ダンジョンで戦い続けて20年の童貞勇者、地上に戻ったら人口激減男女比1:1000の世界だった

三島千廣

第1章 「童貞勇者の帰還」

第01話 それは深淵からやって来た

 ダンジョンに雪が降るはずもない。だが、自分は確かにこの目で見ている。霜村ハルカは、背中にゴツゴツした硬い岩肌を感じながらやがて落ち来るそれらが低層階では珍しい独特なヒカリゴケの一種であることに気づき自嘲の笑みを頬に張りつかせた。


「あは、バカだなあ、わたし」

 魔獣の棲みかであるダンジョンではちょっとした油断が即座に死へと繋がる。脇腹に手をやった。ぬるりとした湯のような感触。ハルカは息も絶え絶えに、この数分間で自分の身に起こったことを振り返っていた。


 E級の探索者。

 それがいまの自分だ。それ以上でも以下でもない。英雄であった母の名を汚さぬように、才能のない自分は努力を惜しまなかったつもりだ。


 だが、実際はどうだ。現実を見れば、自分はダンジョン配信の途中で仲間とはぐれてしまい、さらにはこの低層階では出現しえない強力なモンスターの襲撃により命を落とそうとしている。


 思い出す。ハルカを襲っていたのは凶悪な獣人ミノタウロスだ。人知を超えた膂力と体力。人ほどもある巨大な戦斧を小枝のように扱う。養成学校で習った拙い剣術ではそもそも歯が立つはずがない。


(もっと、美味しいもの、たくさん食べておけばよかったなぁ)

 ハルカのふわふわな髪は汗と泥でくたくたになり、見る影もない。妖精かと見紛う優れた容貌も精気を失い、顔色は血の気を失って紙のように白かった。


「いたぁ」

 出血が酷い。手持ちのポーションも切れている。なにより、身体を動かそうにも痛みと疲労でロクに動かない。なんとか利き腕である右を動かすのが精一杯という体たらくだ。これでは走って逃げるという選択肢も取れそうになかった。


 目の前。わずか輝き。自撮り棒に固定されたスマホが「まだ生きている」証拠に強い光を放っている。そろそろと指を伸ばして自撮り棒を掴み、なんとかスマホを引き寄せることに成功した。


 そこには、いまだ電波が途切れていない奇跡によりリスナーからのコメントが延々と並んでいた。


 :やばいって!

 :え、これ、マジ?

 :ちょっと待って。いつものほのぼの配信とちゃうんか

 :公式に通報ゥ!

 :ちょ、ハルちん、血が

 :嘘でしょ!

 :やだやだやだ! け、警察、救急? どっち!

 :こんな上層階で事故?


「み、みんな、ごめん。ハルの……冒険……ここまでかも」

 それだけ伝えるのが限界だった。ハルカの手元からはやや型が古かったが大切にしてきたスマホが転がり、地面に落ちて鈍い音を発した。


(ああ、割っちゃった。買い替えるお金なんて、ないよう)

 できれば配信を続けてなんとか探索者学校を卒業したかった。


 ハルカには夢があった。輝かしい功績を上げてA級の探索者に成り上がる。そして、いつかダンジョンに消えていった母を捜し出すのだ。18歳のハルカは、二本立ての夢に挑むため努力してきたが、とことんツキがなかった。


「むり、かなぁ」

 成り上がって母を捜し出す。


 それから配信でボチボチお金を貯めて、小さなお店を開きたかった。業種はなんでもいい。喫茶店でも、花屋でも、雑貨屋でも。そして、叶うことならば、素敵な男性と知り合って、あたたかい家庭を――。


「それこそ、むりか」

 遠くから身も凍るような獣の雄叫びと轟くような地響きが聞こえる。アレはたいした時間を置かず自分を見つけ出すだろう。その先は目に見えていた。恐怖が迫る。ガチガチと歯が鳴った。身体の震えを抑えることができない。探索者の道を志した以上、こういった最期を迎えることは覚悟していたはずだった。


「や、だ」

 それでもハルカの意識の底に残っていたのは、犬猫のようになんとなく死にたくないという、誰もが抗えない原始的な望みであった。






「におうな」

 男は髪と髭に埋もれた鼻先を突き出すと、闇から漂って来る濃密なそれの臭気を嗅ぎ取り満面の笑みを浮かべた。


「何カ月ぶりの肉かな」

 肉が好きだ。魚肉が好きだ、豚肉が好きだ、羊肉が好きだ。

 そして――牛肉が好きだ。


 我、想う。肉を食うために人は生まれてきたのだ。特に牛肉は美味である。モンスターでもそれは変わらない。原種に近いそれは時として家畜の牛よりも肉の旨味を超えているケースが多々ある。男は、長きに渡るダンジョン生活でそれを知っていた。


