1-1-20.四月十六日⑧

――疲れた。こんなに長い時間 気を遣い続けたのは初めてかもしれない。気の緩みからか、最後の方はせっかく作ったお淑やかキャラの仮面も外れていたように思うし。


 一紀かずきくんやご両親に警戒心を抱かなかったのは、恐らくわたしがそうであってほしいと強く望んだからだ。わたしは彼ら家族を、理想の家族とみなしている。

 もちろん、わたしはお父さんだけの家庭で不幸だったとは思わない。大変なことは確かにあったけれど、幸せではあった。お父さんだって、お母さんのこと以外はわたしを大切にしてくれている。

 だけれど、もしわたしにお母さんがいたら……そんなことを思ってしまった。これまでもそう思ったことは全くなかったわけではないけれど、それはもし空を飛べたならというような、現実味のない空想でしかなかった。でも、今回は違う。もしお母さんがいたなら、わたしは一紀くんと付き合ったのだろうか。そもそも翠泉すいせんに入っていただろうか。こんな薄情な人間ではなかったんじゃないか。わたしの人生を逆算的に辿り、わたしの人生はなるべくしてこうなったのだと強く実感した。実感せざるを得なかった。これがわたしなのだと。お母さんのいないわたしこそ、わたしなのだと。


 だから空想に憧れるのはやめて、彼のことを考えた。彼は今、何を考えているだろう。今日わたしと関わって、何を思っただろう。

 彼の両親と接し、話して、わたしの行いがいかに罪深いのかを突き付けられた気がした。一紀くんさえ受け入れてくれればそれでいいと思っていた。だから、彼の家族のことなど考えもしなかった。そこに思い至れなかった。かと言って、後悔しているわけではない。これからは、もう少し視野を広く持たなければいけないという自戒だけだ。彼との関係を考えるうえで、わたしと相手だけではなく、もっと広い範囲まで巻き込むのだと、わたし自身が理解しなければいけない。今までとは違うのだと。



 少しぼうっと頭の中を整理していたわたしは、シャワーを浴びてベッドに寝転がる頃には、ぐちゃとぐちゃとした思考がもうすっかり落ち着くところに落ち着いていた。


 一息ついてスマホの画面を見ると、メッセージの通知が表示されていた。届いていたメッセージは、添付ファイルが付けられただけで本文はなし。差出人から用件はわかるとは言え、フィッシング詐欺みたいだから何かしら本文を書いてほしいとあれほど言ったのに、何も変えてこないのはなりの嫌がらせなのだろう。


 早速ファイルを開いてみれば、池田いけだ一紀という人物の来歴が詳らかに記されていた。概ね本人やご両親から聞いていた通りで間違いない。

 両親を含めて特別不審な点は見当たらない。ごく普通の経歴と言える。異質なのは、やはり“あにまる保育園”の出身であることと、例のお姉さんの事件くらいだ。しかしその事件後も、これと言って社会的生活に支障があったわけではなさそうだ。不登校になったわけでもなく、何か事件を起こしたわけでもない。交友関係が狭かったのは、本人の気質にも多少の原因があるように思われる。仮にその事件がなかったとしても、社交的だったかは何とも言えないから。


 ただ学校生活の様子が記された箇所で、気になることが書かれていた。高校生の時に一度、同学年の女子生徒とトラブルになったことがあったらしい。そこまで大ごとには発展しなかったが、一紀くんがその女子生徒にストーカー行為をしていたとして注意を受けた、というものだ。

 これは本人の弁解を聞くまで判断を保留にした方がいいだろう。一紀くんのような子だと、この女子生徒に嵌められた可能性も否めない。というか、そんな場面が容易に想像できる。何か彼女の反感を買うようなことをしたのかもしれない。……一紀くんには申し訳ないが、そんな様子も目に浮かぶようだ。


 そしてもう一つ。小学生の時、学校帰りに大けがをしたことがあったそうだ。血だらけで帰ってきて、本人はけがをしていたことにすら気付いていなかったようで、何があってそうなったのかは不明だったらしい。医師の見解では、打撲のような箇所もみられたことから、転んだのでは? と片付けられた。これ以降も、けがをすることは度々あったが、誰かに指摘されるまでけがに気付かないということが多かったそうだ。

