1-3-13.四月二十七日③

 しゅうくんはこれから警察とも事件のことで話さなければいけないらしく、名残惜しそうに病室を出ていった。

 そうして少しすると、律儀にノックしてから一紀かずきくんが入ってくる。萩くんと同じように、ベッドの脇の丸イスに座った。


志絵莉しえりさんって、やっぱりすごい人だったんですね」


 開口一番に言われたのがそれだった。もちろんその言葉には様々な意味を含むのだろうけれど、一紀くんにとっては驚きが一番だったのかもしれない。


「そうだよ。なんたって翠泉すいせんの首席なんだから」


 そうですね、なんて、軽く笑い飛ばされる。別に冗談で言ったつもりじゃないんだけれど。実際、翠泉の首席になるような人間は、わたしみたいに色んな人から注目されて、狙われて、頼りにされているんだと思う。それを言いたかったんだけれど、たぶん伝わらなかったんだろう。


「今回のことや志絵莉さんのこと、俺の方から色んなことは聞かないことにします。ただ一応、俺もさっきのお坊ちゃんから聞いて、大体の事情は知っています。志絵莉さんが“あにまる保育園”で何をやってきたのか、という程度のものでしたけど、それでも充分に、志絵莉さんが“化け物”だってことはわかりました」


「“化け物”って……随分な言われようだね」


 まぁ、一紀くんらしいと言えばそうか。彼からしたら、わたしは見えている世界、生きている次元の違う何か――まさしく“化け物”だったのだろう。


「すみません、他に適切な言い方が見つからなくて……。俺は志絵莉さんほど頭の出来が良くないですから、知ってもいいことと知っちゃいけないことの区別がつきません。だから志絵莉さんが、俺に伝えるべきかどうかを判断してください。もし俺に話してもいいと思えることがあれば、これまでみたいに――いや、これまで以上に話してくれたら嬉しいです」


「わかった。じゃあ、おいおい話してあげるよ。一紀くんはわたしの秘密を知っても気持ちは変わらなかった? もうこんな女と関わるなんてごめんだって思わなかった?」


 こんなこと、もう何回も聞いている気がする。こんなことを聞いたって、彼の答えはきっと決まっている。それでも聞きたいのだ。彼の口から。彼の言葉で。


「思いませんよ。むしろ、本当に俺なんかが志絵莉さんの隣に居ていいのかなって思います。志絵莉さんは俺を隣に置いておいて、俺に何を求めてるんだろうって、思います。志絵莉さんと居るのは楽しいですけど、ふと怖くなることがあるんです。俺は、志絵莉さんに望まれた役割を全うできてるのかなって」


 酷いことを考えさせている。少なくともそれは、恋人のする思考ではない。そんな思考では、わたしを好きになってもらうなんて到底できないだろう。わたしがそうさせていたんだ。

 彼を見くびっていた。彼はわたしが思っている以上に利口で、勘が良い。わたしという人間を、直感的でもよく捉えている。その上で、望んでわたしに縛られて傍に居てくれる。こんな相手、そうそう巡り逢えないだろう。あまりにも悲劇的な出会いだ。


「一紀くんにどんな役割も望んでないよ。一紀くんのしたいようにしていてほしい。わたしだってね、こう見えて普通の女の子なんだ。本当だよ? そういうわたしを見て、関わってほしいの。わたしが何者でもない、ただの上杉うえすぎ志絵莉で居られる場所が、君の隣であってほしいの。だから考え過ぎないで。わたしだって、そんなに色々考えながら一紀くんと関わってるわけじゃないから」


「えっと、つまり、俺とは頭使わずに関わっていたい、と?」


 そう、端的に言うとそれが事実だ。わたしは頭を使って人や物事と関わることが多い。萩くんのこともそうだけれど、翠泉に居る以上、様々な思惑や人間関係に悩まされることになる。そうした中で、考えを巡らせずに関われる人間が居るというのは、わたしにとっては大きなことだ。

 だけれど彼からしたら、頭を使わずに関わりたいというのは、軽んじられていると感じるかもしれない。決してそんなつもりはない。ないのだが、今回わたしを“化け物”と評すほどわたしの人並み外れた面を見てしまった彼は、普段からそうした面を自分にも見せてほしいと思うかもしれない。それなのに何故そうしてくれないのかと思うかもしれない。恋人・・であるわたしがそれほどの人物であるということは、彼にとっては誇らしいことのはずなのだから。


「まあ、その……言い方は悪いけど、そういうこと。でも、何も考えてないってわけじゃないからね。本当は、君という人間を知るために随分頭を使ったけれど、これからはできたら、一紀くんと居る時は気楽に居たいなぁって思ってるの。……それじゃあ嫌だ? 一紀くんの前でも“化け物”なわたしで居てほしい?」


「いえ、あんまり頭働いてない時の志絵莉さん、めちゃくちゃ可愛かったので、ぜひそうしてください」


 これまでにあまり頭が働いていない姿を見せたつもりはないが……しかし、一つだけ思い当たることがあった。


「え……あ、この間の酔ってた時? 待って、本当に覚えてないんだってば。やめてよ、わたし何したの……?」


「めちゃくちゃ可愛かったです」


 可愛かったと言われても、わたしのどんな姿を見てそう思ったのかによっては素直に喜べない。それに、自分の知らない自分の姿を可愛いなどと言われるのは、恥ずかしくて仕方ない。


