1-3-7.四月二十五日②

 お迎えの時間になって、ようやくわたしと話ができると思ったのか、こうくんがいそいそとこちらに寄ってくる。


「しえりおねえちゃん、きょう、さいごまでいる?」


 不安そうなこうくんを安心させるように、わたしは笑顔を見せながら返す。


「いるよ。ごめんね、なかなかお話しできる時間なくて」


 今日はお昼寝の時間も別の仕事をしていて一緒にいられなかったからこうくんも眠れなかったのか、わたしの近くに座ったと思ったら、わたしの膝の上に倒れるように横になってしまった。


「眠い?」


「ねないよ」


 即答はしながらも、身体を起こそうとはしない。頭を撫でてやれば、ゆっくりと目を閉じていってしまう。強がっていても、やはり疲れてはいるのだろう。


 一紀くんといい、“あにまる保育園”はこうした甘えん坊を生み出してしまうのか? こうくんの家は共働きらしいから、母親に甘えられる時間が多くないのだろう。思い起こしてみれば、一紀くんも自分ではお姉さんが好きと言っているが、わたしに求めている役割はどちらかというと“母親”ではないだろうか。そういう甘え方をしてくる。

 “母親”を求めていると言えば、しゅうくんもそうだ。萩くんは“あにまる保育園”とは直接関係ないはずだけれど、“母親”への執着が強い。これは偶然なのだろうか。わたしの周りには何故か、そんな子が多いように思う。


 そんなことを考えていると、いつの間にか こうくんはすっかり眠ってしまったらしく、穏やかな寝息が聞こえてくる。そこにタイミング悪く、お迎えがやってきてしまった。


「こうくん、お母さんお迎えに来たよ」


 みちる先生が呼びに来ても、こうくんはなかなか起きない。いや、起きてはいるが、わたしから離れようとしない。それを見かねたみちる先生が、苦笑しながら入り口で待っているこうくんのお母さんに視線を遣った。


「しえりちゃん、悪いんだけど、そのままお母さんのところまで連れていってくれる?」


「わかりました」


 寝ぼけたままのこうくんを抱えて、わたしは入り口で待つこうくんのお母さんの元へ彼を連れていく。こうくんもわたしに抱かれるがままに、むしろ彼の方からわたしの方に抱き着いてくる。

 そんなわたしたちを見て、こうくんのお母さんは驚いているようだった。


「こんばんは。こうくんのお母さんですか?」


「はい。寝ちゃったんですね。もしかして……しえりさんですか?」


「え、あ、はい」


「やっぱり! 昨日、帰りの車でもお家に帰ってからも話してくれてね」


 こうくんとしても、昨日は楽しかったようだ。それにお母さんの反応を見るに、こうくんは普段、保育園の話を家でしないのだろう。だからお母さんも、こうくんが保育園の話をしてくれて嬉しかったのだろう。


「そうだったんですね」


「昨日は珍しく車で寝ないと思ったらねぇ。実習は今週いっぱいなんでしたっけ?」


「はい、そうなんです。その間に少しでも、こうくんのためになることが何かできたらいいなと思っています」


「ありがとう。うちの子、しえりさんのこと好きみたいだから、短い間だけど仲良くしてあげてね」


 ちらとこうくんに視線を向けると、恥ずかしそうにそっぽを向かれてしまった。そういう態度を取られると少し意地悪したくなってしまうが、この年齢の子をいじめるのはさすがに大人げなさ過ぎる。


「ふふっ、わたしたちはもう充分仲良しだよね?」


「うん……!」


「また明日も会えるから、今日はそろそろお家に帰って、ゆっくり休んでね。ほら、お母さんのところへ行っておいで」


 そう言って、抱きかかえていたこうくんを下ろすと、少し寂し気ながらも、こうくんはゆっくりとお母さんの元へ歩いていった。この年齢の子にお母さんよりも懐かれるって、なかなか希少な経験なのではないかと思う。こうくんはきっとわたしのせいで、一紀くんのように“お姉さん”というものに執着する子になってしまうんだろうな。


「またね、しえりおねえちゃん」


「うん、またね、こうくん」


 バイバイ、と手を振るこうくんに手を振り返して、彼はお母さんに連れられていった。


「こうくんはなかなか心を開いてくれなかったんだけど、すごいね、しえりちゃん。もうすっかり懐かれて」


「何て言うか、ああいう子に好かれやすいみたいで」


「へぇ、もしかして彼氏さんもあんな感じなんですか?」


 みちる先生からしたら何気ない一言だったのかもしれないけれど、園長室で見てしまった資料を思い出して、少しの不気味さを感じてしまった。

 わたしはみちる先生に彼氏がいるだなんて言っていない。他の誰かが言った可能性はもちろんある。でもそうじゃなかったら……?

