1-2-13.四月二十二日④
あらかた回り終わる頃には日も傾き始め、橙の西日が差してくる。暑さはまだ引かないが、日が暮れるにつれて人は段々と少なくなってきていた。
「
「いえ、特には。最悪 夕飯も冷蔵庫に入れておくって言われてますし」
「じゃあさ、今日は晩ご飯まで、このまま一緒にどう? お母様には悪いけど、作ってもらったお夕飯は明日にでも食べるとして」
一紀くんの表情がぱあっと明るくなったように見えた。彼も、ここで終わりにしてしまうのは名残惜しかったのかもしれない。
「いいですよ。一応、家にも連絡しておきます」
さて、どうしようかな。わたしには二つの選択肢がある。普通に過ごすか、攻めるか。それによって、行き先も変わってくる。一紀くんがお母様にメッセージを打っている間に決めなければ。
「どこか、場所は決めてあるんですか?」
なんて、彼に尋ねられる。もう送り終わったのか。長々と悩んでいる暇はない。
「この間は一紀くんのおすすめのお店に連れていってもらったでしょう? だから、今度はわたしが連れていってあげようと思って。好き嫌いやアレルギーは特にないんだっけ?」
「はい、大丈夫です」
わたしたちは行きと同じように電車を乗り換えて、
駅前から少し歩いて細い道に入る。もうすっかり日は暮れて、広い間隔で電灯が
これまでとは逆に、わたしが一紀くんの手を取って、見ず知らずの場所にやってきた彼を先導する。
「ここ、飲み屋街になっているんですね。駅から少し離れてるのに、こんなに栄えてるんですね」
「まあ一応、急行停まる駅だしね。あ、着いたよ」
わたしが彼を連れてきたのは、飲み屋街にあって異彩を放つフランス料理店、“ファミーユ”。格式高いフランス料理ではなくて、フランスの家庭料理を出してくれる気さくなお店だ。店長はフランス人だけれど、日本に移住して永いから、ちゃんと日本語も通じる。
まさかのフランス料理屋で、一紀くんは驚いているようだ。
「心配しなくても大丈夫。作法とか堅苦しいことはいらないから。あと、ここの支払いはわたしがするから、金額は見ないで、食べたいものを食べてね」
「いや、でも……」
「でもじゃない。さあ、いらっしゃい。わたしがついてるから大丈夫」
意を決したような顔の一紀くんの手を引いて、お店のドアを開ける。中はカウンター席とテーブル席があり、それほど広くはない。しかもいつも通り、席もほとんど埋まっていない。
というより、ここはそこそこ入り組んだ場所にあるため、知る人ぞ知る名店というように、来るのはほとんどが常連客だ。今日も先に来ていた客とは顔見知りで、ワインを片手に挨拶してくれる。
「お、
なんて揶揄うよう話しかけてくる髭面のおじさんに、一紀くんはどういう雰囲気のお店なんだと萎縮してしまっているようだった。
「相変わらず早いですね~、
と釘を刺せば、考えとくよ、と意地悪く笑う福地さん。それからまだ顔を見せない店主に向けて、キッチンへ声を張る。
「旦那~! 志絵莉ちゃんが男連れてきたぞ~!」
すると、とことことキッチンから小走りで駆けてくる、小柄な初老のおじさん。彼がこの店の店主、ジョエル・セリザワさんだ。
「ボンソワール、志絵莉さん。それから彼氏さんも。お好きな席へどうぞ」
「ありがとう」
いつもはカウンター席に着くのだが、今日はテーブル席に一紀くんと向かい合って座った。メニューを広げていると、案の定、完全に置いてけぼりになっている一紀くんが、小声で聞いてくる。
「どういうお店なの? ここ。皆知り合い?」
「ここ、常連さんしか来ないから、皆顔見知りだし、こうしてお客さん同士でもよく話すんだ。大学生としてのわたしじゃなくて、他のわたしも一紀くんに見せてあげたくて」
変な人じゃないから大丈夫だよ、と言うと、一紀くんはほっと胸を撫で下ろしていた。
「あの、志絵莉さんはどれがおすすめとかあります?」
もしかして、どれが何だかわからないのだろうか。確かに、フレンチってやたら小難しい名前しているもんね。わたしは、これは焼いた白身魚、これは蒸し野菜、これはお肉を煮込んだものなどと、それぞれの料理を噛み砕いて彼に説明してあげた。
そうしたら注文が決まったらしいので、ジョエルさんを呼んで注文していくと、最後にジョエルさんの方からいつもはしない確認をされた。
「当店はカップルのお客様にトクベツなサービスをご用意しておりますが、いかがされますか?」
いやいや、そんなのないでしょ。初めて聞いたけれど。遠くから福地さんが口笛を鳴らすのも聞こえるし、完全に冷やかされている。
「えーっと……じゃあ、お願いします」
かしこまりました、と涼しい顔でキッチンに戻っていくジョエルさん。何を企んでいるんだろうか。
「俺、本当に作法とかわからないけど大丈夫?」
「大丈夫だって。あっちのおじさんが作法とか心得てるように見える?」
心配する一紀くんを安心させようと視線だけで福地さんを指すと、一紀くんに笑顔が戻って、確かに見えない、と首を振った。
すると前菜としてサラダが運ばれてくる頃に、新しいお客さんがやってくる。やってきたのは未だ衰えを知らない老夫婦で、彼らは福地さんを見かけるなり挨拶をして、カウンター席に並んで座った。そしてすぐに、目聡く奥のテーブル席に座っていたわたしを見つけて声を掛けてきた。
「お、志絵莉ちゃん。今日は
「あんた、失礼ねぇ。志絵莉ちゃんはいつでも別嬪さんでしょ」
