1-3-9.四月二十六日②

 またそれか。わたしのお母さんが何者なのか、そんなに重要なことなのか。いや、その質問が重要な意味を持つ可能性があると気付いている時点で、わたしは既に普通じゃない世界に身を置いているのだろう。


「知りません。物心ついた時からお父さんだけで、今でもお母さんのことはお父さんから教えてもらえていません」


 すると、園長先生は椅子の後ろから抱えるくらい大きな銃を取り出して、わたしに向けて引き金を引いた。あまりに急な出来事に反応が追い付かず、わたしはそれを避けることもできずに一身に浴びた。そう、浴びたのである。大型の銃から放たれたのは、冷たい透明な液体だった。それを顔面から浴びて、身体も少し濡れてしまう。


「案ずるな、ただの水だ」


 何がしたいんだ、この人は。真面目な雰囲気で質問してきたと思ったら、水鉄砲で水をかけてくるなんて。もしもあれが本物の銃であればこの部屋ごと吹き飛んでいそうな代物だったから、冷静に考えれば本物ではないと今は思うのだが、まさか水鉄砲とは。いや、本当にただの水なのかはわからない。無臭ではあるが、口に含まないようにはしておこう。


「質問には正直に答えたまえ。でないとまた水をかけるからな」


「正直に答えたかどうかは、どうやって判定するんですか? わたしは正直に答えましたけど」


 実際は名前だけなら知ってはいるが、恐らくそれすらも教えてはいけないのだと思い、わたしは努めて強気で言い返す。しかし園長先生は、それを鼻で笑うだけだった。


「自分の親のことを知らないはずがないだろう。適当なことを言うな」


「言ってません。本当に知らないんです」


 そうしてまた、水をかけられる。あと何発分あるだろうか。今度は身体を狙われて、服がびしょ濡れになる。幸い、上にジャージを羽織っているので透けはしないが、濡れたままでいるというのも気持ちが悪い。あまり何度も受けたくはないな。


「ふふっ、水もしたたるいい女じゃないか」


「……水をかけて愉しみたいだけなんですか?」


 そう睨みつければ、園長先生はまたも愉快そうに笑う。わたしとしてはこの状況は極めて不愉快だが、不用意に彼を怒らせるべきじゃない。抵抗はせずに、まだ我慢していなければ。


「まあ、確かにこれは私の嗜好ではある。上から君が目的の人物か確認するように言われているだけだから、少しばかりそこに私の愉しみを混ぜたって構わないだろう?」


「悪趣味ですね……。要は、わたしが目的の人物ではないと証明できればいいんですね? どうすれば証明できますか?」


 その質問に、園長先生は少し考えこんだ。やはりこの男は、潜在的に女を服従させることを好むようだ。懇願するように言えば、わたしの意見も聞き入れてはくれる。そして恐らく、回答は歪んだ形で吐き出されるだろう。そこから真意を汲み取って、主導権を奪い返す。それが今のわたしにできることだ。


「今の君は限りなくグレーだ。その顔が何より、まったくの無関係でないことを物語っている。その顔の女を探し出し、誰から産まれたのかを突き止めるのが我々に課せられた使命なのだ。私だって手荒な真似はしたくない。ましてや君のようなか弱い女の子相手に……」


「……よく言いますよ。それとも、か弱い動物には罪悪感なんて抱きませんか?」


 また水をかけられた。気に食わないことがあれば水をかけてくるようだ。もはやわたしが正直に話すかどうかなど関係ない。そう、この水鉄砲は立場を明確にするための、こうして理不尽に水を浴びせられるわたしを嘲笑い、見下すためのものなのだから。


「知っているんじゃないか。まあいい。私の質問に答えてくれたなら、私も君の質問に答えてやろう。これなら少しは答える気になったか?」


「だから、知らないって言ってるじゃないですか」


 今度は腹に水をかけられた。まだ水が入っているのか。水がなくなったら何をされるのだろう。まだ園長先生はイラついていないようなので良いが、あまりイラつかせると暴力に走りそうなので、そろそろ発言も気を付けていった方が良いかもしれない。


「君は自分と同じ顔――いや、よく似た顔の人と出会ったことはないか? 君が直接会わなくても、そういった人を見かけたと話に聞いただけでもいい。たとえば……君の恋人からそんな話を聞かなかったかい?」


「……あなた、一紀かずきくんが通っていた時は園長じゃなかったですよね? 何で知ってるんですか?」


「直接“あにまる保育園”と関わりがなくても、当時から私は“青空教室”の社員だったからねぇ。話くらいは聞いてるよ。それで、どうなのかな? 聞いたこと、あるよね?」


 一紀くんが昔 関わったお姉さんの事故も、こいつらが関わっているのか。もしかしたら事故ではなくて、事件だったのだろうか。情報が隠されているのも、こいつらが関わっているせいなのだろうか。

 何が目的かは知らないが、彼らはわたしと同じ顔の女を追っている。一紀くんの話に出てきたお姉さんやわたしのお母さん、それに憩都けいとさん。明らかに偶然とは思えないようなそっくりさんの中に、彼らが探し求めている人物がいる。それはわたしなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。

