1-3-16.四月二十九日①
思った通りすぐに退院できて、今日は土曜日。事件があったのが水曜日だったから、半分くらいは実習の期間を無駄にしてしまったことになる。ちゃんと単位はもらえるのだろうか。一応、レポートは提出しようと思うから、それで単位として認めてもらえるといいけれど。
あれきり こうくんとも会えていない。わたしが居なくて大丈夫だろうか。というより、保育園はどうなったのだろう。警察の捜査もあるだろうし、いつ頃業務が再開されるのだろう。
しかし他人の心配をしていられるほど、わたし自身に余裕はなかった。退院できたとは言え、今日のわたしのコンディションは最悪で、朝起きたと思ったら身体が怠く、熱を測れば三十八度。病院で風邪か何かをもらってきてしまったのだろうか。しかも追い打ちをかけるように最悪だったのは、数日家を空けていたこともあって、家に食べるものが何もないことだった。
まさかの入院中よりも退院してからの方が苦しい思いをすることになるとは思わなくて、思わず一人で泣き出してしまいそうなほどに参ってしまっていた。
するとそこへ、一件の着信が舞い込んできた。わたしは心配を掛けないようにと、努めていつも通りに振る舞おうと気を引き締めてから電話に出た。
「もしもし、どうしたの?」
『ああ、いや、特に何かあるわけじゃないんですけど……ちょっと心配で』
退院してすぐはまだ体調が優れないんじゃないかと心配してくれたのか。もうその心遣いだけで涙が出てきそうになる。身体が弱っていると、どうも精神的にも不安定になっているらしい。
「ありがと、心配してくれて。でも大丈夫だよ」
そんな時、ピピピピと連続した機械音が通話口のすぐ下から鳴る。
『……今の音、体温計ですよね? 何で“大丈夫”な人が体温測ってるんですか?』
あまりにも正論過ぎて、言い返せる気がしない。もう一度体温を測ろうと思って脇に差していたのを忘れていた。それにしてもタイミングが悪過ぎる。
「念のためというか……まあ、そんな感じ」
『ちなみに、何度だったんですか? 正直に言ってくださいね』
少し強めに念を押されてしまう。どうしたものか。本当のことを言うべきか。これで嘘を吐いて悪化したら、どうして正直に言わなかったのかと詰められるかもしれない。
脇から体温計を引き抜いて見てみると、三十八度五分。少し上がっている。
「……三十……八度、五分……です」
観念して正直に話してしまった。こんなことをすれば、彼に心配を掛けるだけだとわかっていたのに。いや、もう遅いか。正直に話さずとも、彼は心配になっただろう。全ては空気を読めない体温計のせいだ。
『今から行きますから、家から出ないでくださいね』
それだけ言われて、通話が切れた。
いや、ちょっと待ってほしい。今から来るって? この荒れ放題の部屋に?
