【第一部】
異邦人と名無しの子
-1-
ずっと誰かを探し続けていた。自分の呼吸しか聞こえない緑深い森の中を、誰かの声を探し、どこまでもひとりさまよい歩いた。
背の高い木々が鬱蒼と生い茂る広い――本当に広大な、果ての見えない――森だった。頭上にあるはずの空は緑に覆い隠されていて、時折細切れになった光が地上に届くほかは、辺りは常に薄暗い。
――ザッ、ザッ、ザッ……
幹の隙間を縫い、岩のような根を乗り越えて歩いた。真っ直ぐに進むことはできず、すでに自分がどこから来たのかもわからない。
足音は鈍く響いた。時折腐った葉を踏んで、靴の裏から嫌な感触が伝わった。
とても静かだった。鳥の鳴き声すら聞こえない。どこまで歩いても生き物の気配を感じないのだ。これほど植物が立派に成長している森でありながら、動物も、鳥も、虫も……もちろん人間も、どこにも見当たらない。
(まるで、この広い世界の中で、呼吸をして心臓を動かしているのがわたしだけみたい)
ここは異様な空間だ。何かがおかしい。
けれどそのうち気がついた。今この場所においておかしいのは、自分のほうであるのだと。この森においては、琴子が存在していることこそが普通ではないのだ。
(異様なのは、わたしだ)
おそらくすでに一週間。
この森をさまよい続けて、八回目の陽の光を見ている。
琴子は、この森へやって来た覚えなどまったくなかった。
日々変わることのない平凡な日常を過ごしていたはずなのに、ふと気づいたら、一面の森の中にひとり立っていたのだ。
あまりにも唐突で突拍子もない出来事に、しばらく放心していた。そのうち大きく鳴り出した心臓の音で我に返って、とにかく誰か、人を求めた。この状況から抜け出させてくれる人を。答えを知っている人を。助けてくれる人を。
けれど叫んでも返ってくる声はなく、感じるのはあまりに生々しい風の感触と、濃い緑の臭いだけ。
琴子がこの森でどうにか生きてこられたのは、生き物がいない――つまり襲ってくるものがいないことと、なぜか空腹も喉の渇きもまったくもって感じることのないおかげだった。
長くはない距離を……時間をかけて迷い、考えて、気づいた。
この森は確かに琴子の知らない場所である。だがそれだけではない。本来ここは、琴子がいるはずのない場所なのだ。いてはいけない場所なのだ。
この森は……いや、この世界は、琴子が生きていた場所とは違うのだと。
夢であればと何度も願った。夢であること以外考えられなかった。
夜が来ると、高い木に登って木の股で膝を抱えながら、きっと目を覚ますときは家の温かい布団の中だと信じながら眠った。
朝になって目覚めたら、まだ木の股で膝を抱えている自分を見て、そのたびに頭痛がした。
――夢じゃない。
(……どうしてこんなことになったんだろう)
途方もない疑問だった。誰も答えを教えてはくれない。
いや、そもそも琴子は答えを求めていたわけではなかった。家に帰ることさえできるのならば、理由などどうでもよかった。
早く帰りたい。退屈で仕方なかった日々に。
社会に出て三年、いつまで経っても慣れない仕事と、寝るだけの場所だったひとり暮らしの家。楽しい日々ではなかった。それでも、帰りたい。たまに会っては笑い合う友達と、時々電話をくれる家族がいる、あの場所へ。
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