1-3-17.四月二十九日②

 いじらしく身を寄せるわたしの頭をぽんぽんと撫でて、一紀かずきくんは子供にでも向けるような優しい笑みを見せた。


「いいですけど……えっちなことはダメですよ?」


「わかってる。っていうか、普通わたしが言う側のセリフなんだけどなぁ、それ」


 電気を消したままということもあって、そういうつもり・・・・・・・に聞こえてしまったらしい。わたしだって、約束を破るつもりはない。ただ少し、今彼と離れてしまうのは寂しいと思ってしまった。だから、せめて夜が明けるまで、この寂しさを埋めていてほしかった。


 そんな時、また雷が鳴る。少しずつ近付いているようで、雷光と雷鳴の時間差が縮まってきている。


「せめて電気付けようか。カーテンも開いたままだし」


 そうしてわたしが電気を付けてカーテンを閉めている間に、一紀くんはキッチンの様子を見に行っていた。そういえば、わたしのためにおかゆを作ってくれていたんだったか。途中で寝てしまって、悪いことをした。


志絵莉しえりさん、おかゆ食べます? もう一度温め直しますけど」


「あー……もうかなり冷めちゃった?」


「えっと、ぬるいくらいだと思います」


 ってことは、わたしとしてはちょうどいいくらいかもしれないな。本当は熱々のものを食べて身体を温めた方が良いのかもしれないけれど、そもそも熱々のものはわたしの喉を通らない。それに一紀くん基準でもう一度温めたら、冷めるまでしばらく食べられないだろう。


「じゃあ、そのままでいいや。任せちゃって悪いけど、用意してもらってもいい?」


「わかりました」


「一紀くんは、何か食べるものあるの? 夕ご飯まだでしょ?」


 彼だって、こんなに長居するつもりじゃなかったはずだ。当然、夕ご飯もここで食べていくつもりなんてなかっただろう。


「大丈夫です。一食くらい抜いても何とかなりますから」


 絶対そう言うと思った。だから、返しも当然考えてある。と言っても、さらにその返しもきっと予想通りだろう。でも、何としても彼に夕食を抜かせるなんてことはさせない。


「いや、わたしだけ食べるとか申し訳なさ過ぎるって。しかも買ってきてもらっちゃって。何か食べられるものあるなら、一緒に食べよう?」


「そうは言われても、志絵莉さんは体力を戻した方がいいんですから、俺に構わずちゃんと食べてくださいよ」


「一紀くんが食べないなら、わたしも食べない。一緒じゃなきゃだ」


「ヤダって、そんな子供みたいな……。……わかりましたよ。俺も一緒に食べます」


 もう少しかかるかと思ったが、意外にも簡単に折れた。これ以上食い下がっても聞く耳を持たないだろうと呆れられてしまったのだろうか。そんな顔をされていた。


 わたしは一紀くんがご飯の準備をしてくれている間にお風呂を沸かしておくことにした。いつもはシャワーで済ましてしまうことが多いから、湯船に浸かるのは久しぶりだ。今日は一紀くんも来ているし、病み上がりということもあるし、ちゃんとお湯に浸かるのもいいだろうと思ってのことだった。


 一紀くんはちゃんと二人分のおかゆを器に盛りつけて、他に買ってきていた野菜ジュースのパックとゼリーをテーブルに並べる。健康的な男子大学生の夕食としては物足りなさ過ぎるけれど、何も食べないよりはマシだろう。


「ありがとう。じゃあ、いただきます」


 彼もいただきますと言って、おかゆに口を付ける。やはりわたしにとっては食べ頃の温度だったが、一紀くんからしたらぬるいのだろう。あまり美味しそうな顔をしていない。


「そう言えば、唯翔ゆいとくんの件はどう? それから何か進展はあった?」


「一応、俺の方からも少し話をしたので、たぶん大丈夫だと思います。志絵莉さんの方に特に接触はないですよね?」


 話をしてくれたんだ。彼が素直に一紀くんの言うことを聞くかどうかは疑わしいけれど、効果がなかったわけではないのだと思う。


「わたしの方には特に。大学の方でもそういう人が来てるとかって話は聞いてないよ。ちなみに、どんな話をしたの?」


「それ言うの、何か恥ずかしいんですけど……。志絵莉さんのこと嗅ぎ回るの、迷惑だからやめろって言ったんですよ」


「そしたら? 逆ギレされなかった? いっちょ前に彼氏面してんじゃねぇ、みたいな」


「何でもお見通しですね。言われましたよ。だから、俺は彼氏なんだから彼氏面して何が悪いって言い返してやりました。彼女に纏わりつく悪い虫を払って当然だろって」


 そっかそっか、とできるだけ真面目に聞いていたつもりが無意識にニヤニヤしてしまっていたらしく、一紀くんにじとっとした眼で見られてしまった。面白がっていると思われたのだろうか。そういうつもりじゃなかったんだけれど。当の彼女としては、ぜひともその場面を陰から見ていたかったなと思っただけで。


