1-2-14.四月二十二日⑤
それからは皆で話ながら、食事を進めていった。一紀くんには酔わないように、少しずつ飲んだり、食事と合わせて飲むように伝えて、ジョエルさんには彼のために水も用意してもらった。これでこの間みたいに潰れるほど酔うことはないだろう。酔うにしても、気持ち良く酔えたらいい。
わたしも酔ってしまっているのか、いつもより気分が高揚している。今日という日が本当に楽しくて、幸せな一日だと感じられた。これまで生きてきて、こんなに楽しい日はなかったんじゃないかと思えるくらい。
食事も済んで、ボトルも空になって、それでも談笑は止まらずに、夜は更けていく。
そろそろ帰ろうかと重い腰を上げて、ジョエルさんに会計をお願いした。
「あのワイン、大丈夫ですか?」
「あれは私がうっかり開けてしまったものだから、志絵莉さんが気にする必要はありませんよ。結婚式の披露宴のご馳走は、ぜひ当店に依頼してくださいね」
「もう、気が早すぎますって」
フレンチとしては良心的な価格だけれど、今日は贅沢したのでそこそこいいお値段になっていた。しかし領収書をよくよく見てみると、メルシィ割とかいう謎の割引をされていて、二割も引いてくれていた。
ここまでされては、もし本当に結婚式を挙げることになったなら、ジョエルさんに声を掛けないわけにはいかないなと思う。彼はそれを狙っているわけではないのだろうけれど、気のいい常連が通い続ける理由がこういうところに垣間見える。
お店を出ると、一紀くんはさすがに金額を心配しているようだった。
「ご馳走になるって額じゃなかったですって。いくらかでも出させてくださいよ」
「
「あ、ありがとう、ございます……。あの……志絵莉さん、酔ってますね?」
わたしがあの程度のお酒で酔うと思うのか。意識だってはっきりしているし、真っすぐ歩けている。何を根拠に酔っただなんて言っているのだろう。
「はぁ? 酔ってないよぉ」
「いや、それ酔ってますって絶対。せめて家まで送りますよ。道案内してください」
呆れたような一紀くんは、わたしの腕を放すまいとしっかり組んで、大丈夫ですか、なんて時折言いながら隣を歩いてくれる。
「今日はここに連れてきてくれてありがとうございました。あのお店は、志絵莉さんにとって大事な場所だと思うんです。それを俺に教えてくれて、嬉しかったです」
「わたしも今日、楽しかったよぉ。ありがとうね、連れてってくれて」
火照った身体に、冷たい夜風が吹き抜けるのが心地良い。今なら何でも話してしまいそう。でも、それもいいのかなと思ってしまう。いつもみたいに深くまで思考できない。こんな状態で物事を判断してもいいのかな。別にいいか。彼の前だったら。
「わたしね、ずっと気を張って生きてきたんだ。ほらわたしって、勉強もできて、スポーツ万能で、顔も頭も良いじゃない? だから何をするにしても、上になることが多かったんだ。成績も、立場も。だからずっと、わたしがしっかりしなきゃいけないんだって思ってた。ああ、お父さんのこともそうだね。わたしがこの人を支えてあげなきゃって思ってた。たぶん、一紀くんがわたしに感じた“お姉さん”って、そういうところなんだと思う」
突然、こんな訳のわからないことを話し出しても、一紀くんは相槌を打ちながら聞いてくれる。だからわたしは、ついついその先まで話してしまう。
「でもわたしは……本当は、誰かに寄りかかりたかったんだ。しっかりしなきゃとは思うけど、この人になら、疲れちゃった時は寄りかかってもいいんだって思える人が欲しかった。今日のわたし、何にも準備してこなかったんだ。全部一紀くんに任せるつもりだった。わたしがしっかりしなかったら、迷惑掛けちゃうかもしれないとも思ったよ。だけど、一紀くんはちゃんとわたしを引っ張っていってくれた。今日はそれが何より、嬉しかったんだ。こんなことをしたら、わたしは“お姉さん”じゃなくなっちゃうかな。しっかりしてる方が、一紀くんは好き?」
「そうだったんですね。今日は俺に頼ってくれている気がして、俺も嬉しかったですよ。あの志絵莉さんが、俺を頼ってくれている、と思って。それに志絵莉さんの“お姉さん”らしさは、誰かに寄りかかったくらいでなくなるようなものじゃないです。いつも完璧でなくていい。お姉さんだから甘えちゃいけないなんてことはないですよ」
彼ならそう言ってくれると思っていた。まあわたしとしても、そんな頻繁に彼に頼ることはないだろうけれど、気を張らなくていい相手がいるというだけで安心するというものだ。そもそも本来、彼との関係を望んだのだって、そうした間柄の相手が欲しかったからというのもある。
「あはは、そっかそっかぁ。……ねぇ、一紀くん。ちゅーしていい?」
わたしが唐突にそんなことを言い出しても、彼は動揺する素振りすら見せない。それどころか、あやすような優し過ぎる口調で返してくる。
