1-3-20.四月二十九日⑤

 先にお風呂を出て髪を乾かしていると、少しして一紀かずきくんもお風呂を上がったようで、所在なさげにわたしの後ろに立ち尽くしてしまっていた。わたしが貸してあげた服は、やっぱり少し小さいみたいだったが着れてはいるようだ。

 そんな彼を呼んで、せっかくだから顔に化粧水を塗りたくってやる。無抵抗にされるがままになっている彼は、本当に可愛らしい。たぶん、何をされているのかもよくわかっていないだろう。だけれどわたしを信用して、身を任せてくれている。本当に、愛らしい。


 それから洗濯機を回して、一紀くんの服だけでも乾燥機にかけてしまおうと思っていた。それなら一紀くんも、明日はそれを着て帰れるだろう。


「なんか、全身から志絵莉しえりさんの匂いがして……落ち着かないですね」


「そんなこと言ったら、もっとわたしの匂いがするところで寝るんだけど、大丈夫?」


「どこで寝かせるつもりなんです?」


 そこ、とベッドを指さすと、一紀くんはその意味をきちんと理解したらしく、またも顔を真っ赤にした。


「志絵莉さんも、ベッドで寝るんですよね?」


「そうだよ。二人くらいなら入れるでしょ、たぶん」


 そういう問題じゃ……と項垂れる一紀くんは、普段ならきっと何かしらの屁理屈でわたしを諦めさせようとするけれど、今日は違った。彼も普段なら隠してしまう、押し殺してしまう本音を、少しずつでも伝えてくれるようになったのだろうか。


「緊張して、眠れないかもしれないです」


「大丈夫、お姉さんが優しく寝かしつけてあげるから。これでもわたし、つい最近まで保育園に実習に行ってたんだよね」


「全年齢対象版のお姉さんで、お願いしますね」


「それは、一紀くん次第かな」


 するとついつい風呂場での行為を思い起こしてしまい、照れ臭くなって視線を逸らした。ちらと横目で彼の方を見れば、彼も気恥しそうに俯いてしまっていた。

 いつの間にか雷は鳴り止んで、雨風ももうすっかり弱まっていた。だからか沈黙してしまうと、無性に心臓の音が大きく聞こえる気がする。そんな気がすると、余計に緊張して逸ってしまう悪循環。


「体調の方は、どうですか?」


 一紀くんが沈黙を破ってくれたおかげで、少しだけ心が休まった。少しずつペースを戻して、いつも通りに戻りたい。変に緊張し続けるのはどうにも居心地が悪いから。


「ああ、うん。だいぶ良くなったよ。おかげさまで」


 まだ熱は測っていないけれど、恐らく熱も下がっているだろう。身体の怠さもないし、頭痛も消えていた。お風呂でゆっくり温まったからかもしれない。


「ああ、そうだ。わたし、明日用事があって出掛けるから、一紀くんが起きた時にもういないかもしれないけど、心配しないでね」


「え、そうだったんですか。そういうの、先に言っておいてくださいよ」


「先に言ったら今日泊まっていってくれなかったでしょ?」


 わたしはクローゼットの中をごそごそと漁り、お目当てのものを見つけて彼に渡す。


「出る時に鍵だけ閉めておいて。あと、これは持ってていいから」


「はい。ありがとうございます……?」


 わたしの家の鍵を渡されたことに、どう反応していいかわからないようだ。これを渡した意味を、彼はわかっていないのかもしれない。それならそれで別にいいんだ。彼はきっと、これを変な意味に捉えないとは思っていたから。


