1-1-19.四月十六日⑦
助手席に座ってシートベルトを締めたわたしは、ざっくりと家の場所を
「
お父様は車を発進させるなり、そんな切り口から話を始めた。
「大学に入って早速 彼女ができたなんて言い出した時は、都合のいい男にされているだけなんじゃないかと心配だったんだ。これまで恋人の一人もできなかった子が、女の良し悪しを見極められるはずもない。悪い女に騙されていないといいが……と思っていたんだ。だから正直、君のことも最初は疑っていたよ。申し訳ない」
「いえ、いいんです。確かに、タイミングがタイミングですからね。そう思われても仕方ないとは思っていましたから」
実際、彼を利用しているだけの悪い女なんですよね、わたし。まさにお父様が想像している通りの。かといって、そんなことは口が裂けても言えない。何だかんだ言ったって、やはり親というのはいくつになっても自分の子どもが大切なのだ。自分の息子を
「でも君みたいないい子なら安心だよ。さすがは
「放っておけなかったんです。仰る通り、彼は悪意に慣れていない。それを見極める術も、それと上手く付き合っていく術も身に付けていない。見ていて危なっかしい。でもそれが、彼の優しさを形作っている部分でもあると思うんです。だから悪意に触れて、彼を歪まされたくなかった。母性本能、みたいなものなんでしょうかね」
たぶんこれは、わたしの本心に近い部分。彼を放っておいてもわたしは困らなかった。それでも放っておかなかった。まあ、わたしは本質的に彼のような子を好むというのもあるかもしれないけれど。
「君と出会って一紀は変わった。どうも昔からぼんやりしているところがあって、あまり感情を表に出す子でもなかったんだ。だからか周りとも上手くいかないみたいで、友達も多くなかったのだと思う。それでもあの通り、学校にはちゃんと行くし、大学まで進学もした。歳を重ねるにつれて徐々に明るくはなっていったが、あんなに
わたしは一紀くんに対して、ぼんやりしているとも、暗い感じがあるとも思わなかった。お父様の言う通り、それだけ彼は変わったのだろう。自分を変えたのだろう。
「だからすぐにわかったよ。恋人でもできたのかって。もし君が恋人でなくて友達だったとしても、一紀は変わっていたと思う。君に出会えたことそのものが、きっとあの子にとっては運命だったんだと思うよ」
「運命、ですか……」
彼の価値観の根底には、やはりあのお姉さんがいて、それがずっと彼を育ててきた。そして恐らく、わたしという存在と出会って、彼はあのお姉さんの時と同じくらいに自分を揺らがされている。それが彼にとって良いか悪いかはまだわからないが、そういう意味では、確かに運命と言えるのかもしれない。
「ああ、ちょっと大げさに言っただけだから、そんなに重く受け止めないでね。とにかく私は、君に感謝しているんだよ。志絵莉さんが一紀に出会って、関わってくれたことで、何か良い方向に変わってくれるんじゃないかと、そんな気がしてならないんだ」
「まあ、わたしが本当にいい女かどうかは、一紀くんが決めることですからね。それに、わたしたちの今夜の様子を見て、付き合い始めて三日目の間柄とは思えない、と思ったと思うんです。たぶんわたしも一紀くんも、どこかおかしい。だからこそ相性が良いのかもしれませんけれど、この先を共に過ごしていくためには、そのお互いのおかしい部分を知って、受け入れて、時には直していかないといけないと思うんです。だからわたしは、彼にはもっと変わってもらうよう求めることもあると思います。わたしが彼を、さらにおかしな方向へ変えてしまったらごめんなさい。だけれど少なくともわたしは、彼にとって良い結果になるよう変えていきたいとは思っていますから」
気付けばわたしは、さっきまで被っていたお嬢様の皮を脱ぎ捨てて、すっかりいつもの“
だからか少しだけ、お父様の返事に間があった。単に左折することに集中していただけか、それとも何か思うところがあったのか。わたしはまだお父様のことをよく知らないから、彼が何を思っているのか推察することはできなかった。
「……なるほど。一紀が君を面白い人だと評していた意味が少しわかった気がするよ。確かに君は面白い人だ。ああ、なるほどなぁ」
一人で何かに納得しているようだが、わたしにはそれが何なのかわからない。というか、一紀くんがわたしを面白い人だと評した意味とやらを、わたしは充分に理解できていない。お父様は親子だからこそわかったのかもしれないが、わたしはどちらかと言えばそちらの方が知りたい。
「いや、すまないね。船迫で暮らしていると、超が付くほどの名門お嬢様校の翠泉学園グループは意識しない方が難しいからね。我々一般人には手の届かない、雲の上に咲き乱れる神秘の花園だと、地元の男たちには言われているんだよ」
そうだったんだ。通っている当事者からすれば、そんな神格化するほどでもないと思うんだけれど。まあ、変なところも変な人も多いと言えばそうなので、一般人には手が届かないというより、一般人が実態を知ればドン引きする、というのが正しいように思う。
しかしながらその実態を知らない人たちからすれば、翠泉のお嬢様は花園で優雅にティータイムを過ごすようなどこぞの国のお姫様たちか何かだと思われているのだろう。こうして初めて同年代の子の親と話してみて、そう実感した。
「だから実は私も、翠泉のお嬢様と話してみたいと若い頃は思ったものでね。それが図らずも今こうして叶ったことが、実に感慨深くて」
「話してみてどうでした? ご想像とは違いましたか?」
わたしの問いに、お父様は苦笑する。長年密かに抱いていた夢が叶ったというのに、そこには感動よりも、納得と自嘲と、少しの諦観があるように思えた。
「期待以上だったよ。本当に、よく一紀なんかを好きになってくれた、と思うくらいに。親の私が言うのもなんだが、一紀は君に釣り合わないだろう。それでも君があの子の傍に居ても良いと思ってくれたなら、ぜひそうしてあげてほしい」
「大丈夫です。一紀くんはああ見えて、ちゃんとわたしに釣り合いますよ。未来がどうなるかはわかりませんけれど、少なくともわたしは、そうなるといいなと思っています」
「ありがとう。母さんも言っていたけれど、何か困ったことがあれば何でも頼ってくれていい。遠慮はしないで、自分の親のように思ってくれていいんだ。結果として君と一紀が結ばれなかったとしても、私たちは君を責める気もないし、後悔もしない。だから気軽に何でも相談してね」
いつものわたしなら、無償の善意など信じられないし、受け入れなかった。言葉は今は本心だとしても、心変わりすれば簡単に反故にされる。だから善意を受け入れるということは、後のリスクになる。そして善意が大きければ大きいほど、リスクは増大する。
けれども、一紀くんやそのご両親には、不思議とそうした警戒心が働かなかった。
「ありがとうございます。あ、ここで大丈夫です」
アパートの前に車を止めてもらい、改めてお礼を言って、車を降りた。
現在時刻は夜の十一時半過ぎ。だいぶ遅くなってしまった。
わたしはお父様の車に一礼して見送ってから、アパートの外階段を上がって部屋の鍵を開け、部屋に入ってすぐに鍵を閉めた。そうして荷物を放り、靴も脱がずに玄関にへなへなと座り込んだ。
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