「また何かあったらわたしを守ってね、彼氏さん」


「自分から危険に突っ込むのは、もう無しにしてくださいよ?」


 耳が痛い話だ。たぶんわたしは、また同じことを繰り返すと思う。好奇心を抑えられない自分自身の問題もあるが、わたしを狙っている大きな力の存在を知ってしまった今、きっとわたしはその存在と対峙することになると思う。いや、自分からその存在にたどり着こうとするだろう。そうしてそれを排除しなければ、わたしは一生その影に怯えて暮らさなければならないのだから。

 だから一紀くんには悪いけれど、わたしはまた自分の身を危険に晒すだろう。一紀くんを悲しませる結果になる可能性だってあるのは重々わかっているつもりだが、それでもわたしは、何もせずに居るということはできないだろうと思っていた。


「……いや、やっぱりいいです。どうせ志絵莉さんには、そう言っても聞いてもらえないんでしょうから」


 それを察させてしまったことが、わたしとしてはあまりに不甲斐ないと思えて仕方なかった。


「……ごめん。でも、それがわたしが選んだ道だから。自分のことも、お母さんのことも、わたしは知りたいし、知らなくちゃいけないと思ってる。きっとその過程で危険な目にも遭うと思う。それでも、自分が何者かも知らないまま生きていくのは嫌なんだ」


「ええ、それでいいんです。それでこそ志絵莉さんです。どこにも行かないで、ずっと隣に居てほしいと思うのは、ただの俺のワガママですから。志絵莉さんは元々、俺の手の届くはずのない存在で、今こうして一緒に居られること自体、俺にとっては贅沢なことなんです。だから引き留めるようなことはしません。ただ一つ望めるなら、志絵莉さんが大事にしたいたくさんのものの中の一つに、俺の存在があればいいなと思うだけです」


 一紀くんは少し泣きそうになりながら、ぽつりぽつりと話してくれた。たぶんこれは、彼の本音に近い部分なのだろうと思った。彼がわたしを見ないで話す時は、大抵そうだ。

 わたしは、これを避けたかったんだ。わたしのことを知られてしまったせいで、彼はわたしを遠い存在だと思ってしまう。そうしたら、きっとそう思ってしまうと思っていた。わたしは一紀くんに、そんなこと考えてほしくないのに。


「ううん、いいんだよ。一紀くんは一紀くんなりに、わたしに気持ちをぶつけてくれていい。思っていることをぶつけてくれていい。どうするかはわたしが決めることだから。多くを望んだって、贅沢な望みを持ったって、別に誰かに罰せられるわけじゃないんだから。それに、一紀くんが贅沢だと思ったことは、実は贅沢なんかじゃなくて、簡単に叶うことかもしれないよ。それは、言ってみなくちゃわからない。そうでしょう?」


「……そう、ですかね」


「そうだよ。わかった。じゃあ今夜は、建前禁止にしよう。駆け引きとか、遠回しに探るとか、そういうの全部なし。思ったことを、ちゃんと言う。わたしも、一紀くんも」


 わたしの急な提案に、一紀くんは早速その意図を探ろうと思案し始める。


「そんなこと言っても、ちゃんと守られる保証はないですよ?」


「いいよ。でも少なくともわたしはそうする。それで、一紀くんの言ったことを、素直に受け止める。変に勘繰ったりもしない。正直疲れてるし、頭使いたくないからね」


「わかりましたよ。俺もそうします」


 ごちそうさま、と一紀くんが食器を片付けてくれるので、キッチンからこちらに戻ってくる彼を待ち伏せて、抱き着いた。一紀くんは少しよろめいたが、ちゃんとわたしを受け止めてくれて、彼からも抱き締めてくれる。


「どうしたんですか?」


「したいことを、したいままにしてるだけ」


 そう言うと、一紀くんはわたしが離れるまでそのまま抱き締めていてくれた。わたしが彼から身体を離そうとすると、今度は彼がわたしに抱き着いてきた。少しわたしに寄りかかるようにして、わたしの胸元に顔を埋めてくる。


