第02話 闇の中の男
座り込んで両足を投げ出している男の鼻腔がヒクと動いた。
どこか懐かしくある甘いような匂い。
「な、なんだァ?」
ほとんど反射的に立ち上がる。腰より下まで伸びた長髪が音を立てて地面を擦った。それは本能的なものだったのだろう。男の身に付けている衣服は毛皮で構成されており、伸ばしっぱなしの髪と髭に覆われ人相は判別できない。
しかし、それらから覗く瞳と鼻から類するすに、男は若かった。股間が激しく隆起している。数年ぶりだろうか。まったく使わない機能が自動的に反応していた。剣を鞘に納めると、落ち着かない様子であたりに視線を動かした。一日のほとんどを闇の中で過ごすために、男の瞳はわずかな光を逃さぬように進化していた。
それを求めて男は動き出した。
このあたりはヒカリゴケが異様に多い。男はダンジョンの最深部で気が遠くなるほどに過ごしてきた。それこそ、時間の概念が喪失するほどに。すべてのことが終わった後に、彼を待っていたのは永劫に続くと思われる闇と無数のモンスター。着用していた衣服は繰り返される戦闘と時間の経過で摩耗し、いま着ているのはかろうじて人間の尊厳を保てるだろうと思われる程度でしかない。
「いた」
そして男はついに発見した。闇の中でひと際強く輝く発光体。長らく、男が目にしていなかった文明の利器だった。
それよりもだ。
「人。しかも女だ……」
思わず声が震えた。どれほどぶりだろうか。自分以外の人間を目にしたのは。何年か何十年か。いまや、正確に思い出せない。
「うううっ。マジかよ」
ひとりの少女が岩壁に背を預けて目を閉じていた。凄まじい血臭が男の鼻を衝く。男が見るに、服装はこじゃれていて、着ている装備も洗練されている。
「お、おおお、オンナぁ」
よろよろと酩酊するかのようにフラフラと近づいてゆく。男は人差し指を虚空にかざすと念を集中した。
「ライト」
ポッと光の玉が現れ、あたりを埋め尽くす。普段では必要ない明り取りのための魔術だ。そもそも男は闇の中でも、自分以外の臭気や空気の揺れで相手の動きが読み取れるので、昨今まるで使わなかった術だが、いまこそは使うべきだと確信していた。
なんとも美しい女だった。肩にかかるほどのふわふわした髪に、伏せられたまつ毛と整った鼻梁。小さいが可憐な花の蕾のような唇は男にとって女を女神のように思わせるには充分だった。年齢はザックリ見てまだ十代だろう。てか、十代であってほしかった。久方ぶりに出会った美女が見た目と違うババァであることは断固として拒否するのだ。
「ってか、やば。スゲェ血だな。このままじゃ死んでしまう。いかん! 貴重な女が!」
男は少女の前にしゃがみ込むと脈を取った。儚く弱々しい。脇腹から凄まじい出血があり、少女の身体を浸している。
「待ってろよ。すぐ、治してやる」
男は魔術師だった。回復系統の魔術は不得手であったが、それでもよほどの重傷でない限り、命を繋ぎ止める程度の術は使用できる。女の負傷部分に手を当て、術を使った。男のヒールはたちまちに少女の傷をあとかたもなく掻き消した。再び脈を取る。
「よし、いいぞ」
力強い鼓動が戻っている。男はギラギラとした目で女を見やった。女はいまだ眠り姫のようにすうすうと規則正しく呼吸を続けている。
「い、いかん」
知らず、男の手は女の胸に伸びていた。かなり大きい。いまや男の股間はパンパンに膨れ上がり、毛皮を突き破りそうになっていた。
「し、紳士であるこの俺がなんという無様な真似を――」
はた、と気づいた。この格好はともかく、男の身体は異臭塗れだった。ずっと、それは長いことダンジョン暮らしだ。
「マズいぞ。いまの俺は塗れた野犬より100倍臭い」
獣でさえ、毛づくろいや砂浴びをするはずであるが、男は、もう長いこと肌を洗うことすら思いつかなかった。
そういえば、ここに来る途中でダンジョンでは珍しい地下湖を見つけた。水の補給だけは行ったが、そもそも洗うという概念すら欠損していた。男は背負っていたザックの底を急いで探った。
「あ、あった! 良かった!」
石鹸だ。一応と、ダンジョンに潜る前に姉に渡された用具一式に残っていたのだ。男は石鹸の入った小箱を掴むとグッとその場で自分の幸運に感謝した。
「第一印象って大事だしな」
それからくるりと振り返ると我が眠り姫に向かって声をかけた。
「ちょ、ちょっと待ってて。ちょーっとまだ起きないでくれよう」
そう言うと、男は急いで元来た道を疾風のような動きで駆け戻っていった。
湖に着くと、男は衣服を脱ぎ捨て手拭いを持って勢いよく水にダイブした。清廉な水の冷たさに目が覚める。
それから、男は石鹸と手拭いを使うと身体中の垢をこそげ落としにかかった。文字通り削るのだ。水浴をしないということには意味がある。肌に垢が地層のようにこびりつくと、それが一種の防護壁となりシラミやダニなどから身体を守ってくれるのだ。だが、いまやそんなことに意味は見い出せなかった。異性を前にすれば金科玉条のように守ってきた掟も糞以下の価値しかない。
「へっ、俺だってよう。こうすりゃあ、まだまだ捨てたもんじゃないだろ」
男はひとつしかない手鏡を引っ張り出すと、水浴を終えた自分を確認した。先ほど食った肉はすでに消化されて、排泄されたのでぽこんと突き出た腹は引っ込んでいる。上着代わりに来ていた毛皮は、水浴を終えたいまとなっては悪臭の元以外でしかないので直ちに捨てた。
「へ、へへ。ふへへっ」
ニヤニヤが止まらない。人間に、しかも若い少女に出会えたことも喜ばしいが、もっとも重要なのは、間違いなくいまの自分が人類が到達できる上層部分にまで戻れたという事実だった。
――帰れるのだ。人間の世界に。
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