 わたしの彼氏についてどこまで知っているだろう。園長先生の鞄にあった資料には、卒園生の池田いけだ一紀と恋人関係にあると記載があった。一紀くんと仮初の恋人関係になったのは、たったの一週間と少し前だ。それを調べあげていた園長先生。そしてみちる先生もそれを知っていたとしたら、園長先生とみちる先生は共犯という可能性も出てくる。

 ちなつ先生は無関係そうだったからといって、他の保育士さんも無関係とは限らない。迂闊な言動は控えたい。


 とは言え少々考え過ぎな気もする。考え過ぎて空回りして、墓穴を掘ることは避けたい。ここは極めて普通の対応をしよう。


「そうなんですよ。甘えん坊で困っちゃって」


「え~、可愛くていいじゃないですか」


 まあ、可愛いかと言われれば可愛いのはそうだと思う。というより、言うほどわたしは一紀くんに不満を抱いていない。それほど彼のことに頓着していないことの表れなのかもしれないが、わたし自身は彼との関係に対して前向きな意思を持っているつもりだ。


「可愛いのは否定しませんけどね。甘えられてばかりも困りものですよ」


 別の子のお迎えがちょうどやってきて、この話はここまでになった。結局、みちる先生が園長先生と共謀しているのかどうかはわからず終いで、今日はそのまま帰ることになってしまった。


 帰りに園長先生に今日一日の報告をしたが、特別昨日と変わらず、怪しまれているようでもなかった。だが、油断はしないようにしたい。あれだけわたしのことを調べあげていたんだ。何かわたしに目を付けている理由が間違いなくあるはず。

 まずはそのことも含めて萩くんに報告して、園長先生のPCから吸い出したデータを解析してもらわなければ。



 帰りに萩くんの家に寄り、呼び鈴を鳴らす。すると、少しの間があって、佐路さじさんが出てきた。


「志絵莉様、せっかくお越しいただきましたのに申し訳ございません。現在 萩様は大変ご多忙でございまして……」


 あの・・萩くんが、わたしと会う時間を割くこともできないほど多忙を極めているとは。珍しい。彼なら何よりもわたしを優先しそうなものだが。わたしよりも優先されそうなことがあるとすれば、彼のに関わることなのかな。


「ああ、大丈夫です。では、こちらを彼に渡していただけますか?」


「お預かりいたします」


 佐路さんが恭しく機器を受け取ると、慌ただしい足音と共に、玄関の向こうから萩くんが顔を駆けてくる。


「先生、せっかく来てくれたのに本当にすまない……。明日から泊まりがけで本家の方に行かなくてはいけなくなってしまったんだ。これまで通りボディーガードも置いておくし、データの解析も進める。だが、解析の結果もすぐには伝えられないだろう。どうか、無茶だけはしないでくれ」


 息を切らしながら矢継ぎ早に言いたいことだけ言った萩くんは、またすぐに家の中へ入っていってしまった。忙しない主人のサポートは、セレナさんが付きっきりでしているようだ。ちらと玄関先から覗き見た室内で、右往左往している姿が見えた。


「今日は送ってもらわなくて大丈夫なので、佐路さんも萩くんについてあげてください。他人の心配をしてはいますが、彼の方がよっぽど危なっかしいですから」


「お気遣い痛み入ります。志絵莉様も何とぞお気を付けくださいませ」


 データの受け渡し以外にも、萩くんには園長室で見たことを色々話しておきたかったけれど、それは後でまとめてメッセージで送っておくことにした。



 家に帰ってきたわたしは、園長室で見つけた書類のことを思い起こしていた。

 わたしの知らないところで何かわたしに関わることが調べられているというのは、何とも気味が悪い。そして何らかの計画、研究にその情報が使用されようとしている。

 もしかして、お母さんのことと何か関係があるのだろうか。わたしに明かされないお母さんの秘密が関わっていることなのだろうか。


 お母さんのこともこの計画のことも、知っているとしたらしかいない。どうせ教えてくれはしないだろうけれど、聞くだけ聞いてみるか。そう思って電話を掛けてみると、意外にもすぐに繋がった。


『おい、またか……。最近多いな』


 電話に出るなり、すぐさま呆れたようなため息をわざと聞こえるように吐く。電話に出る前から発信元はわかっていたはずなのに、あえて聞かせたかったようだ。


「悪いと思ってるよ。人遣い荒くてごめんって」


『それで、今度は何が聞きたいんだ?』


「“天才遺児”、“優等生計画”について、何か知ってる?」


 彼は再び深いため息を吐いた。呆れられたかと思ったが、いつもなら嫌味の一つでも言ってそのまま通話を切るであろう彼が、少し柔らかい調子で返してきた。まさか、心配してくれているのだろうか。