「何ですか、急に。していい約束じゃなかったでしたっけ?」
「そうだけど……。いいじゃん、一応聞いても」
「お好きにどうぞ」
彼がそう言うので、わたしは彼の両頬を手で包み、彼の唇に吸いついた。
夜も更けて、車通りのない住宅街。街灯の灯りとわずかな月光だけが照らしているが、もう目は暗がりになれてしまって、彼の顔はよく見える。きっとわたしの顔も、彼からよく見えるのだろう。
今のわたしはどんな顔をしているだろうか。一度離れた唇を再び触れ合わせたわたしを、彼ははしたないと思っただろうか。それでもいい。どう思われても構わない。今はただ、無性にこの行為をやめられない。良くないと思いながらも、何度も口付けを求めた。
「志絵莉さん……やっぱり酔ってますね」
「……酔ってないから」
それじゃあまるで、酔っているからこんなことをしたみたいではないか。お酒のせいだなんて、なかったことにしたくない。酔っていたのだとしても、わたしが言ったこと、したことは、全てわたしが望んだことだ。それを後になって取り下げようとは思わない。
「わたし、これでもね、一紀くんに隠してることがまだまだあるの。ごめんね。でも、いつかはそれも話せたらいいなって思ってる。もし一紀くんが、本当の彼氏になってくれた時には、ね。あと、これも先に言っておかなくちゃいけないよね。もし本当の彼氏になってくれたとしても、たぶんしばらくは、えっちさせてあげられないと思う。それもごめんね。こんなわたしでも良ければ好きになってって言うのは、わたしの都合を押し付け過ぎていると思う。それでもいつか、こんなわたしでも良いって言ってくれることを願ってる。押し付けてるわけじゃないんだ。重かったらごめん。そういうのが嫌だから、今みたいな関係になってるのにね。だけどこれは、何も飾ってない、そのままのわたしの気持ちだから」
「……今夜はやけにしおらしいですね。別に俺は、今の志絵莉さんで充分ですよ。それ以上を求めているから好きになれないわけじゃないです。志絵莉さんはこんなに俺を大事にしてくれているんですから。あとは俺の問題なんです。だから志絵莉さんは、今まで通り俺に意地悪して、俺のことを良いように弄んでくれればいいんです。そんな志絵莉さんを、俺は可愛いと思っていますから」
なんて、少年のような無邪気な笑みを見せてくれる。
「……一紀くん、趣味悪いね。そんなわたしでいいの?」
「いいんです。もう……ですから」
次第に尻すぼみになってよく聞き取れなかったので聞き返したが、何度聞いても誤魔化されるだけで、教えてはくれなかった。
やがてわたしの住むアパートに着いてしまい、足が止まる。けれども名残惜しくて、彼の腕を放すのを躊躇ってしまった。そんなわたしを、彼はぎゅっと抱き寄せる。
「志絵莉さん、来週から実習が始まるんですよね。忙しくなって、大変なことも多いと思いますが、俺はいつでも予定を空けておきますから。というか、予定が入る見込みがないだけなんですが……。とにかく、何かあったら、いつでも連絡してくれて大丈夫です。ちょっとしたことでも、くだらないことでも、全然構わないんで」
「わかった。じゃあ、気が向いたら連絡する。本当に今日はありがとう。ごめんね、こんな時間まで。帰り、大丈夫? 電車ある?」
今 何時なのかスマホを出そうとして、一紀くんに止められる。
「今夜はもう“ごめん”はなしです。さっきからそればっかりですよ、志絵莉さん。電車は大丈夫です。まだそんな時間じゃないですから。それより志絵莉さん、二日酔いにならないよう、よく休んでくださいね」
「酔ってないから。……ねえ、もう帰っちゃうの?」
自分でも思いがけないことが口から零れ出た。そんなことを言うつもりじゃなかった。こんな、彼を困らせるようなこと。
「……帰ってほしくないですか?」
彼の声が耳の中にすっと入ってくる。でも、何故だか視界はぼんやりしていて、彼の表情ははっきり見えない。身体も重くて、倒れてしまいそう。今わたしが彼の腕の中に倒れ込んだら、彼は帰らないでいてくれるかな――なんて、悪いことを考える。だけれどそれもほんの一瞬で、そんな意地悪はすぐに頭から消えていく。もう何も考えられない。
「……やっぱいい。もう眠くなってきたし」
かろうじてそう絞り出した。そっと身体を離したわたしの頭を、一紀くんは笑って撫でてくれる。
「ふふっ、やっぱり志絵莉さんは可愛いですね」
「意味わかんない。……またね、一紀くん。おやすみ」
本当はもう一度抱き着いてしまいたかったけれど、そんなことをしたら離れられなくなってしまいそうだったから、小さく手を振って、精一杯の笑みを作って彼を送り出す。
「おやすみなさい、志絵莉さん」
「気を付けて帰ってね」
はい、という声を聞き届けて、わたしは部屋のドアの鍵穴に、鍵を差し込んだ。
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