1-3-18.四月二十九日③
「ほら、脱いで。一人で脱げる?」
「あ、えっと、はい……」
言われるがままに、
「一緒に洗ってあげるから、脱いだ服はそのまま洗濯機に入れちゃっていいよ」
はい、とこれも言われるままに、一紀くんは着替えを洗濯機に入れる。一紀くんを先に風呂場に入れて、わたしも服を脱いで洗濯機に放り込んだ。そうしてわたしも風呂場に入ると、お互いが生まれた姿のまま対面することになり、一紀くんはさっと視線を逸らす。
「照れちゃって、可愛いなぁ。身体洗ってあげようか?」
「自分でできますって」
そう拗ねたように言われるも、その場にしゃがみ込んだ一紀くんは、並べられたボトルを眺めるだけで、何もしない。たぶん、どれがシャンプーでどれがボディソープなのか、わからないのだろう。
わたしは一紀くんをイスに座らせて、風呂桶で湯船からお湯を汲み、彼の身体を流していく。
「熱くない?」
「……はい」
最後に頭からお湯を掛け流して、髪の間に指を入れて、もみほぐすように洗う。
そうして今度はシャンプーを手に取って、一紀くんの髪を洗ってやる。
「何か、すみません……結局洗ってもらっちゃって」
「いいんだよ。わたしがやりたくてやってるんだから」
わたしに背を向けているからか、一紀くんはさっきに比べて少し落ち着いたようだ。それでもわたしに身を委ねるように、されるがままになっている。
「変な感じですね。こうして誰かに触られることってないから、ちょっとくすぐったいような、そんな感じです」
「一紀くんがしてほしいなら、またこうしてあげるよ」
頭を流してあげて、今度は身体を洗ってあげようと、バスリリーにボディーソープを出して泡立てる。彼の背中にそれを宛がってごしごしと洗ってやると、その背中は普段わたしが見ている彼の姿よりも随分大きく感じた。思ったよりも筋肉質で、思った通り骨ばっている。肩幅は広くて、肩から腰までは随分遠い。今更ながら、一紀くんもちゃんと“大人の男”なんだなと思い知らされる。
腕も脇も洗って、今度は前を洗ってあげようと思ったが、一紀くんは頑なにこっちを向きたがらない。だから仕方なく、彼の背に抱き着くようにして、前に腕を伸ばして洗ってやることにした。大人しくこっちを向いていれば良かったものを。
「わっ、
「なぁに、どうしたの?」
わたしは白々しくそう尋ねるが、彼が狼狽えた理由はもちろんわかっている。この体勢では、わたしと彼の身体は密着してしまう。何も隔てるものがないまま、彼の背にわたしの胸が押し当ってしまっているのだ。しかしこれも不可抗力。一紀くんがこちらを向かないと言うのであれば、こうするしかない。
胸から腹にかけて洗っていくと、やはりこちらも想像以上に筋肉質で、想像よりも随分と肉がないのだと気付いた。この胸にあるのは筋肉なのか肋骨なのかわからない。彼は痩せ型だとは思っていたが、体重はどれくらいなのだろう。
洗い終えたわたしの手が自然と腰元に降りてきたところで、一紀くんが再び声を上げる。
「志絵莉さん、もういいですって……!」
「良くないよ。まだ下が残ってるでしょ?」
「いや、本当に、マズいですって」
彼が発した“マズい”という言葉の意味を、わたしはちゃんとわかっていなかった。だから太股を洗って、その付け根に手が伸びた時、わたしは思わず息を飲んでしまった。
ある程度予測は可能だったはずだ。でも、わたしの裸を見たところで、わたしの胸が触れたところで、彼はそうした目でわたしを見ないだろうと思っていた。彼はきっと、わたしに家族愛のようなものしか向けていないのだと思っていた。だから彼がこうした
「あの……すみません」
「ううん、いいの。わたしもちょっとびっくりしちゃって。あ、その、どっちかって言うと、嬉しい方で」
だってそうだろう。少なくとも彼は、わたしをそういう目で見れるということなのだ。普段あれだけ理性的な彼を見ていて、もはやそういう機能がないんじゃないかと心配になっていたくらいだ。もしくは、わたしにそれほど魅力を感じないのか、と。
「当たり前のことかもしれないんだけどさ、一紀くんもちゃんと男の子で、わたしのことをちゃんと女だと思ってくれていたんだと思ったら、何か嬉しくて」
「いや、そんなの当たり前じゃないですか。っていうか、この状況でこうなるなって言う方が無理ですって。だって、その……こんなに可愛い志絵莉さんが、裸で、同じ空間に居て、身体を洗ってくれてるなんて……」
そうか、一紀くんの言う“可愛い”は、ちゃんとそうした意味合いも含んでいたんだ。どうしてだろう。急に、胸の奥が熱くなって、満たされるような感覚。この背中がたまらなく愛おしくて、抱き締めてしまいたい。いいや、抱き締めてしまえ。
「わっ、何すんですか、志絵莉さん!?」
「……わたしを彼女にしてくれて、ありがとう」
「え、何ですか急に。……死なないですよね? あと、本当の彼女じゃないですし」
随分と本物にこだわるじゃないか。いいところなのに。彼の中では、一つの基準というか、わたしとの関係を維持するうえでの線引きみたいなものがちゃんとあるのだろう。それを超えないために、あくまでも仮の恋人、本物じゃない、ということを常に肝に銘じているのだろう。そういう理性的なところは彼の美徳だと思うが、今のわたしは、それを壊してやりたいといういけない欲求に駆られていた。
「別に死なないよ。本当の彼女じゃないのにこんなことされたら、嫌?」
「……嫌じゃないです。けど……良くないですよ。志絵莉さん、ダメなんでしょう?
