1-3-15.四月二十七日⑤
目が覚めた時にはもう陽は傾いていて、それを遮るようにカーテンが閉め切られていた。明かりは点いていないが、カーテンから薄っすらと夕日が透けて、部屋はぼんやりと薄明るい。
ふと隣を見ると、くたびれたおじさんが座っていた。驚いて声を上げそうになったが、よく見たらお父さんだった。さすがに実の娘に不審者と勘違いされて人を呼ばれるなんて、可哀そうすぎる。わざわざお見舞いに来てくれたのに。
とは言え、明かりも点けずにじっと娘の寝顔を眺め続けているのもどうなんだ。しかもわたしの顔は、今は亡き最愛の恋人と同じなのだ。わたしの顔を見て、何を思っていたのだろう。
「ああ、起こしちゃった?」
「ううん、起きた」
「先生から話は聞いたよ。……それから、警察からも」
お父さんはわたしと
「随分派手に動き回ったみたいだね。いつかきっとこうなるって、わかってはいたはずなんだけど……」
そう言うお父さんの表情は、諦めなのか呆れなのか、はたまた感激なのか、あるいはそのすべてなのか、わたしには判断がつかなかった。たぶん、またお母さんのことを思い出しているのだろう。
わたしのやること為すことに、お母さんを重ねてしまう。それはもう、お父さんにとってはどうしようもないことなのかもしれない。それほど、お父さんにとってお母さんの存在は鮮烈で、今でも脳裏に焼き付いて離れないのだろう。
「今回のことで、
色々と伏せられていて、何のことだかいまいち要領を得ない。“あの人”というのは誰なのだろう。とある計画のためにわたしを追い求めている輩がいるらしいことはわかった。“
それらの中に、お父さんの言う“あの人”はいるのだろうか。どうせ聞いても教えてくれないんだろう。だからわざわざ伏せたのだろうし。
「お父さんは何もしてくれないの?」
「僕は……志絵莉に真実を教えることはできない。今は、まだ。そういう約束――決まりなんだ。僕が許された、その代わりの約束なんだ。ごめん。その約束の中には、志絵莉を守ることも含まれている。ただし、彼女の知るところに居る限りは、という条件付きだけど」
お母さんのことを秘密にしている以外にも、お父さんには何か事情があるみたいだ。これ以上追及しても、お父さんを苦しめるだけか。
「悪かったよ。お父さんにも事情があるのはわかってるつもりだから。そんな悲しそうな顔しないで」
「ありがとう。それにしても……なかなかいいお友達に恵まれたみたいだね」
唐突に、お父さんが感慨深そうにこちらを見つめるので、わたしは何の話? と聞き返す。
わたしが眠っている間に誰かと会ったのだろうか。ああそうか、前に
「今日、僕は会社を休んで朝から待合室にいたんだ。志絵莉の容態については連絡をもらっていたから、真っ先に駆け付けようと思ってね。だけど、僕よりも早くから志絵莉のお友達が何人も来ていてさ。皆が帰ってから、僕は最後でいいかなと思って、ずっとそれを見守っていたんだ」
そっか。お父さんも心配してはくれていたんだ。真っ先に駆け付けてくれたのが萩くんと一紀くんで、お父さんじゃないのかと少しだけ残念に思ったけれど、お父さんだってすぐに来てくれていたんだ。
とは言え、ずっと待合でわたしの病室の方を窺いながら待ち続けてたっていうのもキモいけど。お父さんは時々やることが少しズレている。何でそんな、ストーカーみたいな距離感で娘と関わろうとするのだろう。
「最初に部屋に入っていった中学生くらいの子と、次に入っていった大学生くらいの子、どっちが彼氏なんだい?」
しかも彼氏の詮索まで始めた。今までわたしの彼氏に興味なんて持ったことなかったのに。こうして目の当たりにしたら、さすがに意識も変わるということなのだろうか。というか、萩くんまで彼氏候補に思われているのは心外過ぎる。あなたの娘は中学生に手を出すような女だと思っているんですか。
「大学生くらいの子の方に決まってるでしょ。さすがにあんなお子様に手を出したりしないよ……」
「そうか。彼の方は、そうは思ってなさそうだったから」
そうなんだよね……。恋愛対象かどうかはともかく、わたしに対して何らかの好意を向けているのは間違いないと思う。だけれどそれを受け取ってしまえば、ますます彼を歪ませてしまうだけだ。だからわたしは、彼の気持ちに応えてあげることはできない。