「もう、わかったから……」


「この間 動物園に行った時、俺はやっぱり志絵莉さんが死ぬのは嫌だって話をしたじゃないですか。本当のところは、実際にそういった場面に遭遇した時、ちゃんと志絵莉さんを助けられるか心配だったんです。結局俺は、動けないんじゃないかって。でも、ちゃんと動けました。自分でもびっくりするくらい、考える前に動いていた気がします。それで良かったんですよね。俺、普通になれてましたか?」


 ああ、そんなところでもわたしは彼を縛っていたのか。いや、これに関しては変わってくれて良かったのかもしれない。気にし過ぎるのは良くないけれど、自分が普通ではないということを理解してくれて、危機感を持ってくれた。これなら万が一、何者かが彼の異常な部分に付け入ろうと接触してきても、何らかの引っ掛かりを覚えてくれるかもしれない。


「うん、カッコよかったよ。ちゃんとできて、偉かったね。よしよし」


 わたしがベッドから手を伸ばして――本当は頭を撫でてあげたかったけれど届かなくて、彼の頬を撫でてやった。彼は照れ臭そうに、それでいて満足そうに微笑んで、されるがままに撫でられていた。


「一紀くん、そういえば今日、学校は?」


「もちろん休みましたよ。昨日も、午後はすっぽかしましたし」


 まだ一年生だし、授業をすっぽかしてもそこまで影響はないか。それでも、わたしのせいで入学して早々に欠席させてしまったのは申し訳ない。まだ入学して一ヶ月も経っていないというのに。


「そんなにわたしを心配してくれてたの?」


「当り前じゃないですか。俺、今まで記憶にある中で学校休んだの初めてですよ。まさかこんな形で初めて休むことになるなんて思いませんでしたけど」


「じゃあわたしが、一紀くんの初めてを奪ってしまったわけだね」


「志絵莉さんにはいくつも初めてを奪われてしまってますからね。まあ今回のことに関しては、二回目はないと良いんですけどね」


 萩くんほど目に見えて心配していないようだったけれど、一紀くんも結構心配してくれていたようだ。ちょっと言い方が意地悪なのは、わたしが彼の知らないところで命を危険に晒していたのを怒っていたりするのだろう。


「心配してくれたのは嬉しいけど、わたしはもう大丈夫だから、明日はちゃんと学校に行くんだよ?」


「わかってます」


 これじゃあお姉さんじゃなくてお母さんだな。あんまりお節介を焼き過ぎると反抗期が来てしまうかもしれないから、彼を信じて気にかけ過ぎないようにしなくちゃな。


「……あの、志絵莉さん」


「どうしたの?」


「志絵莉さんは……俺が将来的に、犯罪者になるって思いますか?」


 萩くん、そこまで話したのか。その話はあまり言ってほしくなかったな。

 しかし……何と答えたものか。そんな話を聞けば、当然気にしてしまうだろう。それに、自分の思考がいつの間にか犯罪者のそれとして育ってしまっていたのは彼に責任があるわけではないとしても、自分自身でそう認識できていないのは苦しいだろう。いつ自分が犯罪を犯してしまわないかと不安で仕方ないかもしれない。何せ自分が当たり前だと思ってきた価値観が、犯罪――特に殺人に向いたものだと知らされたならば。


「なるかどうかで言えば、何とも言えないと思う。少し前までの一紀くんなら、わたしはなる可能性の方が高いと思ってた。でも、一紀くんはこうして変わってくれた。自分の普通じゃないところを知って、それを変えようと思ってくれた。それはすごく大きなことだよ。それに、わたしがついてるんだから、一紀くんを犯罪者になんかさせないよ」


「そう、ですか。やっぱり前の俺は、危うかったんですね。でも、そう言ってもらえて良かったです。少し、安心しました」


 ほっと息を吐く一紀くん。今回彼が知ることになった情報は、彼の中の価値観を大きく揺るがしただろう。相当なストレスになったはずだ。


「ごめんね、一紀くんもびっくりしたでしょ。わたしのことだけじゃなくて、色んなことを知っちゃって、整理がつかないこともあると思う。今日はせっかくだから、ゆっくり休むといいよ。スマホは返してもらえたから、何かあれば連絡してくれてもいいし」


「あ、そうだ。いつもの“今日の自撮り”、今日の分もらってないですしね」


 言われてみれば、昨日 保育園に行く前に送ったのが最後か。何だかんだ日課になって、毎日送っていたしなぁ。できれば継続してあげたいところだけれど、さすがにそういうわけにもいかない。


「いや、その……退院できるまで我慢してもらえない? さすがにこんなボロボロの状態を写真に残したくなくて」


「じゃあ退院したら、その日は二枚送ってください。それで許してあげましょう」


「ありがとうございます」


 何でわたしが許されなくちゃいけないのだろう。よく考えずにお礼を言ってしまったが、別にわたしは悪くないと思うんだけれど。


「じゃあ、俺はそろそろ帰りますね。無理しないで、ゆっくり休んでくださいよ?」


「わかってる。またね、一紀くん」


 一紀くんに手を振って見送ると、彼も小さく手を振って、部屋を出ていった。すると入れ違いになるように、また誰か病室に入ってくる。やってきたのは百花ももかだった。


「ねえ、今の彼氏でしょ」


 彼女は鼻息を荒くして、真っ先にそんなことを言う。そういえば、百花には一紀くんの写真すら見せたことはなかった気がする。それにしては、よくわかったな。


「そうだけど……何でわかったの?」


「なんとなく、雰囲気で。志絵莉が好きそうな感じだったし」


 わたしが好きそうな感じってどんなのよ。わたし自身がそれをわかっていないんだけれど。百花とは付き合いも長いけれど、わたしの好みまで正確に把握されているというのは恐ろしくもある。他にはどんなことを把握されているのやら。

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