第09話 弦間一姫

 上層階にAランクモンスターのケルベロス出現。その一報をキャッチした国立探索者協会の上層部は、初めこそ平静を保って規則に基づき行動を開始したが、やがては情報が真実とわかると、動きは俄かに慌しくなった。


 Aランクのモンスターとなると、その脅威は生半可なものではない。そもそもが、ここ5年ほどかなりの最深部でも、Aランクのモンスターは影すら見ることはなかったのだ。


 3階層にそれだけの脅威を持つ強力なモンスターが現れれば、地上に飛び出す可能性は低いとは言えない。処理に困った協会の上層部が、この判断を仰ぐためにかつて魔王を討伐した英雄のひとりに連絡をしたのも無理もない行動だった。


「ケルベロス? 嘘でしょう。だいたい、いまどきSNSの情報なんていっくらでもでっち上げられる。つい、先週もあったじゃない。Bランクモンスターの大量発生? それだって、性質の悪い配信者がバズりたいがためにフェイク動画をぶち込んでたって。ええ? ちょっと待って。もう一度言いなさい。その配信を行っていた探索者の姓名は、霜村ハルカ。それに間違いないわね」


 かつての救世主パーティーのひとりで、現民聖党の重鎮である弦間一姫は整った鼻梁に激しくシワを寄せると、細かな内容を詳細に聞き取り、即座に協会へと討伐隊を編成するように命じた。


「わかりました。とにかく、現場にはわたしもゆきます。ええ、問題ありません。これでも政務の間を縫って鍛錬を欠かしたことは一日たりともありませんから。いまでもわたしは、駆け出しのA級探索者には実力でひけを取らないつもりでいます」


 ――ケルベロス、ね。


 一姫は秘書に命じて車輛を手配させると、スーツから動きやすい服装に着替えて机の上に立てかけてあったワンドを握った。


「まったくあの子は。ツキのなさは呆れ返るくらいよ。もう」

 20年の歳月は長い。


 友人から引き取った霜村ハルカは、一姫と夫との間で実の子と分け隔てなく、15の歳まで同じ家に起居して育てた。


 そのハルカが、3年前、母親と同じく探索者の道を目指すのはある意味運命的であるといえたが、行方不明の上に同ルート上で強力無比なケルベロスに出くわす可能性がどの程度かと考えれば、


「これはもう、本当に歩いていて隕石が頭にぶつかる確率くらいじゃないの」

 一姫は黒塗りのベンツに乗り込むと、運転手になるべく急ぐよう伝えた。


「あ、それとあくまで安全運転でよろしくお願いね」

 今年で44歳になる一姫は、宣言通り魔王討伐以後、政務に携わり家庭や育児に心血を注ぎながらもトレーニングをかかしたことはなかった。


 その甲斐あってか、体脂肪は常に7パーセント以下を上回ったことはない。身体能力もプロアスリート級である。彼女の日本人離れした輪郭の整った美貌は成熟した魅力に満ちあふれていた。


「先生、これが現在までに協会から送られてきたデータです」

「ありがと」


 一姫は隣の席にいる秘書の月影ユリナからアイパッドを受け取ると素早く表示を動かして、おおよその詳細報告を頭に叩き込んだ。


 仮の養育者であった一姫はハルカの気質をよく理解していた。ハルカは探索者として才能がないわけではないが、いまひとつ伸び悩んでいた。現在はE級であるが、彼女の頑張り次第ではC級まではいくだろうと、一姫は推察していた。


 ダンジョンに潜り、素材や貴重なレアメタルなどの物資を発掘したり、人類の外敵にあたるモンスターを討伐することに秀でる探索者たちは極めて早熟だ。才能の開花が早い者ならば十代前半で、大人顔負けのスキルや魔術を難なく使いこなすのは珍しくもない。


 ハルカの実母は世界でも有数の魔術の使い手であり、その血は脈々と受け継がれている。惜しむらくは、自分が仕事にかまけて彼女の才能を引き出すために充分な時間が取れなかったことだろう。


