1-3-11.四月二十七日①
――結果から言えば、わたしは助かった。
目を覚ますと、薄明るい月の光がカーテン越しに差し込んできて、つんとした薬品臭が鼻をつく。見慣れない部屋に、知らないベッドの上。ここが病院だと理解するのに、そう時間は掛からなかった。
何がどうなったのだろう。少なくともわたしは、自力では脱出できなかった。誰かが助けてくれたのだろう。
今はまだ何もわからない。だけれど体温も戻ってきて、手足も不自由なく動かせる。とりあえず、助かったということだけが今わかる事実だった。
目は覚めたけれども身体の怠さはまだ残っていて、起き上がることはできないまま、ベッドの上に寝転がっていた。
個室でなくていいのに、こんなに広い個室を用意してくれたのはきっと萩くんだな。まあ、これも労災と言えばそうだろうから、雇用主として彼が責任を感じたのだろう。
その後、モニターでわたしのバイタルを確認していたらしい看護師さんがすぐにやってきた。当直の先生に簡単な意識確認と検査をされて、今晩は様子を見ながらそのまま入院、明日にまた担当の先生に診てもらうことになった。いつ退院できるかは明日の検査次第だという。
何も情報が入ってこないというのは退屈で仕方がない。普段なら、こうした月明りだけの夜空を眺めて物思いに耽るのも悪くはないと思うが、今は知りたいことがたくさんある。そのどれをも知ることができないというのは、わたしにとっては苦痛で仕方がなかった。
結局、あれからほとんど眠ることはできなくて、朝早くに担当医の検査を受けた。
やはりわたしは低体温症になっていたようで、現在は回復に向かっているとのこと。先生が思っていたよりも回復が早いらしく、順調にいけば明日には退院できるそうだ。とりあえず今日はまだ身体の怠さも手足の震えも微かに残っているから、まずはしっかり休んで体温を戻すことが重要だと言われた。
先生と入れ違いになるように、珍しい組み合わせの二人が病室に入ってくる。萩くんと
わたしは咄嗟に手で顔を覆って、窓の方へ寝返りを打って顔を背けた。そんなわたしに、二人は心配そうに声を掛けてくる。
「先生、大丈夫か? まだつらいのか……?」
「いやぁ……その……化粧してない顔、あんまり見られたくないなぁと思って」
恐らく、二人には初めて見せるはず。二人ともわたしのことを可愛いとか好きとか思っているだろうから、こんなやつれて萎びれた姿を見たら幻滅してしまうかもしれない。
とはいえ、せっかく心配してやってきてくれたのに、顔を背けたままというのも感じが悪い。少しは元気そうな顔を見せて、二人を安心させてあげる方が良いのかもしれない。実際、今は大袈裟に心配されるような状態でもないし、二人には悲しい顔をしていてほしくないという気持ちの方が強い。
彼らに幻滅されたくないというのも、彼らのことを慮っているように聞こえて、結局は自己保身でしかない。そう思ったら馬鹿らしくなって、わたしはゆっくり振り返って上体を起こした。
「やっぱりいいや。心配して会いに来てくれたんだもんね。心配かけてごめんね、二人とも」
わたしの顔を見た二人は、一様に嬉しそうに、安堵の表情を浮かべていた。わたしの顔がどうとか、今は気にならないようだ。そんなことより、わたしが無事であったことが嬉しいのだろう。
「っていうか、二人はいつの間に仲良くなったの?」
すると萩くんは、急にばつが悪そうにしおらしくなった。珍しく、言葉に詰まっているようでもあった。そこを、意外にも一紀くんが助け船を出す。
「大丈夫だよ。
昨日、散々何を話したんだろうか。気になるから早く話してほしい。何を言われても怒らないから。
「先生……すまなかった。僕が軽く考え過ぎていた。まさかこんなことになるなんて……。気にするなって先生は言うかもしれないが、そういうわけにはいかない。本当に危なかったんだ。もしこのまま先生が死んでしまっていたら、僕は……」
話しながら感極まって泣き出しそうになる萩くんの背を、一紀くんが撫でてやっている。わたしも彼を慰めるように、手を伸ばして萩くんの頭を撫でてやった。
「結果として、こうしてわたしは生きてるんだから、それでいいじゃない。それに、一紀くんを寄越してくれたのは萩くんでしょ? だったら、わたしを助けてくれたのは萩くんでもあるわけじゃない? 君の判断は的確で、正しかったんだよ。だから、そんなに自分を責めないで」
驚いたような顔を見せる一紀くんと、ふっと目を伏せて口元に笑みを見せる萩くん。
こうして二人揃って現れた時点で、わたしが意識を失う前の妄想は妄想などではなく実際に目の前で起きていたことなのだとわかっていた。何も知らないはずの一紀くんがあの場所にやってくるはずはない。だとすれば、それを手配したのは萩くんなのだろうと、すぐに思い至ったのだ。
「さすがは先生だ。……だがそれについて、もう一つ謝らなければいけないことがある。先生を助けるためとはいえ、彼に事情を話してしまった。すまない」