「……お父さんから見て、大学生くらいの子――一紀くんっていうんだけど、彼はどう?」
「いいと思うよ。志絵莉は一人で何でもできてしまうから、ああいう子が傍にいてくれたらいいと思う」
どういうことだろう。お父さんは他の人とは違って、わたしが好きそうなタイプだから、という見方をしなかった。いまいちお父さんの言うことはわたしにはわからないけれど、もしかしたらお母さんと何か関係があるのかもしれない。わたしと一紀くんの関係を、お母さんとお父さんの関係に重ねて見ているのかもしれない。
「ああ、そうだ。病院から連絡があって、着替えを持ってきてあげてほしいって言われてたんだけど……うちには志絵莉の服はもう置いてなくて、困ったよ」
昨日着ていたジャージはずぶ濡れになって汚れてしまっていた。当然病院内で洗ってもらうわけにもいかず、下着を含めてそのままだ。今は院内着で過ごしているが、退院するとなれば着替えが要る。 お父さんにもうちの鍵は渡してあるけれど、何がどこにあるか、そもそも何が必要かわからないだろう。
しかしながら一応は、保育園のロッカーに置いてあった荷物や着替え一式を
そう思っていたら、お父さんはそのまま言葉を続けて、持ってきていた紙袋を差し出してきた。
「うちにある志絵莉が着れる服っていうと、これくらいしかなくて。他のものは途中で買ってきたよ」
紙袋を受け取って中を見てみると、下着やシャツと一緒に入っていたのは、わたしが通っていた
「一応、定期的に洗ってはあるものだから」
「いや、そんなことはどうでもよくて……何からツッコんでいいか……。サイズとか、知ってたの?」
まあ、わたしがまだ実家にいた頃は洗濯物に触れる機会もあったろうし、知っていても驚きはしない。覚えていることは驚くが。しかもこれを、一人で、行きがけに買ってきたのか。店員さんにどんな目で見られていたのだろう。想像すると居たたまれない。
「さすがにそこまで知らないよ。でもたぶん、
逆に、お母さんのスリーサイズ知ってるんだ。確認してみれば、お母さんの制服のサイズはわたしが着ていたものと同じ。なら、確かにその他もろもろのサイズも近かったのかもしれない。
いや、待て待て。流されそうになっているけれど、お父さん、相当キモいことしてるぞ。いくらお母さんラブだからと言って、娘のわたしはこれをどう受け止めればいいんだ。
「お母さんとわたしって、顔だけじゃなくて体格も似てるの?」
「そうだね。背は少しだけ志絵莉の方が高いかもしれないけど、僕が最後に見た志乃さんは十八歳の時だから……」
いや、それだと計算が合わない。お父さんとお母さんは同じクラスだったと聞いた。お父さんは今年で四十一歳、わたしは今年で二十歳になるから、わたしが生まれたはお父さんもお母さんも二十一歳になる年だ。最後に見た、というのが死を意味するのなら、わたしはお母さんが亡くなって三年後に産まれたことになる。
もしかして、わたしが早とちりをしていただけで、お母さんはまだ生きているのだろうか。それにしては、ずっと会えなくなった理由も気になる。お母さんの存在は国家機密レベルだとかって話だから、そういう特殊な事情で二人は引き離されてしまったのだろうか。だとしたら、
「ごめん、志絵莉。もう色々考えてると思うけど……今の、聞かなかったことにしてくれない?」
「どうしよっかなぁ。結構大事なこと聞いちゃった気がするし」
「お願いだよ、志絵莉……」
懇願するお父さんの姿がいつもより小さく見えて、何だか寂しくなった。本当はお父さんだって、わたしとお母さんの話がしたいはずなんだ。何に縛られているのか知らないが、それをずっと封じられて、苦しんでいる。その苦しみさえ、誰かと分かち合うことを許されていない。
そこまで考えていないとは思うけれど、もしかしたら、お父さんが
「わかった。でも一個だけ聞きたいことがある。それを教えてくれたら、聞かなかったことにするし、さっき考えたことも考えなかったことにする」
「ありがとう。それで……聞きたいことっていうのは?」
「その前に、ちょっとだけ待ってて。待合に居てくれる?」