 ハルカが探索者として生きると決めたのなら自分が口を挟む権利はない。ダンジョンに挑んで栄光の座を勝ち取るのも闇の中で惨めに骸を晒すのも彼女の勝手だ。


 だとしても、嬰児のころから15歳まで仮であっても親子として過ごした情愛を断ち切ることはできなかった。


「まったく、ロクに連絡も寄越さないで、心配ばっかりさせて、本当に」

 息子ひとりしかいない一姫にとってハルカは実の娘同然である。家を出て行ったとしても、愛情は変わらない。こうしていても、胸の奥がズキズキと痛み平静を保つことは困難だった。


 救助隊の使い魔はかなり優秀で、人員が現場にたどり着く前にかなりクリアな画像と動画データを録画することに成功していた。


「ああ、もう」

 知らず、呟きが漏れた。低層階でケルベロスが出現したのは現実となった。これにより、国や協会としては探索者の救出よりも排除が優先されるだろう。どちらにせよ、ハルカの生存率が酷く落ちたのは間違いない。一姫の表情に陰が差した。


「先生、お気を落とさず」

 事情を知っている秘書のユリナが言った。彼女は自分の感情を面に表すことは非常に少ない。しかし、実際は情の深い女なのだ。一姫がなによりも自分の家族を大切にすることを知っているだけあって、心を深く痛めている。それがわかったとしても、政治に携わる人間として、あからさまに私情を露にすることもできない。一姫は、無言のまま送られてくるデータにひたすら目を通した。


 一姫が手を止めたのは、アイパッドに転送された転送データの音声部分にあった。


「ねえ、この音、もっと鮮明にできない?」

「お待ちください」


 一姫の言葉を聞くとユリナは手にした端末に繋いだキーボードを猛烈な勢いで叩き出した。


 一姫が気になったのは、ハルカが配信中に落としたとされるスマートフォンから流れていた声であった。


 真偽は定かではないが、ハルカはCランクとされるミノタウロスに重傷を負わされながらも、なぜか生存した上でさらに厄介なケルベロスに襲撃を受けていた。


(おかしい。アレだけの手傷を負ってミノタウロスから逃げ出せたのが奇跡に近いっていうのに)


 SNSから抽出された情報によると、ハルカと会話している音声はダンジョンに絶対存在しえないはずの男性のものであるというのだ。


 現在、圧倒的に、女性よりも少ない貴重な男性が危険極まりないダンジョンに単独で潜るはずもない。


 そもそもが、探索者協会で正式に許可証を受けている日本国の男性は、一姫の夫とかつての救世主パーティーの生き残りである友人のふたりしかいないはずである。


 そう、ただひとりあの子を除いては。


「まさか、ね」


 ゾクリ、と一姫の背筋に冷たいものが走った。知らず、アップにした首筋に冷や汗がつ、と流れていた。


 その可能性は絶対にありえない。20年前、数えきれないほど枕に涙をこぼした。


 一姫のたったひとりの家族。

 地上でただひとりの血を分けた弟。


 仲間たちをかばって魔王を封印するために、たったひとりでマグマのあふれる地の底に落ちていった。


 この20年間、弟のことを忘れたことは、ただの一日もなかった。

 愛する人と結ばれて、その結晶を宿して、新たに産声を聞いた日でも、弟のことは夢に見た。


 故郷に墓だけは作った。祖父母と両親が眠るその墓石にはとうとう一度も足を向けることはできず、寺の住職任せにしている。あふれるノイズの中で一姫は強烈な違和感とデジャヴュを覚えたのだ。


「先生、できました」

「転送して」


 アイパッドにノイズを取り除かれたクリアな音源が送られた。

 即座に再生した。

 流れ出た声。


 10代と思しき、少年の声だった。


 記憶が瞬間的に蘇る。

 途端に、一姫は頭の中がカッと熱くなった。


「かっ――はっ」

「先生! どうしたんですか!」


 ユリナの声が遠い。同時に一姫は両眼がカッと熱くなって視界が歪みなにも見えなくなったことに激しく狼狽していた。呼吸が苦しい。激しく咳き込んだ。意識が遠のく。聞き忘れるはずがない。夢でもいいからと、願わなかった日はなかった。神に毎夜誓った。ただ一目でもいい。顔を、姿を見れたら、命と引き換えにしてもいいくらいに狂おしく望んだ。


「ああ――ううっ」

 ボロボロと涙が零れ出した。一姫は顔を両手で覆って、その場でしゃくりあげた。感情を止めることができない。


 なぜならば、その声は20年前に死んだはずの、実弟、坂崎竜斗の声に間違いなかったからだ。

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る