1-3-10.四月二十六日③

 わたしが地下に落とされてからどれくらいの時間が経ったのだろう。園長先生は、わたしがいなくなったことを周りにどう説明しているのだろうか。それ次第では、助けは見込めないだろう。ちなつ先生は心配してくれているだろうけれど、助けに来れるとは思えない。業務が終わったとしても、彼女は肝心の出入り口を知らないのだ。

 しゅうくんへも信号を送ったが、どう助けに来てくれるつもりなんだろう。彼だって出入り口は知らないはず。ボディーガードの人に指示を出すとしても、ここに辿り着くことはできないんじゃないか。それに、この地下から電波が届くのかという不安もある。

 最悪の場合、わたしはここで死んでしまうのかもしれない。思考が悪い方、悪い方へと転がって、気持ちがどんどん沈んでいく。身体の寒さも相まって、まるで海の底へ沈んでいくよう――。


 すると、扉が開いて園長先生がやってきた。彼は水鉄砲を片手に、反対の手では小さな連れの手を取っていた。


「しえり、おねえちゃん……?」


 園長先生が連れてきたのはこうくんだった。

 何故こうくんが……? 嫌な予感がする。わたしとこうくんの関係を踏まえて、この部屋で行われることを考えると、もはや結論は一つしかないように思えた。

 そうか、それでこの部屋にはスプリンクラーと空調があるのか。これならどんな動物でも簡単に衰弱させることができる。これだけ相手が衰弱していれば、たとえ幼児でも相手を殺すことは現実的に可能となるだろう。


「さぁて、こうくん。しえりおねえちゃんが倒れちゃったぞ。しえりおねえちゃんはもうずっと眠ったままになって、このままお別れすることになっちゃうんだよ。悲しいねぇ」


 何を白々しい。しかし、まさか人間に対して“お見送り”が行われるとは思わなかった。動物を手にかけることだって心に相当な負荷がかかることだと思う。けれど相手が人間ともなれば、今はその事の重さを理解できなくても、大きくなって自分の行いを理解した時に圧し掛かる罪悪感は計り知れないだろう。


「しえりちゃん、しんじゃうの……? ねえ、えんちょーせんせ、どうすればいいの?」


「どうにもできないんだ。人も動物も、いつかはお別れしなくちゃいけないんだよ。だからしえりおねえちゃんに、こうくんもお別れしないといけない」


 止めなくちゃとは思うが身体が動かない。息をして、かろうじて瞬きをするので精一杯だ。このまま目を閉じたらそのまましばらくは目覚めない自信がある。


「こうくんにこれを渡そう。この水をしえりおねえちゃんにかけると、おねえちゃんはそのまま死んじゃうんだ。せめて最期は、こうくんがやってあげて」


 そう言って園長先生は、こうくんに水鉄砲を渡す。確かにこの状況で水をかけられたら、低体温症で死に至るだろう。もうほとんど指先の感覚もなくなってきている。


 無言のまま水鉄砲を受け取ったこうくんは、ゆっくりとわたしの方へ近付いてきて、両手で水鉄砲を支えて銃口を向ける。さっき園長先生に撃たれた感じからして、引き金一回分でもそれなりの放水量だ。いくら幼児の射撃とは言え、この至近距離ではかわす自信もない。もうほとんど詰んだようなものだ。


「こう……くん。……おいで」


 わたしは倒れたままで、精一杯の笑顔を向けて、こうくんに両手を広げてみせる。ちらと園長先生の方を一度振り返って、こうくんはその場に立ち尽くしていた。どうしたらいいのか、思い悩んでいるようだ。彼にこうして選択を迫ること自体、本来避けたいことではあったが仕方ない。彼自身の意思で、園長先生の指示に刃向かうのか、わたしを見捨てるのかを選ばないといけない。


 しかしこうくんが悩んでいたのもごく短い間だけで、泣きそうなのを堪えたまま水鉄砲を放り出して、一目散にわたしの腕の中に駆け込んできた。それをしっかり受け止めてあげると、熱いものがわたしの頬を濡らす。水は水でも、温かい。これならわたしは死なない。


「しえりおねえちゃん、しなないで……」


 彼はまだ充分に“あにまる保育園”の思想に染まっていなかったようだ。それもそのはず、本来はこの部屋でみっちりその価値観を叩き込むのだろう。しかし彼にわたしを殺させるなら、今回に限ってはそれほど悠長に構えていられない。彼の手にかかる前にわたしが死んでしまっては意味がないからだ。かと言って、わたしを弱らせ過ぎないようにすれば、こうくんを説得しようとしたり、抵抗する可能性もある。だから少なくとも、幼児相手に抵抗ができないくらいまでわたしを弱らせる必要があった。