別に部屋に入れたくないわけではないが、せめてもう少し片付いている時に呼びたかった。いつもこうだと思われたら少しショックだ。
できる限り片付けておいた方がいいか。それで体調が悪化するよりは、大人しく寝ていた方がいいのか。熱があるせいか考えが纏まらなくて、とりあえず洗濯物だけはどうにかしておくことにした。
しばらくして、インターホンが鳴る。ふらつく足取りで玄関まで向かい、鍵を開けて、ドアを押し開けた。ドアの向こうに居たのは、買い物袋を提げた
「ありがとう、来てくれて」
「……大丈夫ですか? 本当に」
心配そうな一紀くんはわたしを受け止めて、玄関に押し戻しながら自分も玄関に入ってきた。そうしてドアを閉め、玄関に買い物袋を置いた。なかなかの重量がありそうだ。早く下ろしてしまいたかったのだろう。
「でも、
抱き着いておいて今更言うことではないし、風邪かどうかもまだわからないけれど。それでも少なからず彼に迷惑を掛けることは間違いない。
すると一紀くんは、自分とわたしのマスクを下げて、ぐっと唇を押し付けた。しかもあろうことか、馬鹿みたいに舌先をわたしの口腔内に押し込んでくる。だけれどわたしもそれを拒まず、力を抜いて、挿し入れられる舌を受け入れた。
唾液を絡めるたびに身体が熱くなってしまうのは、熱があるからだけではないかもしれない。窮地を助けに来てくれた彼のことを、わたしは少しだけ変な目で見ているらしい。たったあれしきのことで惹かれてしまうなんて、自分がそんな単純な女だと思いたくない。だけれど少なくとも
口を放すと、彼はニヤリとして言った。
「もし風邪だったら、俺がもらってあげるから早く治りますよ」
「……バカじゃないの」
そんな少年みたいな無垢な笑顔で言われれば、その眩しさに照れ隠しみたいな悪態を吐くしかなかった。
ふらつきながらベッドに戻ろうとすると、彼が支えてくれて、とりあえずわたしはベッドに寝かせられた。買い物袋から冷えピタを取り出して、わたしのおでこに貼り付けてくれる。
「何か食べてます? 食欲はありますか?」
「実は、昨日から何も食べてなくて……。半液状のものなら食べられそうな感じ」
「じゃあ、おかゆを作りますよ。あとはこれ、食べられそうだったら」
そう言って、フルーツがいくらか入ったゼリーとプラスチックのスプーンを渡される。散らかったわたしの部屋には目もくれずに、キッチンを借りますね、と言って彼はお湯を沸かし始めた。何か、手際良いな。お母様の入れ知恵か?
まあ、今日のわたしは病人だから、彼に任せてみよう。わたしがあれこれ考えなくても大丈夫。そう思ったら気が抜けたのか、急に眠気が襲い来る。それに抗うこともできずに、わたしはそのまま眠りについてしまった。
目が覚めると、ぼんやりとこちらを見つめている一紀くんと目が合った。外はもうすっかり暗くなっていて、いつの間にかカーテンも閉め切られている。一紀くんが閉めてくれたのだろう。電気もつけずにいたのは、電気をつけたことでわたしが起きてしまわないように、寝かせてくれようと気を遣ってくれたのだろう。
窓をガタガタと揺する音が断続的に鳴っていて、随分と風が強いらしい。そんなに建付けが悪いわけではないのにここまでが音がするということは、なかなかの悪天候だ。雨も降っているのだろう。こんな日に呼び付けてしまって、一紀くんには申し訳ないことをした。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「うん、まあ。一紀くんは、ずっとわたしの寝顔見てたの?」
「ずっとではないですけど、割と。あまりに可愛かったので」
またそんなことを言う。この際だから、少し突っ込んで聞いてみてもいいかもしれない。本人を前にして平然と可愛い言えるそのメンタルはどこから来るのかと。
「一紀くんさ、わたしのこと可愛いってよく言ってくれるけど、なんかこう……恥ずかしかったりしないの? たまに、すごいキザなこと言ってたりするよね」
「ああ、えっと……意識的に言ってる時も、あります。もちろん、思ってないことは言ってませんが。俺はカッコよくないですから、せめて言葉の上だけでもカッコよくあれたらと思って。……変でしたか?」
……そういうことか。