 これはどういうことだろう。痛覚が鈍い、ということだろうか。時系列的に、引越しはこの大けがのすぐ後だったようだ。両親だけが察している何かがあったのだろうか。しかし転校はしていない。ということは、学校絡みではない。この引越しは、本当は何が理由だったのだろう。


 わたしは彼に追加で調べてほしいことを依頼すると、追加依頼は別料金だとメッセージが返ってくる。相変わらず面倒くさい奴だ。

 すると、メッセージを打っている途中で電話がかかってきたので、思わず電話に出てしまった。こんなこと、この間もあった気がする。


「もしもし?」


『遅くにごめんね、しーちゃん』


 電話の相手は深夜だということを考慮してか、少し抑えたトーンで話す。そうでなくても彼女の声は小さいのだが、幸い深夜ということもあり、周りも静かだったのでよく聞き取れた。


「ううん、大丈夫。どうしたの? 何かあった? 離婚の危機?」


『もう、そんなんじゃないよ~』


 なんて言う声音から、彼女の口元が緩んでいるだろうことが窺える。誰かさんと違って、彼女は相変わらずわかりやすい。


『うちの旦那がまた面倒くさいこと言ってたでしょう? 私から言って調べさせておくから、気にしないでね』


「ありがとう~! 本当、マユはできた奥さんだよね~」


『その代わり!』


 珍しく交換条件を出されたことで、思わず息を飲んだ。彼女がそんなことを言い出すなんて、今までにはなかったことだ。結婚して、彼に似てしまったのだろうか。だとしたら悲しい。早く別れるべきだ。しかし、そんな心配は杞憂だった。


『今度、一緒に遊びに行かない? 久しぶりに』


 遊ぶのもそうだが、彼女と直接会うのも久しぶりだ。何せ最近まで彼と一緒にアメリカに居たのだ。結婚式もアメリカで挙げて、さすがにわたしもアメリカまでは行けなかったから結婚祝いだけ送ったけれど、直接会うなら改めてお祝いしてあげたい。


「え~全然いいよ! でも大丈夫なの? 過保護でおっかない旦那さんに文句言われない?」


『過保護なのはそうだけど、基本的に私の言うことにダメって言わないから大丈夫だよ~』


 随分と溺愛されているようだ。いや、この二人の関係は、私から見れば“異常に妻を溺愛する旦那と異常に旦那に依存的な妻”というように見えるのだが、それが愛なのだと言われればそうなのだろうと思うしかないのである。

 ただ彼女とは中学から、彼とは高校から同じ学校、同じクラスで過ごした仲なので、そうなった経緯も大方理解しているつもりではある。が、これを愛と呼んでいいのかは正直わたしには判断が付かない。当人たちが幸せそうなら、それでいいのだろう。


 わたしもちょうど彼女と話したいと思っていた。彼女も真っ当な愛を知っているとも思えないのだが、それでも結婚という愛の形を選択し、彼を愛し、彼に愛される関係を築いた。そんな彼女から得られることは、決して少なくはないはずだ。


「土日だったら基本的に空いてるけど、平日の方が良ければ相談ってことで。予定はマユの都合で決めていいよ」


『じゃあ、来週の日曜日でも大丈夫?』


「三十日?」


『うん』


「うん、大丈夫。いいよ」


『ありがとう! 場所はまた連絡するね』


 それじゃあ旦那にはちゃんと言っておくから、おやすみ、と言って通話が終わった。少し駆け足で話を閉めたように思えたけれど、電話の後ろの方で過保護な旦那さんが、いつまで話してるんだと不機嫌になっているのが聞こえたから、たぶんそのせいだろう。どうせ構ってもらえなくて寂しいから不機嫌になったんだろうから、わたしとの通話を切れば彼の機嫌も戻るはずだ。

 これで後は、彼からの再びの調査報告を待つだけだ。


 色々と情報が集まってきている。明日はしゅうくんのところに行く日だし、彼にも話して情報の整理をしないとな。

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