1-3-4.四月二十四日④

 給食の後はちょっとしたお勉強の時間。四歳児クラスからは、文字の読み書きや計算、英語活動といった教育的プログラムを導入しているそうだ。わたしもその補助に入る。今日はさっき描いた動物の絵に、その動物の名前を書き入れるらしい。


 こうくんがちらちらとわたしの方を見てくるので、彼の元へ寄ると、彼はわたしの胸元――に付けられた名札を気にしているようだった。わたしがさっと名札を手で隠すと、こうくんは何か言いたそうにこちらを見つめてくる。


「こうくん、おねえちゃんの名前、覚えた?」


 すぐには出てこないのか、少し悩んだ末にこうくんは声を絞り出した。


「し、し……え、り? しえり、おねえちゃん?」


 疑問形なあたり、自信はないようだ。でも合っていたので、わたしは名札から手を放し、彼に見せてやる。


「そう、しえりです。なんかね、自分の本当にやりたいことを探しながら、自由に生きてほしいっていう意味で、名前付けてくれたんだって。こうくんは、自分の名前、どんな意味でつけてくれたのか、聞いてみたことある?」


 わたしがそんな話をすると、彼は不思議そうに首を振った。


「ううん、ない」


「かっこいい名前だから、きっといい意味が込められてると思うよ。ここの動物たちの名前も、みんなで決めてるんでしょう? かわいい名前とか、かっこいい名前が多いよね」


「うん、チャミはぼくがなまえつけたの」


 一番仲が良かった子として選ばれるもう一つの可能性は、名付け親。自分が名前を付けたとなれば、思い入れもひとしおだろう。つまりこうくんは、恐らくチャミちゃんと一番仲が良かった子に該当する可能性が高いということだ。

 わたしが実習の間に“お見送り”が行われる可能性はあるだろうか。本当は園としてはやりたくないだろう。園の方に多少なりとも罪の意識があれば、その行いを隠そうとするはずで、外部の人間がいる前では何か想定外の事態が起こるリスクもある。

 だけれど、チャミちゃんの容態次第ではそうも言っていられない。種を蒔いて、二年かけて育ててきた芽の絶好の収穫時期を逃すわけにはいかないはずだ。こうくんに接触する人間に注意を払っておこう。


「良い名前だね」


 わたしがそう言うと、ずっと仏頂面だったこうくんが、わずかに笑みを見せた気がした。



 お勉強の後は、すぐにお昼寝の時間がやってくる。四歳児にもなると、お昼寝の時間といっても眠ってしまえる子とそうでない子が出てくる。とはいえ基本的には眠ってもらうように促して、どうしても眠れない子には静かに休んでもらう形を取っているそうだ。


 愛淑あすみが懸念していたように、わたしも寝かしつけに自信はない。とりあえず皆の様子を見守りながら、布団を敷くのを手伝った。

 すると、はるか先生に声を掛けられる。子供たちには聞こえないように、そっと。


「しえりちゃんは、こうくんを見ててあげて。しえりちゃんがいたら、寝てくれるかも」


 わかりました、とわたしはこうくんの元へ向かった。


 はるか先生の言葉から推測するに、こうくんは普段は眠れない側の子なのだろう。それに薄々気付いていたが、この保育園において彼は少なからず問題児なのだと思う。悪い子というよりは、保育士の意に沿わない扱いづらい子、といったところだろう。それをわたしに預けることによって、彼に何かしらの変化を期待しているのだろうな。さっきのお絵描きの時間に彼が心を開いてくれたのも、珍しいことだったのだろう。


「こうくん、わたしもちょっと休憩しようと思うんだけど、隣に居てもいい?」


「いいけど……ぼく ねないよ?」


 最初から寝ない宣言とは、なかなか強気じゃないか。こういうことを言われると、意地でも寝かしつけてやりたくなる。


「別にいいよ。わたしも休憩するだけだから。ほら、横になって」


 寝ないとは言いながらも、ちゃんと布団の上に横にはなるらしい。わたしは隣に腰を下ろして、彼の手を握りながら、頭を優しく撫でてやる。


「しえりおねえちゃん、なんさい?」


 不意に、こうくんが尋ねてくる。


「今は十九歳。もうちょっとすると、二十歳になるよ」


「ふーん……。うちのママより わかいんだ」


 それはまあ、そうだろう。逆に、ママの方が若いとか言われる方が驚く。

 急に何を聞いてきたかと思えば、いつの間にかこうくんは目を閉じて、呼吸も深くなっていた。ちゃんと胸が上下しているので、間違いなく呼吸はしている。寝ないと言っていたのにこんなにあっさり寝てしまうもんだから、何かあったのかと思ってしまう。


「こうくん、寝ちゃった?」


 そっと近付いてきたはるか先生が小声で聞いてくる。改めて見てみても、穏やかな寝息を立てて眠りについているように見える。


「たぶん……」


「ナイス、しえりちゃん。こうくん、本当は疲れて眠いはずなんだけどね。保育園ではなかなか寝られなくて。いつも帰りの車の中で寝ちゃうみたいなんだ。しえりちゃんが居てくれたおかげで、安心できたのかもね」


 今日初めて会ったばかりなのに、すっかり懐かれてしまったらしい。かと言って、あまりこうくんだけにベタベタし過ぎるのも考えものだ。わたしは学生であって保育士ではないから、贔屓しているだ何だという保護者からのクレームなどどうでもいいが、子供たちの間でそう思われて、こうくんの今後に関わるのは避けたい。これからもずっとわたしが守っていってあげられるわけじゃないからな。