「……
わかっていて、あえてとぼける。建前も駆け引きも全部無しと言ったのに、全然守れていない。きっと今のわたしは、誰かに止めてもらえないと、自分では止まれない。彼にそれができるかはわからないが、もしできなかったとしても、これは不可抗力だ。もちろん彼を責める気はないし、彼に責任を取らせるつもりもない。全部わたしが悪いことだ。それをわかっていてもなお、わたしはその先を
「本当に、意地悪な人ですね……。こういう試すみたいなこと、しないんじゃなかったんですか?」
「そうだよね……ごめん」
わたしが素直に謝罪を口にすると、彼は遣る瀬無いようにため息を吐いた。
「ごめんじゃないですよ、こんなことして……」
ため息を吐いた後で、一紀くんは、縋るように抱き着くわたしの手に自分の手を重ねる。
「今の俺と志絵莉さんの関係って、随分複雑で、ややこしいことになってると思うんです。最初は仮初の恋人として、仲の良いお友達としてやっていくはずだった。だけど、俺は誰かを好きになりたいと思ってるし、志絵莉さんも同じように思ってくれてると思います。そして、俺にとってのその誰かは、志絵莉さんだったらいいなと思ってます。でも、俺はまだ志絵莉さんを好きになれた自信はありません。志絵莉さんに愛される資格もまだ無いと思ってます。だからそんな状態で、この先へ進むのは良くないと思うんです。きっとそれでは、勘違いしてしまう。相手を好きになることがわからない俺たちだからこそ、こういうことをしたから好きだと勘違いしたら、ダメだと思うんです」
わかってはいたけれど、あまり考えないようにしてきたことだ。このまま なあなあにしてしまえたら、なんて狡い考えを持っていた。
わたしは、当初の考えとは変わってしまった。彼氏なんていらない、仲の良い異性の友達がほしいと思っていたのも本当だ。だけれど、一生を懸けても良いと思える存在が、一人でいいからほしいと心の奥で思っていたのも本当だ。そんな人は一生現れない、巡り逢えないだろうと勝手に諦めていたから、その思いは浮上してこなかっただけだ。
でも、一紀くんと出会って、関わって、事情が変わった。彼は、わたしが求めていた人だ。一生を懸けて、ずっと隣に居たい、ずっと隣に居てほしいと思える存在だ。それが恋愛的な想いから来ているのかはわからないけれど、少なくともわたしは、一紀くんと今後もずっと関わっていきたい。その肩書が友達だろうが彼氏だろうがどうでも良い。わたしにとっての彼は既に特別な存在で、できればわたしの存在も、彼にとって特別であってほしいと思っている。いつかはわたしの全てをさらけ出して、それを受け止めてなお、隣に居てほしいと思っている。贅沢な望みかもしれないが、こんなことを思うのも、一紀くんが相手だから。そう言って、わかってもらえるのかな。
「……わかった。正直に言うよ。わたしは君が相手なら、いいと思ってる。実際にするかどうかは別としてね。わたしにとって、一番許しちゃいけない部分のはずなのに、君相手なら許してもいいと思ってるの。だからこうして、君の前で裸を晒して、肌をくっつけることに何の抵抗もない。こんなことをしても、わたしは嫌だなんてこれっぽっちも思ってない。それ自体が、わたしからしたら不思議なくらいなんだ」
彼はこんなわたしを望まないかもしれない。こんなことを言ったら、嫌われてしまうかもしれない。この関係が、終わってしまうかもしれない。それは怖かったけれど、言わずに誤魔化すのは違うと思った。一紀くんがあれだけはっきり話してくれたのに、わたしが逃げるのは違うと思った。わたしはお姉さんなんだから。