「甘えん坊だね、一紀くん」


 わたしはよしよしと、彼の頭を撫でてやる。彼が満足するまで、わたしもこのままされるがままになっていた。


「ねえ、一紀くん。一緒にお風呂入ろうか」


 わたしが何の前置きもなくそう言うと、一紀くんは驚いたように目をぱちくりさせる。そしてほんの少しの間を置いて、ぼそりと答えが返ってきた。


「え、嫌ですよ」


 言いたいことを言えとは言ったが、そんなストレートに返されるとは思っていなかった。わたしとお風呂に入るのって嫌なのか。


「だって一人で入るの寂しいじゃん。彼女なんだし、裸見られたってわたしは別にいいからさ。どうしてもダメ?」


「彼女って言っても、本当のじゃないんですよ? そんな関係なのに、本当にいいんですか?」


 今更それを持ち出すのか。ここまでして、ここまでされて、本当に今更だ。お互いの気持ちが恋愛として向いているかはともかく、今のわたしたちの関係は実質的に付き合っているようなものだろう。普通のカップルと比べても遜色ないくらい、いやそれ以上に互いを尊重し、気遣い、大切にしていると思う。その気持ちが恋愛としてのものかは別として。

 だからわたしは、一紀くんとならいいと思った。この気持ちが恋愛としてのものだとしても、家族としてのものだとしても、何らかの形の愛はあるのだとわたしは思っている。きっと一紀くんもそうだと思う。そうでなければ、こんなに互いを思い合えないと思う。だから、そんな相手となら、別にいいと思った。


「わたしがいいって言うんだからいいんだよ。ほら、あれだよ。不可抗力。病み上がりのわたしがお風呂で倒れちゃったら大変でしょ? 誰か一緒に入ってくれないと不安じゃない? それにこんな雷が鳴ってるし、お風呂入ってる間に停電なんかしたら、一人だと心細いし。だから状況的に、仕方なくそうするのであって、それによって何かがあっても不可抗力ってことになるでしょ?」


「建前禁止じゃなかったでしたっけ?」


 わたしがいじけたように言っても、一紀くんは冷静にそう返してくる。いや、努めてそう振舞っているだけだ。彼がこうして正論を突き付けてくる時は、そうして一度ブレーキを掛けないと理性を失う恐れがある時だ。


「だって本音で話してもゴネるんだもん。それとも一紀くんには、わたしを納得させられるだけの一緒に入りたくない正当な理由があるって言うの?」


 それを言われると、一紀くんは何も言い返せない。そう思ったがしかし、振り絞ったように小さく返してきた。


「……恥ずかしいじゃないですか」


 もじもじと言葉を絞り出した一紀くんが可愛らしくて、わたしはそれを許してしまいそうになったけれど、それでもわたしは譲らない。せっかくここまで押したのだから、今更引けないというのもあった。今のわたしは少しばかりハイになっていて、自分では止まれなくなっていた。それを危惧した一紀くんがせっかくブレーキを掛けてくれようとしたのに、それをぶち壊してまで我を通そうなんて、まったくひどい女だ。


「よし、却下ね。そうと決まれば、一紀くんの着替えを見繕わないと」


「いや、聞いてくれないんですか?!」


 わたしはクローゼットからできるだけサイズの大きいシャツとハーフパンツを取り出したはいいが、一番の難題に頭を悩ませていた。そう、下着だ。さすがに男物の下着はない。一紀くんに女物を履かせるのはさすがに申し訳ないというか、本人も嫌だろう。せめて男の子が履いてもおかしくないようなものが何かあれば……。そう思って、苦肉の策でボクサーパンツ型のものを引っ張り出した。サイズが合うかはわからないが、これならそこまで抵抗はないんじゃないか。確かお父さんもこういう形のものを履いていたと思うし。


「ねえ一紀くん、着替えこれでいいかな?」


 と、一式を一紀くんに手渡すと、下着も含まれているとは思わなかったようで、すぐに顔を真っ赤にして狼狽え始めた。


「いや、これ、志絵莉さん、の……?」


「ごめんね、新品じゃなくて。一応、数えるほどしか使ってないから。あとはサイズなんだけど……」


 そう言いかけて一紀くんを見てみれば、手渡した着替えを両手に抱えたまま呆けたように固まってしまっていた。そんな彼を、わたしは有無を言わさず脱衣場に押し込んだ。冷静に考えられない今が好機。このまま勢いで押し切ってしまおうと思ったのだ。

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