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 琴子は地面に膝をついたまま、ぴたりと動きを止めた。振り向きたくない意思に反して、壊れたからくり人形のように、琴子の首は声のしたほうへとゆっくり向けられていく。


「我が手を貸してやらねば頭がかち割れていたぞ。王国の者であれば、そうしていたが」

「……」

「やはりその顔立ち、よそ者であるのか。一体どこからこの森へ迷い込んだか」


 この森に来て、最大の恐怖と危機が今、琴子に迫っていた。目の前に、見たこともない恐ろしい生物が――浮いている。


 琴子の顔よりもひと回り大きいくらいの、丸い生き物だった。全身に深緑色の太い毛が生えていて、血走った大きな目玉がふたつと付いている。手足は今のところ見当たらない。地に足を着けず、羽もないのに宙に浮いているのだ。

 明らかな異形であった。それでいて、異形は、流暢に人の言葉を喋っていた。


(なんだ、これ)


 ぞわりと全身に寒気が走る。


(危険だ。逃げなきゃ。早く、どこかへ)


 この森では生物にとんと出会わなかった。熊にも、狼にも、毒蛇にも、もちろん人間にも、危険な生物には出会わず、だから琴子にはこの世界に来てから他者への危機感が薄れていた。

 しかしここに来て、初めて“襲われる”という恐怖を感じた。対処しなければ、きっと命はない。しかも相手は自分の知識の中にはない生物であるのだ。何をされるかわからなかった。


(逃げなきゃ)


 頭では、そう思うのだが。足に力が入らず、立ち上がることができなかった。琴子が震える足で何度も土を蹴る間にも、緑色の異形は琴子のそばへと寄って来る。


「……何ゆえぬしは。ふむ」


 ぎょろりと大きな目玉が、一周回って琴子の全身を捉えた。まるで見定めているかのようであった。

 次の瞬間。緑の毛の中から、にょきりと二本の腕が生えた。

 琴子は失神寸前だった。むしろ気を失いたいと思っていたが、すんでのところで意識を保っていた。

 意識を手放さずにいることのみで精一杯であり、異形の腕に捕らえられるのを、避けることはできない。

 体が宙に浮き、景色が流れる。

 木の枝のような腕に抱えられ、琴子は緑色の異形の生物と共に森の中を滑空していた。

 琴子の頭の許容量はとうに溢れてしまっていた。暴れて逃げるという考えにもすでに至らず、されるがままどこかへと運ばれながら、けれど収穫したりんごだけは離さず抱え続けていた。


「ぎゃっ!」


 やがて異形はふいに滑空を止め、琴子を地面へと落とした。

 ぶつけた尻を撫でながら顔を上げると、そこは子どものいる巨木の前であった。


「も、戻って、来たの……?」


 子どもは琴子が離れたときのまま眠っている。

 肩が微かに動いているから、まだ生きていることがわかる。


「森が元に戻ったからまさかと思えば……この封印を解くものがいるとは。本当にぬしが」


 異形は大きな目を気持ち悪く細め、琴子を見ていた。


「封印?」


 琴子が眉をひそめると、異形の目が子どもへと向けられた。

 琴子はハッとして、地べたを這い子どものもとへとすり寄った。細い小さな体を振るえる腕で抱き締める。


「あ、あんた、わたしたちを食べる気?」

「我は人など喰わぬ。下等な魔物と一緒にするな」

「ま、魔物?」


 さらにきつく、隠すように子どもを腕の中へ閉じ込める。

 異形は表情のない大きなふたつの目玉で子どもを見つめたまま、低く割れた声で言う。


「人の娘よ、ぬしに感謝する。ぬしのおかげで<蒼穹そうきゅうきみ>を癒すことができる」

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