――そういや、欲しいものがあれば電話しろって言ってたな。


 竜斗は姉によって渡された一台のスマホを手に取ると、まだ慣れない手つきで新品の指紋ひとつない画面を操作した。


「はい月影でございます」

「あ、ユリナさん? 俺、竜斗だけど。ジュースのおかわりって貰えるかな?」

「はい、すぐに部屋までお持ちします」

「いやあ、ワリィね。これ、メチャクチャ美味くってさ。びっくりしたよ。腹一杯飲みてえって感じ? あはは」


 くすり、と電話の向こうでユリナの笑い声が聞こえた。瞬間的に竜斗はうろたえた。月影ユリナは姉の秘書だと言うが、特別に竜斗の世話を焼くためにこの帝王ホテルに留まったのだ。


「竜斗さまはオレンジジュースがお気に召されたのですね。すぐにお持ちしますので、お部屋でくつろぎながら、いましばらくお待ちくださいませ」

「あ、はい」


 焦りながら竜斗は通話をオフにした。それから、スマホをテーブルの上に置きフーッと長く息を吐き出した。


「やっべ、やっべえー。呆れられちゃったかな? ユリナさんすんげぇ美人だし、大人の女性って感じだったからなあ」


 竜斗からすれば、高級そうなパンツスーツでビシッと決めたユリナは別世界に住む人間なのだ。


 実年齢が38の竜斗からすればユリナは16も年下の娘っ子でしかないのだが、ダンジョンでの殺し合いと学生の世界しか知らない竜斗にとっては、極めて「まともでちゃんとした大人の世界」で働いているお姉さんなのだ。


「にしても姉ちゃんが政治家? しかも、大臣ってなんかの冗談だろ。ユリナさんは、ザ・秘書! って感じで、なんか大人のエロスを感じてしまうのだが」


 竜斗はソファの上であぐらをかきながら顎に手をやってうーんと考え込んだ。それから、先ほどの電話で調子に乗って馴れ馴れしく喋ったことを後悔し出した。


 ――マズい。なんか、メチャクチャ気まずい感じだ。


「そうだ、シャワーでも浴びよ」


 とりあえずの策として竜斗はシャワーを浴びることにした。いま、竜斗が着用しているのは一姫が用意してくれたシャツとスラックスだ。既製品であるが、上半身の筋肉が異様に発達した竜斗からすればところどころがキツイ。腹回りは痩せているが、首、肩、腕のあたりが太すぎてピチピチなのである。


「とうっ。ベイル・アウツ!」


 竜斗は一気にシャツとスラックスを脱ぎ散らかすと、そのまま風呂場に直行した。後には、脱ぎ散らかされた残骸がそこらじゅうにバラ撒かれたままになった。



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