 どこまで話していいのかわからないのは苦しいな。まるで地雷原を進んでいくみたいだ。


「聞いたことはありますよ。でも結局その話も、わたしがお母さんのことを知らないから何も解決してあげられなかった。わたしだってお母さんのことを知れるなら知りたい。逆にあなたは、わたしのお母さんのことを何か知ってるんですか?」


 わたしの言葉に、園長先生は少し考えこんだ。今度は水をかけられなかったあたり、何かしら思うところがあったらしい。


「ふむ……どうやら母のことを知らないのは本当のようだ。残念ながら、私も君のお母さんのことは知らない。だからこそ君に問うているわけだからな。となれば、別の話に移るとしよう」


 そう言って、園長先生はスーツの内ポケットからリモコンのような機器を取り出して、何かボタンを押した。リモコンにも見えるが、ボイスレコーダーか何かのようにも見える。どちらにせよ、ここからではその正体を確認できなかった。


「“優等生計画”……ですか?」


「そうか、それも知っているか」


 本当は中身までは知らないが、カマをかけて少しでも情報を得られたらと思った。わたしがそれを知っているとわかってもなお、彼から油断の色は消えない。


「知っているなら話は早い。君の母親が誰だったとしても、君の遺伝子には大きな価値がある。そして、純粋な天才から一世代分 不純物が混じった君が、どれほど天才から劣るのか。ぜひとも協力してほしい」


 言っている意味がわからない。純粋な天才とは、お母さんのことだろうか。わたしがお母さんよりもどれくらい劣るか、そんなことを調べたいがための実験か何かなのか。


「……嫌だと言ったら?」


 水をかけられた。最後は長めに放水され、どうやら水鉄砲の水は使い切ったらしい。


「断るならこちらにも考えがある。少しそこで頭を冷やしてよく考えるといい」


 そこでようやく立ち上がった園長先生は、水鉄砲を持ったまま背後の扉から外に出ていった。わたしの背にある扉の向こうと同じように、向かいの扉の奥にも暗い通路があり、そのさらに奥には地上へ続くと思われる階段がちらと見えた。あちらの扉はどこに続いているのだろう。


 部屋に一人残されたわたしは、淡い希望を抱いて向こう側の扉を開けようと触れてみるが、いくらか待っても開く気配はない。反応の悪い自動ドアというわけではなく、何かスイッチで操作して開閉していたようだ。試しに力で引いたり押したりしてみるが、開くことはなかった。やはり外から鍵を掛けられているらしい。わたしが入ってきた扉の方にまで鍵がかかっており、わたしは完全にこの部屋に閉じ込められてしまっていた。


 部屋の中に残されたものといえば、先ほどまで園長先生が座っていたパイプ椅子と、天井に備え付けられた蛍光灯くらい。後は出入り口になりそうなのはダクトだが、さすがにわたしが通れるような大きさではない。

 その他に観察してみると、天井にはいくつか機器が埋め込まれているようで、何らかのセンサーのようなものや、煙感知器のようなものが取り付けられていた。


 壁沿いを歩いてみると、端から端まではおよそ七歩の正方形。壁際をぐるりと一周するように溝があり、濡れた髪や服を絞って水を流してみると、四つの角に向かってそれぞれ流れていくことがわかった。この部屋は中央が隆起したような形状になっているらしい。この溝があるということは排水機能があるということで、つまりはこの部屋で水を使うことが想定されているということだ。


 さっきから少し肌寒い気がして、少しずつ嫌な可能性が頭を過り始めた。そしてその可能性が現実味を帯びるように、突然天井から水が降り注ぐ。天井についていた機器の一つはスプリンクラーだったらしい。水が降ったのはごく短い間だったけれど、たったそれだけでもわたしはびしょ濡れになった。

 どこからか冷たい風がすーっと吹いてきて、濡れたわたしの体温を奪っていく。よくよく見れば、天井の端にもわずかな隙間があり、そこから風が出ているらしかった。恐らくエアコンが取り付けられているのだろう。さっき園長先生が操作していたリモコンは、もしかしたらこのエアコンだったのかもしれない。


 何はともあれ、このままではマズい。とりあえず濡れたものをどうにかしなければ、命に関わる。

 髪は長くなくて助かった。水気を絞って、あとはくしゃくしゃにして水気を飛ばす。今は恥ずかしさなど気にしている場合でもないので、服も一度全部脱いだ。固く絞って大きく振り、水気を飛ばす。それでも完全には乾かし切れなくて、比較的乾いたものから身に付けていく。

 さっきよりはマシだが、それでもエアコンの冷風が当たると身体が冷える。せめて冷風を直接浴びないようにと送風口の真下に移動してみるも、向かい側にも送風口があって、室内がまんべんなく冷えるように作られているようだった。仕方がないので、送風口のない方の壁に寄りかかるように座り込んだ。


 少し頭を冷やして考えろとは言われたが、こんな物理的に冷やされるとは思わなかった。園長先生は戻ってくるのだろうか。戻ってくるとして、どれくらいで戻ってくるのだろう。

 体力が尽きたらそれこそ終わりだと思っていたが、あまりに冷えてしまうようなら身体を動かして温めた方が良いだろうか。身体が震え始めて、そんなことを考え出す。徐々に熱と共に体力が奪われ、座っていられなくなって、冷たい床に寝転がる。床はまだ濡れていて、転がるのは悪手だったなと思っても、起き上がるだけの気力はなかった。

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