 こうくんは眠ってしまったようだし、その間にわたしもはるか先生を手伝おうと思って立ち上がろうとすると、くいと手を引っ張られる。こうくんがわたしの手を掴んで放してくれないのだ。

 その様子を見ていたはるか先生が、微笑ましそうに言う。


「いいよ、少し休んでて。できれば全体に目を配っていてくれると助かるけど」


「わかりました。ありがとうございます」


 はるか先生は同じ部屋にはいるが、一人ひとりの連絡帳を確認して、コメントを書いていた。連絡帳が書けたらお昼にするらしい。もうだいぶお昼の時間としては遅いが、なかなかタイミングがないのだろう。はるか先生がお昼に行っている間は、ちなつ先生が来てくれるそうだ。


 クラス担任であるはるか先生は、やはり子供たち主体の業務が多いが、副担任のちなつ先生とみちる先生は、動物の世話や一時的にはるか先生の代わりを務めるような雑用が多い印象だ。

 そう考えると、子供の教育という面では、はるか先生の方がより深く関わっている。ちなつ先生とはるか先生と関わってみて持った違和感は、そこに起因するのかもしれない。



 しばらくしてお昼寝の時間は終わり、おやつの時間になる。このおやつの時間が終わったら、早番のちなつ先生の勤務時間は終わりだ。ここからははるか先生とみちる先生の二人体制になり、そしてじきに中番のはるか先生の勤務時間も終わってみちる先生だけになる。


 はるか先生は比較的早めに迎えに来る親御さんとはコミュニケーションを取るが、勤務時間の終わりが近くなるとみちる先生と交代し、園長先生に一日の報告をしに行っていた。


 わたしはみちる先生がお迎えに来た親御さんと話している間、お迎えを待つ子供たちの相手をしていた。はるか先生が園長先生にどんな報告をしているのかは気になるし、もし何か秘密の相談をするとしたら、このタイミングだろうと思っていた。

 しかしながら今日は様子見に徹すると決めている。ある程度 目星も付けた。本格的に調べるのは明日からだ。


 次々と保護者がお迎えにやってきて、一人、また一人と子供たちが帰っていく。お迎えが遅い子たちは次第に一つの部屋に集められ、いつやってくるかもわからない保護者を待っていた。

 その間に、莉世りせと愛淑は動物の回収を手伝っていた。暗くなる前に全て回収し、開放したリストと照らし合わせて漏れがないか確認する。特に小さな動物は、暗くなってからいないことがわかっても見つけるのが難しい。園を囲っているこのネットを突破できはしないとは思うが、何があるかわからないし、放したままというわけにはいかないだろう。


 お迎えを待っている子供たちの中にはこうくんの姿もあった。彼が周りに心を開かないのは、家庭環境の影響もあるのかもしれない。親御さんと一緒にいられる時間が少なくて、なかなか甘えるのが難しいのかもしれない。子供心ながらに、仕事が終わって疲れて帰ってきた親御さんに甘えて困らせたくない、というようなことを考えているのかもしれない。その姿が昔のわたしと重なって見えて、わたしは自然とこうくんの元に寄っていった。


「こうくん、お迎えが来るまでわたしとお話ししない?」


「しえりおねえちゃんは、まだかえんないの?」


 それは暗に、早く帰れと言われているのだろうか。だけれどわたしにはわたしの役目がある。傷付いている場合じゃない。


「みんなが帰ったら、わたしも帰るよ。だから、こうくんが帰るまでいるよ」


 すると、彼は少し嬉しそうに微笑んだ。自分のお迎えが来る前にわたしが帰ってしまわないかと心配していたらしい。深読みし過ぎて勝手に傷付いていた自分が恥ずかしい。


「じゃあ、いっしょに ほん よんで?」


「いいよ。何読むの?」


 こうくんが読んで、と持ってきた本は、動物図鑑だった。これをどう読めと……?


「しえりおねえちゃん、なんのどうぶつがすき? これね、いっぱいどうぶついるんだよ」


 そう言いながら、パラパラとページをめくっていくこうくん。恐らくこうくんはこれを何度も読んだのだろう。どのページに何が載っているかもわかっている。そんな手付きでページを繰っていた。


「うーん、フクロウかな。こうくん、フクロウがいるところわかるんでしょ? 見せて?」


「なんでわかったの? まほう?」


「そうだよ。内緒ね?」


 わかった、と言いながら、こうくんはすぐにフクロウが載っているページを開いてみせた。


「なんでフクロウがすきなの?」


「わたし、フクロウに似てるんだって。似てる?」


 こうくんはじっと図鑑のフクロウを見た後、今度はわたしをじっと見つめる。


「うん」


 似てないと言われるかと思った。こうくんから見ても、わたしはフクロウに見えるのか。フクロウの何がそんなにわたしに結び付くのだろう。


「こうくんは何の動物が好きなの?」


「ぼくはこれ」


 こうくんがまた素早くページを繰って見せてくれたのは、トラだった。


「おっきいネコみたいでかっこいいでしょ。これしってる?」


「トラさんでしょ。かっこいいよね!」


「え、しってるんだ。いまのもまほう?」


「まぁね」


 もう何でも魔法ってことにしておこう。その度にこうくんが感動したような眼でこちらを見てくるのが可愛くて、なかなか癖になる。

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