一紀くんが嘘や建前をわたしに向けてくるとは思っていないから、その言葉を疑ったことはない。だけれど、嘘や建前で言っていないことがわかるからこそ、そうしたストレートな称賛を向けられて、わたし自身は結構 動揺してしまったりするのだ。
でも一紀くんは、わたしみたいな人間と付き合っているから余計に自信が持てず、わたしとは違った意味で称賛することもされることも慣れていないのだろう。
「変じゃないよ。その……照れるなぁと思って。それにね、わたしは別に、一紀くんがカッコよくないとは思わないよ。わたしを助けてくれた時、誰よりもカッコいいと思ったもん。一紀くんだって、普段は可愛いのに。いつでもカッコよくいる必要はないと思うよ。ここぞという時にカッコよくいてくれれば、わたしはその方が嬉しいな。ほらわたしだって、いつでもキレイにしてるわけじゃないし。だから寝起きの顔とか寝顔とか、恥ずかしいからあんまり見ないでほしいんだけど」
「何言ってるんですか。
「ほらそうやって言いくるめて、寝顔を眺める口実にしようとしてるでしょ」
またそうやってわたしを褒めそやすから、わたしは照れ臭くなって、ちょっと意地悪したくなってしまうんだ。ベッドから手を伸ばしたわたしは、一紀くんの頬を軽く摘まむ。
「だって本当のことなんですから、しょうがないじゃないですか」
そんな時、窓の外で閃光が走り、わずかに遅れて轟音が鳴る。雨風が強いなと思ってはいたが、雷まで鳴り出すとは。思ったよりも天候は悪いようだ。この後の天気はどうなるのだろう。というか、今は何時なのだろう。彼は、いつまでここに居てくれるのだろうか。
「結構近かったですね。まだしばらく降るみたいですよ」
そう言って、一紀くんはスマホで天気予報のアプリを開く。見せてもらうと、むしろこれからさらに雨は強くなるらしい。そしてちらと見えた現在時刻は七時三十八分。
「帰りどうするの? こんな中、さすがに危なくて帰せないよ」
「最悪 親に連絡して、迎えに来てもらいますかね。雨が弱まる頃にまだ電車があるかわかりませんし、タクシーで帰ると高くつきますから」
まあ、筋の通った模範解答だと思う。ムカつくくらいに。それじゃあ隙がなさ過ぎて、何も言えないじゃないか。
「親御さんが迎えに来るにしても、この天気じゃ車でも危ないよ。もう少し様子を見たら?」
わたしの意見は理に適っているだろう。客観的に見ても、特別必死に引き留めているようには感じられないはずだ。
「そうですね。もう少しここに居ますよ。また雷が鳴って、志絵莉さんが怖がってもいけないですからね」
何か一紀くんの方で勘違いがあるようだ。確かにさっき雷が鳴った時は、思わず肩を跳ねさせたが、あれは怖かったわけではない。単純に、大きな音に驚いただけだ。わたしがそんな、雷が怖いなどという可愛げのある女だと思っているのか。まあもしそうだったら、一紀くんとしてはギャップがあって良いと思ったりはするのかもしれないが。
「……別に、雷怖くないし。びっくりしただけ。大きな音がしたらビクってするじゃん?」
「そうですか。じゃあ、大丈夫そうですね」
なんて、素っ気ない返事が返ってくる。強がったと思われているのだろうか。
「……ねえ、なんでちょっと意地悪なの?」
ベッドから出て、彼の隣に腰を下ろす。わたしを包んでいた布団がなくなって、少し肌寒くて、もの寂しくなる。膝を立てて、その上に力なく顎を乗せた。
「志絵莉さんこそ、こんな時くらい、素直に雷が怖いって甘えてくれればいいのに」
「怖くないってば。ホントに!」
どうやら一紀くんは、わたしが本当は雷が怖いと思っているらしい。どうしてそう思われているのかはわからないが、それは本当に違う。ただどちらかと言えば、素直に甘えてほしいというのが、彼の本音なのだろう。わたしはまだ病み上がりで、彼としては本当なら一人にしておきたくないと心配してくれているのだろう。それなのにわたしが本音を隠すから、彼としては
だからわたしは、今夜ばかりはほんの少しだけ、ワガママになってみることにした。これが素直なわたしだと、彼に突き付けてやることにした。そう思ったら自分でも意外なほど大胆に、わたしは彼の方に身を乗り出して、彼の耳元に囁き掛けていた。
「じゃあさ……今夜はずっと、一緒に居てくれない? ……ダメ、かな?」
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