わかった、とお父さんは素直に部屋から出ていった。わたしはお父さんが持ってきた紙袋の中身をベッドの上に広げ、院内着を脱いで着替える。
サイズはお母さんと同じものをと言っていたが、デザインはお父さんの趣味なんだろうか。あまり深く考えないことにして着てみると、心なしか少し大きいように感じる。どうやらわたしは、お母さんよりサイズが小さいらしい。
久しぶりに高校の制服に袖を通すが、着慣れたものではない、お母さんのもの。お母さんが三年間着ていたもの。そう思うと、わたしも少しばかり浸らずにはいられなかった。
制服に着替えてから、鞄から化粧ポーチを取り出して、ささやかながら化粧をしていく。髪もぼさぼさだけど、ブラシで梳かすくらいしかできることがない。お母さんの使っていた香水がわかればいいんだけれど、仕方がないので自分のものを使うしかない。それでも、できることは全部やって、できる限り見栄えを良くしておいた。
そうして、わたしは病室を出てお父さんが待っている待合へ向かった。
お父さんは椅子に深く腰掛けて、スマホを弄るでもなくただ俯くように待っていた。そんなお父さんの隣に腰を下ろして、わたしなりにお母さんのイメージを構築して微笑みかける。
「もう、なんて顔をしているの。ユキトくんったら、わたしに会えなくてそんなに寂しいのかしら?」
はっと振り向いたお父さんは、わたしの姿を見て目を見開いた。何か言葉を吐こうとして、それを飲み込む。
「君がそんなんじゃあ、
「そうは言っても僕は……
お父さんは、あくまで“志乃さん”として接してくれる。本当にそう思い込んでいるのかはわからないけれど、このままお父さんの本音が聞けたら、そしてお父さんの心を少しでも癒してあげられたら。そう思っていた。
「何を言ってるの。それはわたしだってそうだよ。わたしも、ユキトくんを守れなかった。こんなに苦しんでいるユキトくんに、わたしは何もしてあげられない。ごめんね」
そうしてお父さんを抱きしめてあげると、お父さんの方からもわたしを抱きしめてくれる。
「志絵莉のことも、ずっとユキトくんに任せっきりだったもんね。ずっと、あの子を守ってくれてありがとう。だから今度は、わたしがあの子を守る番だよ。あの子に流れるわたしの血が、きっとあの子を守るから。だからユキトくんは、これからは自分のために生きて」
「そう……だね。志乃さんの血が流れてるからこそ、僕は心配なんだけど。でも、志乃さんなら何でもできるっていうのも、僕が一番知ってる。だからこれからは、志絵莉のことは
「ふふっ、それは心配ないと思うわ。だってあの子は、誰の娘だと思っているの? わたしを幸せにしてくれた君が、あの子を不幸にするはずがない。それはわたしが保証するわ」
今のわたしは“志乃さん”になりきっている。そうしなければ、お父さんの心に手は届かない。もしかしたらお父さんを傷つけることになるかもしれないけれど、今のわたしは“志乃さん”として、取るべき選択があった。
お父さんの頬に手を添えて、そっと唇を重ねる。きっとお母さんなら、こうしただろうから。
「またしばらく会えないけれど、わたしのことを思い出すのもほどほどにして、ちゃんと生きるんだよ?」
「わかってる。志乃さんにたくさん土産話を持ち帰れるよう、ちゃんと長生きするよ」
「ふふっ、楽しみにしてるわ。じゃあ、またね、ユキトくん」
わたしがそう促すと、お父さんは立ち上がって、わたしの手を取った。それにつられてわたしも立ち上がると、お父さんがぎゅっとわたしを抱きしめる。
「うん。じゃあ、志絵莉のことは、任せたよ。……愛してる、志乃さん」
「わたしも、愛してるわ」
最後にもう一度口づけを交わして、お父さんは病院を後にした。
わたしはもうしばらくの間 待合に留まって、わたしの中に残る“志乃さん”が出ていってくれるのを待っていた。
でも、これで一つわかった。一番確認したかったこと。お母さんは、もう死んでいる。
病室に戻って院内着に着替え直したわたしは、化粧も落としてベッドに入る。身体の状態は心配だったけれど、さっき歩いた感じでは、もうほとんど回復しているようだ。明日には退院できるだろう。
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