「いた」

 距離を詰める。男は近づくにつれ、延々と続く闇の向こうに、好物であるミノタウロスの存在を確認した。


 ミノタウロスは牛頭に人の身体を持つ巨大なモンスターだ。身長は3メートルを超える上に、体重は800キロ超のものも珍しくない。両手には人間など一撃で真っ二つにしてしまいそうな戦斧を抱えている。


 普通の探索者ならば、ミノタウロスを見ればその場で回れ右して全力で逃げていることだろう。


 しかし、男は舌なめずりこそすれ、逃げる気配はなかった。通路のはるか先にいるミノタウロスを知覚すると、瞳を獣のように爛々と輝かせた。


「固有スキル――隠形」

 途端に、男の存在そのものが陽炎のように儚くなる。これは戦闘中に男が身に付けた敵におのれの存在を悟らせることなく近づくために得た特殊能力だった。

 距離は30メートル。


 通常ならば、ここまで近づいて気づかれぬ相手ではない。嗅覚も聴覚も犬以上に利くのがミノタウロスなのだ。強さで言えば、ダンジョンに巣食うモンスターではかなり手ごわい相手に分類される。


 だが、男からすれば食いでのある牛にしかすぎなかった。距離が縮まる。ミノタウロスから発せられる独特の臭気がさらに濃くなっていくのを感じ、男は愉悦の表情を抑えることができなかった。


 ――もう、我慢できねえ。

 男の動きは俊敏だった。ミノタウロスの無防備な背後から忍び寄ると、鞘から抜いた長剣を素早く脇腹に突き刺した。


 ミノタウロスが絶叫を上げる。男の長剣は鍔元まで埋没すると動きを止めた。ミノタウロスに刺さった長剣は左脇腹から右胸まで貫き切っ先が覗いた。


「燃えろ」

 同時に炎熱の呪文を唱える。剣先から出現した強大無比なエネルギーがたちまちにミノタウロスに移って焼き尽くす。


「おっとお、焼きすぎ注意、と」

 だが、ここで焦ってはいけない。貴重な肉なのだ。火加減はほどほどに。骨まで焼いてしまえば、炭になってしまう。脇腹から剣を引き抜く。A5ランクに相当する牛肉を焼きすぎるなんて、神に対する冒涜だ。


 男は暴れるミノタウロスをうつ伏せにすると両脚で踏みつけ大地に固定した。それから長剣を背中から差し込んで再び魔術で炎を送る。相当な体重差があるというのに、ミノタウロスは男を弾き飛ばせない。いかなる秘術か男のほうが技量は上だった。


「イキのいいやつだ」

 ミノタウロスは内から焼かれながら、絶叫をほとばしらせて巨体を狭苦しいダンジョン内にうちつけ七転八倒する。


「どうどう。暴れんな。いま、美味しく焼いてやっからよ」

 男は顎鬚にまでよだれを滴らせながら、ほどよく焼ける肉の匂いに鼻腔をヒクヒクと動かした。


「よっしゃあ。サーロインステーキ一丁あがりじゃい」

 男は仰向けになったままぶすぶすと煙を上げるミノタウロスの解体にかかった。こういうことは手慣れていた。


「そんじゃあ、大地と迷宮の恵みに感謝して、いただきます、だ」

 男は落としたミノタウロスの首を眼前に据えてあぐらをかき、解体した肉を貪り出した。血がまだ滴るステーキ肉だ。


「がるるるっ。うまうま」

 男は分厚く頑丈な歯を使って脂肪と赤身の部分を喰らうと、残った骨を丁寧に噛み砕いた。オオカミが獲物の小骨をかじるように、男は骨をすり潰すと中にあるジューシーな髄液を啜った。


 食事は速やかに終わった。可食部のいい場所だけでも100キロ近い。男が喰らったのは、その数分の一である10キロ程度だろう。男は半裸であった。上半身は仕留めた獣やモンスターの皮をなめした毛皮を引っかけている。身長は180近いだろうが、ガリガリに痩せていた。その腹だけが、いましがた喰らった肉でパンパンに膨れて突き出ている。食料の少ないダンジョンで生きてきた「喰える時に喰う」というルールを実践したまでだった。


 残りは炎の魔術で水分を飛ばして保存食にする。満腹の後での作業は億劫であったが、食料の保存は生死に直結する。

「ふぅ、食った食った」


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