「わたしにとって、君は特別なの。たぶんわたしは、君を逃したら一生誰かを好きになることはできないと思う。君以外の人と、深い仲になることはできないと思ってる。それくらい、わたしにとって君は特別なんだ。変な言い方をすれば、君は普通じゃない、とわたしは思う。わたしも自分のことを普通じゃないと思ってる。だから、わたしは君がいいと思ってる。そう言って、わかってもらえるかな。わたしも君のことはまだ好きじゃないのかもしれない。正直それはわからない。でも、どちらかと言えばわたしがこれからしていきたいことは、この先ずっとわたしが君の隣に居られるかどうか、確かめること。君じゃなきゃダメだと思ってるわたしが、君でもダメじゃないかどうか、確かめたいの。だからごめん、君を試すようなことは、これからもするかもしれない。まあ、それで嫌われちゃったら元も子もないんだけどね。だから本当に嫌だったら、嫌だってちゃんと言ってね」
「嫌ってことは全然ないんです。むしろ許されるなら、それを望みたいくらいです。だって、相手は
どの志絵莉さんなんだろう。一紀くんにとってわたしって、何なんだろうか。どう見えているのだろうか。知りたい。彼の何もかもを知りたい。全部、わたしのものにしたい。そんな欲求が次から次へと湧き上がってくる。
こんなのおかしい。わたしじゃないみたい。彼と居ると、普段の冷静で聡明な志絵莉さんじゃなくなってしまう。最初からそうだった。彼と居ると、どうも調子が狂う。でも居心地が悪いわけじゃない。むしろ楽しくもある。わたしをこんな気持ちにさせたのは、一紀くんだけだ。
すると、おもむろに一紀くんが風呂桶で湯船の湯を汲み、わたしの頭から掛け流す。
「少し、落ち着きましょう」
わたしは一紀くんから身体を離して、もう一度バスリリーを泡立てて、一紀くんの身体に宛がった。
「わかった。とりあえず、洗うね。変なこと何も考えないで洗うから、何かあっても気にしないから、一紀くんもできれば無心で洗われてくれない?」
「あー……えっと、わかりました……」
改めて、一紀くんの腰元を洗う。本当は洗いにくいからこっちを向いてほしかったけれど、それだとわたしも気が散ってしまうかもしれないから、このままで良かったのかもしれない。バスリリー越しに感じる、初めて触れる感触に、そんなことを思っていた。
足先まで洗い終えて、ようやく風呂桶で洗い流す。洗い流しながら、今度は手で直接一紀くんの身体のあちこちに触れて、意識しないようにしてはいても、なかなか気を逸らすのは難しい。わたしでさえそうなのだから、一紀くんもきっとそうなのだろう。それでも、特に声も上げずに、最後までわたしにされるがままになっていた。
「髪は自分で洗うから、今度は一紀くんにわたしの身体を洗ってもらおうかな」
一紀くんと場所を交代して、バスリリーを押し付けるように手渡した。そうして彼が何かを言う前に、わたしは髪を洗い始める。
「……冗談ですよね?」
半ば放心したように、わたしの背に向かってそう呟く一紀くん。わたしはそれに答えることなく、髪を洗い終えて、一紀くんの方に向き直った。
「ボディーソープはこれ。じゃあ、お願いね」
さっと視線を逸らしながらも、一紀くんはボディソープのボトルを受け取った。
さっきは背中しか見れなかった一紀くんの身体を、今度は正面から見ることができた。さっき洗う時に触った感じとは裏腹に、肩周りは思いの外がっしりしている。やっぱり肋骨が少し浮いているし、腰も細い。そして――両脚が伸びるその付け根にあるものが徐々に重力に逆らうように屹立していくのを、目で追うのを止められなかった。
「……すみません、本当。こんなもの見せちゃって……」
「あー……いや、どっちかって言うとわたし的には、興味津々って言葉が適切だったりする感じだから……こっちこそ、ごめん」
少しの間流れる沈黙が、互いに考える時間を作ってしまう。意識しないように、気にしないようにとしているのに、これでは否が応でも意識してしまう。
「とりあえず、その……洗ってもらっていい?」
わかりました、と一紀くんは泡立てたバスリリーをわたしの身体に押し当てて擦る。視線は手元に注がれているが、何故だかわたしの顔は絶対に見ないというような強い意志を感じる。
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