「さて、そろそろベッドに入ろうか。どうせすぐに寝られないだろうし」


 わたしは一紀くんをベッドに追い立てて、彼を壁側に寝かせ、その隣にわたしも寝そべる。一人で寝るよりは狭いけれど、一人で寝るより温かい。

 誰かと寝るなんてことも久しぶりだ。もう何年一人で寝続けてきたことだろう。お泊り会なんてものもやってこなかったし、お父さんと一緒に寝なくなってから、ずっと一人だ。


 枕は一つしかないのでわたしが使わせてもらって、一紀くんにはクッションを使ってもらうことにした。


「ああ、なんか……幸せですね。志絵莉さんの匂いがする……」


 なんて、一紀くんは布団に顔を押し付けて匂いを嗅いでいた。それを幸せだと言ってくれるのは嬉しいけれど、恥ずかしいからあまりそういうことをしないでほしい。


 おいで、と促すと、一紀くんはわたしに抱き着いてきた。わたしの首元に顔を埋めて、ぎゅっと身体を密着させる。彼の温かな体温が、触れた肌を通して感じられる。

 わたしは彼の頭を撫でながら顔を上げさせて、唇を奪った。触れるだけじゃなくて、犯すように舌を捩じ込んで絡ませる。もう寝るというのにこんなこと、しかもわたしの方から仕掛けるなんて、良くないとは思っている。だけれどやめられない。彼とこうして口付けを交わしていると、頭の中がふわふわして何も考えられなくなる。ただただこの時間が永遠に続けばいいと思える。この感覚は、クセになる。

 すると一紀くんが、彼とわたしとの間に手を差し入れる。わたしがあまりに強引に口付けを迫るもんだから、嫌がられて抵抗されるのかと思いきや、その手はわたしの胸を包み、優しく揉みしだき始めた。ブラ越しでは触っても大して面白くないだろうに。わたしはブラをずらして、彼の手をシャツの下からその中へ誘い込む。一紀くんの手が直に肌に触れると、付け根から先端まで満遍なく弄ばれて、互いの体温が上がっていくのがわかる。


「さっきしたばかりなのに、元気だね」


「……志絵莉さんのせいですからね」


「嫌だったら嫌って言うんだよ?」


 そう言っても、彼は嫌とは言わない。だからわたしも止まらない。もちろん、二人の間で決めた約束は破らないけれど。それでも、まだ夜を終わらせたくないと思った。身体を触れ合わせて、互いの体温を感じていたいと思った。


 まさかこのわたしが、こんな風に他人に傾倒するとは思わなかった。今更 彼と離れられる気はしない。もうわたしは、彼無しでは生きていけないだろう。それほどまでに、わたしの心は彼で満たされていた。わたしから彼を奪おうとするものがいれば、きっとわたしは全力でそれを排除するだろう。どんなことをしても。



 ◆◇



 翌朝目が覚めて、隣を見れば、一紀くんはまだ静かに寝息を立てている。穏やかな寝顔をこちらに向けて、赤子のように腕を縮こまらせている姿は何とも愛らしい。だけれど、わたしもいつまでもこれを眺めているわけにいかない。


 彼を起こさないようにそっとベッドから出て、出掛ける準備を始めた。寝る前に乾燥機にかけておいた彼の着替えはちゃんと乾いていて、畳んでテーブルの上に置いておく。そうだ、彼が今着ている服は洗濯機に入れておいてくれればいいとメモを残しておこう。書いていたら他にも伝えたいことがたくさん浮かんできて、メモというよりは手紙になってしまった。


 わたしの準備が整っても、彼は相変わらずベッドで眠ったまま。息はしているようだから大丈夫か。わたしの匂いがして幸せだ何だと言ってはいたが、自分の家とは違うわけだし、昨夜はあまり寝られなかったのかもしれない。ずっと気を遣っていて疲れてしまったというのもあったかもしれない。

 昨夜は少し調子に乗り過ぎたかもしれないな。弱っていたせいか、あまりに思慮が足りなさ過ぎた。彼にもたくさん迷惑をかけただろうし。今後は、あまりこういうことはないようにしなくちゃな。なんて思っても、きっとわたしはまた繰り返す。もうそろそろ家を出なくちゃいけないのに、彼の寝顔が愛おしくて、立ち上がれずにいるくらいなのだから。


 君だけは、壊してしまいたくないな。どうか、この獰猛なわたしに食い殺されないでいて。

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