やはりそうか……。できれば知られたくなかった。わたしの普通じゃない部分。それを知られれば、今でさえ生きている世界が違う彼は、よりわたしが遠くにいるように感じてしまうだろう。そう思っていたから。
だけれど、いつかは話さなきゃいけないとも思っていた。知ってほしいとも思っていた。矛盾した思いを抱えているのはわかっている。彼を巻き込みたくないし、彼に迷惑を掛けたくもないけれど、彼にはわたしのやっていること、わたしの生きている世界、見ている景色を知っていてほしかった。それをどう叶えるか早々に結論を導き出せなかったから、こうして不意の出来事として、彼に知られてしまうことになってしまった。
「萩くんは本家に居て来れないとは思ってたし、何らかの別の手を考えるだろうとは思ってたよ。それがまさか、一紀くんだとは思わなかったけど」
「彼ならすぐに駆け付けられる可能性があるうえ、“あにまる保育園”についても知っている。それに先生をみすみす死なせたりしないという確信があった。地下の入り口は、先生が回収してくれたデータを解析して見つけたんだ」
萩くんが何故その確信を持てたのかは、わたしにはわからない。わたしでさえ、その確信は持てなかっただろう。萩くんはどこか、一紀くんに自分に通じるものを感じたのだろうか。
「そっか。それで二人はこうして一緒に居る、と」
「今回はたまたま力を借りたが、今後馴れ合うつもりはない。別に仲良しなんかではないから気安く接するなよ?」
萩くんは一紀くんに強い物言いをするが、一紀くんは手馴れたように手をひらひらさせてそれをあしらっていた。萩くんの言葉とは裏腹に、やはり二人はそれなりに仲良くなったようだ。わたしが昏睡している間に色々と話をして、お互いに通ずるところがあったのだろうな。
「はいはい、それじゃあ俺は一旦 席を外すから、お先にどうぞ」
そう言って、一紀くんは病室を出ていった。これも、事前に話し合っていたのだろう。二人とも、わたしと一対一で話したいことがあるだろうし、それを尊重するための決め事なのだろう。
一紀くんがドアを閉めた後で、萩くんは鞄からいくつかの書類を取り出した。
「電子機器を持ち込むのも良くないと思って、印刷してきたんだ」
律儀というか、真面目な子だ。いや、わたし相手だから慎重になり過ぎるだけなのだろうか。万が一にもわたしに何かがないように、と。
「僕は僕のやるべきことをやらなければと、先生が回収してくれたデータを解析して、それをまとめてみたんだ。まずはこれを見てほしい」
萩くんから書類の束を受け取り、わたしは待ち侘びていたごちそうを与えられたように、貪るように書面に目を通していく。
“あにまる保育園”が行っていたことは、わたしたちが予想していた通りだった。だが予想通りだったというのは決して残念な結果ではなく、朗報ですらあった。わたしたちが机上の空論として構築した仮説が証拠を以って事実と証明されたのだから、それには大きな価値がある。
“あにまる保育園”で行われていたことは、獣医と共謀して意図的に動物を弱らせ、それを子供に殺させること。遺体は焼却炉で焼いて、墓地に埋めていたようだ。
その目的は、特定の思想を植え付けることで思考誘導が可能になるかどうかの実験を行い、サンプルを集めることだったらしい。サンプルを集めてどうするかまでは、現場まで情報が下りていなかったようで、情報を見つけられなかったという。
他に興味深いことは、やはりわたしのことを調べていたのと、わたしと同じ顔の女性について調べていたことだった。その中には
ただ、わたしが見かけた“優等生計画”なるものがあるということだけはわかった。そしてその計画は、わたしや憩都さんのような存在からサンプルを集めることで、何らかの形で完成されるらしいが、そこまではわからなかった。
他には……わたしたちや他の保育士さんたちが使用していたロッカールームは盗撮されていたらしく、映像と音声の両方が残っていた。ただ、リアルタイムでデータを送っているわけではなく、メモリーにデータを溜めて、それを後で回収しているようで、わたしがデータを収集した前日までの分しか映像と音声はなかったらしい。
「これ、萩くんも見たの?」
資料から目を放さずに問うと、萩くんは少し言い淀みながらも正直に答えてくれた。
「あー……いや、その……すまない。解析の過程で、少し……」
萩くんも男の子とはいえ、さすがにこのデータを個人的に保管していたりはしないか。一昨日までの分ということは、当然わたしの着替えているところも映っているはずだが、そこは彼を信じることにしよう。
保育士さんたちに対して盗撮、盗聴を行っていたということは、彼女らは園長先生と共謀していないのだろう。もし彼女らが園や園長に対して不信感を抱いているようなことがあれば、すぐに対処できるようにしていたのだろう。
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