-7-

「人の娘よ。盗みはならん」


 声がして、ぴたりと動きを止めた。

 体の動きが止まるのと同時に、心臓すらも一瞬止まったように思えた。

 止まった心臓がふたたびばくりと鳴り出すのと同時に、全身がざわりと騒ぎ出す。


(あれ? 今、声がした? どこから? 誰が?)


 いや、誰の声も聞こえるはずがない。先ほどの子どもがようやく見つけた自分以外の人間なのだ。だがあの子どもはとても立ち上がり声を発せられる状態ではなかった。

 そもそも、琴子は今、高い木の上にいるのだ。このような場所で、すぐそばから人の声が聞こえるはずもない。

 きっと気のせいだと、琴子は考えた。

 言い聞かせるように頷き、枝から身を乗り出す。しかし。


「人の娘よ」


 がさついた声が確かに聞こえ、振り返った。

 琴子は今度こそ、胸の鼓動が止まるのを感じた。


「その実は我の木に生る実だ。分け与えることは拒まんが、無断で取るのはならん」


 喉の奥に空気を吸い込む音を聞いた。けれどその空気が声となり吐き出されることはなかった。あまりの驚きに、琴子は叫ぶことすらできなかったのだ。


 気がつくと、世界がゆっくり動いていた。

 離れていく木の肌。茂緑を背景に、宙を掴む自分の両手と、置いていかれるように流れる黒い髪の先。

 手足を滑らせ木から落ち、地面に向かうまでのほんの一瞬が、琴子にはとても長く感じていた。

 映るものすべてが鮮明に、緩やかに見えていたのだった。

 だがすでにどうすることもできない。先ほど見た地面との距離を思い出し、死ぬのかなあ、と、まるで他人事のように、案外のんきに思った。


「わっ! うお! 痛っ!」


 しかし琴子の体は、地面に衝突する前に跳ねた。

 空中で、何かに弾かれるように二回跳ね、尻から地面へと落下する。

 どて、という間抜けな音と共に臀部に鈍痛が走った。


「いたたた……」


 尻から爪先、頭の先へしびれが響く。だが、痛みがあるというのは、生きている証拠であった。


「え、あれ?」


 悶えながら押さえた尻には青あざでもできているだろう。しかしそれ以外に怪我をした場所はなく、両の手のひらをぐっぱと握ったり開いたりしてみたら、なんの問題もなくしっかりと動いた。

 あれほど高い場所から落ちたにも関わらず、尻を強かに打ちつけただけで済んだのだ。


(……何があった? なんでわたしは無事でいる?)


 この世界に来て、空腹を感じないばかりか、死なない体になってしまったのだろうか。切り傷や擦り傷はごく普通にできていたから、怪我をしないわけではないはずだが。


(そもそも……なんだか、とても不思議な現象が起きた気がする)


 琴子は、空中で柔らかい物に当たった気がしたのだ。それに二度ほど当たって跳ねたおかげで、地面へ落ちるときの衝撃がやわらいだのだろう。

 しかし見上げても、当たったのであろう柔らかそうなものなどどこにもない。


(いや、そんなことより、今は)


 琴子は自分が木から落ちる原因となったものを思い出した。

 せっかく無事に地面に着けたというのに、あんなものに襲われては堪ったものではない。早く逃げなければ。琴子はそう思ったが、琴子が立ち上がるのよりも先に、背後から声がかかる。


「ぬし、それほど高い魔力を持っているくせに、落下から身を守る程度の魔法も使えぬとは」

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