 わたしが死ぬことを嫌がるこうくんに、それしか道はないとわからせるなら、園長先生はどうするだろう。対人間の“お見送り”はこれまでにあったのかどうかはわからないが、少なくとも多くはなかったはずだ。目論見通りにいかないというリスクを念頭に置いていても何ら不思議はない。

 考えようとしても、思考が上手く纏まらない。寒さのせいで、脳への酸素の供給が滞っているのだろうか。


「……ありがとう。死なないよ」


 君がわたしを選んでくれたから。あとはこうくん共々ここから抜け出せればいいけれど。

 しかしそう上手くはいかないのだろうという予想は残念ながら現実となって、不満そうな顔の園長先生は懐からリモコンを取り出した。それは恐らくさっきエアコンの操作をしていたものだが、機能がそれだけとは限らない。出入り口の操作やスプリンクラーの操作も遠隔で行っているのだろうと思う。そう考えると、一つのリモコンにそれらの操作機能を集約させている可能性はある。

 その可能性を考えた時に、最もされたら困ることは何だろう。そして、わたしに対して最も効果的な嫌がらせは何だろう。そうして園長先生の行動を先読みできたから、身体を上手く動かせないわたしでも、こうくんだけは守ることができた。


 園長先生がリモコンを操作すると、スプリンクラーが作動して放水が始まった。わたしは咄嗟にこうくんに覆いかぶさるようにして、彼が濡れないように庇った。エアコンの電源はまだ切れていない。この中でこうくんが水を浴びたら、身体も小さい彼はあっという間に低体温症になってしまうだろう。こうくんまで巻き込むなんて、なりふり構っていられないということか。


「素晴らしい! あれだけ弱っていてなおその反射神経! さすがは“天才遺児”だ!」


 そう高笑いする園長先生は、自分だけは濡れないように出入り口の扉の外側に立っていた。自分だけは安全圏で、自分よりも弱い存在を見下そうというわけか。本当にどうしようもないクズだ。


「しえりおねえちゃん! やめて! しんじゃうよ……!」


 わたしの身体が冷たくなって、震えていくのを感じたのか、こうくんが叫ぶ。思えば彼のこんなに大きな声を聞いたのは、これが初めてだ。わたしの身体の下から抜け出そうとするこうくんを逃がすまいと、ありったけの力を込めて彼を抱きしめる。


「大丈夫! 大丈夫、だから……!」


「その強がりもいつまでつかな? 死にたくなければ、大人しく言うことを聞けばいいものを」


 スプリンクラーの水はまだ止まらない。このままではこうくんを守るのも限界がある。だからといって、今のわたしにできることはない。今はただ、わたしは情けなく、力なく、惨めに助けをこいねがうだけ。最後まで諦めなければきっとどうにかなると、そんな最低な精神論に任せて祈り続けるだけだった。


——死に瀕したら走馬灯が見えると聞いたことがある。わたしの場合は何が見えるだろう。

 向こうの扉の奥から一紀かずきくんが現れて、高笑いしている園長先生を後ろから蹴り飛ばす。園長先生もこの冷気の元でずぶ濡れになって、あまりにも滑稽だ。一紀くんはわたしを見つけて、すぐに駆け寄ってきてくれる。そんな必死な顔して、まるでわたしが死にかけているみたいじゃないか。彼だってずぶ濡れになって、園長先生と取っ組み合いをして。そんなひ弱な身体で勝てるわけないのに。そういう時は、真っ向勝負じゃなくて、頭を使うんだよ。本当に君は、わたしがいないとダメなんだから――。


 ああ、これじゃあ走馬灯じゃなくて、ただの妄想だ。これがわたしの、無意識の中の願望なのだろうか。それにしたって、助けに来てくれたのが一紀くんとは。わたしもだいぶ彼のことを気に入ってしまったんだな。こんな形で別れることになるなんて、本当に申し訳ない。死に別れだなんて、わたしの死がまた彼の心に引っ掛かりを作ってしまう。


 わたしは助からなくてもいいから、せめてこうくんを助けてあげて。そうしてきっと一紀くんも萩くんも、わたしが死んだらこの世の終わりというくらい悲しんでくれるだろうから、わたしのいない彼らの今後の人生が、明るく幸せでありますように——。


 そう願いながら、わたしの意識は暗くて冷たい海の底に沈んだまま、戻ってこれなくなった。

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