『お前……何に関わってる? 妙なことに首を突っ込んで死んだとしても、さすがに自業自得だぞ?』


「いいから。どうせ教えられないことなんでしょ? 知ってるか知らないかだけ教えて」


 恐らく彼は知っている。内容を教えてくれはしなくとも、もし危険なことであればわたしを全力で止めるだろう。彼はそういう人だ。だから彼でも知らないことだったら、わたしはこのまま手を引こうと思っていた。


『お前相手に嘘を通せる自信はないから正直に言うが、もちろん知っている。だが確かに、それについて教えることはできない。お前にはそれを知る権限がないからな』


 予想通りの答えだった。しかし予想通りでなかったのは、彼がさらに言葉を続けたことだった。


『ただ、一つ教えておいてやろう。この間 調べさせられた“雨村あめむら憩都けいと”とかいう女がいただろ? あれもその計画の当事者だ。本人がそのことを知っているかは知らないがな。悪いがこれ以上は、今の・・お前には言えない』


 今の・・ということは、いずれわたしはそれを知る権限、機会が与えられるということだろうか。

 それにしても……まさかここで憩都さんが関わってくるとは。わたしと顔の似ていたのは、やはり偶然ではなかったのだろう。わたし自身やお母さんと関係のある人物なのだろうか。


「ありがとう。それだけで充分だよ」


『……“あにまる保育園”を調べてるんだろ? 例の御曹司の言いつけだろうが、あまり面倒事に首を突っ込み過ぎるな。危険なのはお前だけじゃない。周りを巻き込む可能性もあるということを自覚しろ。お前個人ならともかく、お前の家族や恋人、お友達までもを守ってやる義理は俺にはないからな?』


「へぇ、わたしのことは守ってくれるんだ」


 今日の彼のやたらと優しい態度を不審に思っていたが、やはり心配してくれていたらしい。彼とは中学時代からの仲ではあるが、気難しい彼がわたしをどこまでの間柄だと認識しているかはわからなかった。わたしが思っているよりも親しく思ってくれているようで、少し嬉しい。


『それが真悠子まゆこの望みだからな』


「あー……そういうことね」


『それもあるが……これは話さないつもりだったんだがな。まぁいいだろう。お前という優秀な人材を失うのは大きな損失になると、俺は思っているんだよ』


 わたしのことは、あくまで人材としてしか見ていない、と。言い方が彼らしい。それでも、あの彼がわたしにそれほどの価値を見出してくれているのは素直に嬉しかった。


『いずれ、今 俺が関わっている計画にお前を引き入れようと思っている。ただ、今のお前はただの大学生。何の肩書も功績もない。俺が推薦したとして、お前の後ろ盾になるのはせいぜい翠泉の首席というくらいだ。周りを黙らせるには、お前自身が何らかの功績を挙げる必要がある。そういう意味で、今回の“あにまる保育園”の件はお前にとって試金石になるだろう。だからこそ、こんなところで死んでもらっては困る』


「その計画にわたしが迎え入れられたら、これまで話してもらえなかったことも話してもらえるの?」


『恐らく、許可は出るだろう。無関係ではないからな』


 無関係ではない、か。彼の関わっているという計画がどんなものかは知らないが、わたしに対して伏せられている様々なことを教えてもらえるなら、どんな計画だったとしてもわたしは関わりたい。

 そのためにも、ここで何かしらの成果を挙げなければ。そう焦る気持ちもありながら、萩くんにも彼にも再三のように無茶をするなと言われている。それがどういうことかをきちんと理解しないといけないな。


『週末に真悠子と出掛けるんだろ? 楽しみにしているようだから、ちゃんと約束を守ってやってくれ』


「はいはい、わかってますよ。約束破ったら、過保護な旦那さんに怒られちゃうからね」


 わかっているならいい、と通話を切られて、わたしは背中からベッドに倒れ込む。



 今日は情報量が多すぎた。自分自身でもいまいち処理しきれているか自信がない。本当は萩くんに渡したデータの解析を待ちたいが、そうも言っていられない。明日も実習はあるし、こうくんとチャミちゃんのこともある。いつ“お見送り”が行われてもおかしくはない。

 それに、恐らくだけれど、園長先生がわたしを調べていたということは、わたしが実習に来ている間に何らかの動きを見せる可能性がある。その何らかの動きというのが、わたしと仲良くしているこうくんに“お見送り”をさせることである可能性は充分考えられる。できればそれだけは避けたい。

 ならわたしがすべきことは何だろう。わたしができることは何だろう。


 常に抱えているマルチタスク、慣れない環境もあって、よほど疲労が溜まっていたのかもしれない。肝心のそれを考え付く前に、気が付いたらそのまま意識を落としてしまっていた。

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