妙なところで諍いを始めた二人は、キッチンから顔を出したジョエルさんに注文し終わると、くるりと椅子を回してこちらに身体を向けてくる。
「あんなに小さかった志絵莉ちゃんがねぇ」
「え、志絵莉さんっていつからここに住んでるの?」
「ほら、国府中央って翠泉の付属中があるでしょ? 中学に通ってた時も、何度か来たことがあったんだ。あの頃はお父さんとも上手くいってなくて、家に帰りたくない非行少女だったから」
「志絵莉さんって、意外とワルだったんですね。それが今やイジワルに……」
一紀くんの嘆きに大袈裟に笑う福地さんが、ワイングラスを片手にこちらに歩み寄ってきて、大林夫妻の隣のカウンター席から椅子だけ引っ張り出して座る。
「志絵莉ちゃん、彼氏にも意地悪なのかい。大変だねぇ、彼氏くん」
次第にこの店の空気感を理解したらしい一紀くんは、福地さんと大林夫妻と、わたしの話で盛り上がり始めた。
わたしの目的は最初からこれだった。一紀くんしか知らないわたしの一面ももちろんあるけれど、このお店でしか見せない一面もある。それを彼に知ってほしかったのだ。彼がわたしに少しずつでも歩み寄ってくれていることがわかったから、わたしも彼に歩み寄りたいと思って、ここに連れてくることを決めた。
「志絵莉ちゃん、今日はワインは? さすがに彼氏の前で酔った姿なんて晒せないかい?」
「あれぇ、福地さん、わたしの年齢知らないんですか~?」
え~聞こえな~い、と耳を塞ぐ福地さん。
確かに普段はこの店で酒を飲んでいる。いけないとわかっていながらも、ジョエルさんはわたしが飲める量を把握してくれて、わたしがヤケになっていても過剰には出さないようにしてくれているから、とりあえず病院送りにはならずに嗜めている。
「志絵莉さん、お酒強そうでしたけど、そうでもないんですか? っていうか、酔うとどうなるんです?」
彼の眼には好奇心しか浮かんでいない。彼からすれば、酔い潰れるわたしなんて想像できないのだろう。普段から彼を手のひらの上で転がしているようなわたしが、お酒なんかで理性を失う姿など。
「そりゃあもう大変よ。ただでさえ意地悪な志絵莉ちゃんなんだぞ? とんでもない悪の女王様になるのさ。跪いて足を舐めろとか、逆立ちしてワンと鳴けとか」
「言ってないから」
あることないこと一紀くんに吹き込もうとする福地さんにぴしゃりと言い放つ。すると、メインと共にジョエルさんが一本のワインボトルを持ってきた。
「ちょっ、それ……頼んでないですけど」
「いえ、これは私が勝手に持ってきただけです。ここに、二十年もののシャトー・ムートン・ロスチャイルドがありまぁす! このボトルを……ああ、うっかり開けてしまいました~!」
なんて下手な芝居を打ちながら、ジョエルさんはあろうことかボトルのコルクを抜いた。
「いや、何してるんですか!」
何を慌てているんだろうというような視線を向けてくる一紀くん。いやこのワイン、一本で二十万以上するんだぞ。うっかりで開けていいものじゃない。というか、何でこんなものがこの店にあるんだ。
「そしてうっかり……お二人のグラスに注いでしまいました~」
と、わたしと一紀くんのグラスに注がれる、深く暗い赤紫。注がれるだけで、植物的なアロマから、そこに内包されるフルーティーな熟成香が辺りに広がって、鼻腔をくすぐりながら肺を満たしていく。
「若い男女の明るい未来を祈って、乾杯」
ジョエルさんの掛け声で、福地さんと大林夫妻が拍手をしてくれるので、仕方なく、わたしはワイングラスを手に持つ。これがジョエルさんが言っていた、カップル向けのトクベツなサービスというやつか。
こんなこと、今まで提供したことが本当にあるのだろうか。特別扱い……してもらってるんだろうな。嬉しいけれど、何だか申し訳ない気もする。
「グラスはぶつけないで、軽く持ち上げるだけでいいよ。あと、飲むのキツかったら無理しないでね」
一紀くんにそっと教えてあげると、彼もわたしを真似てグラスを手に持った。そして改めて乾杯の声と共にグラスを軽く持ち上げて、口を付ける。
こんな高級なワイン、わたしだって初めて飲む。ワインを飲み慣れていない一紀くんからしたら、決して美味しいとは言えないはずだ。度数だってそれなりに高い。この間の飲み会は飲み方が良くなかったからだけど、一度酔い潰れたのは事実。無理はしないでほしい。
一口を含むと、酸味と渋みが広がって、次第に濃厚な果実味が顔を出す。そして何と言ってもこの香り高さ。味の奥行きを作り出しているのは間違いなくこの芳醇な香りだ。
ちらと一紀くんの方を窺ってみると、彼もわたしの真似をして一口だけ口に含んでみている。
「大丈夫? 飲めそう?」
「ええ、大丈夫です。ワイン初めて飲んだんですけど、こんな感じなんですね」
「それなら良かった。でも無理しないでね。あとこれ超高いワインだから、もう普通のワイン飲めないかもね」
と言うと、思わず目を丸くして、一紀くんはそっとグラスを置いた。
「メルシィ、ジョエルさん」
「いいんです。志絵莉さんが
ジョエルさんは日本語を勉強してから、オヤジギャグにはまり出したと聞いたことがある。まさかこれも全て、そのギャグが言いたかっただけではないだろうな。
「ここまでされて別れちゃったら、わたしここに顔出しづらいんですけど……」
「何言ってんだい、別れる気なんかさらさらないから、ここに連れてきたんだろう? わざわざ見せつけてくれちゃって」
と、大林のご主人が言うと、奥さんがそこに付け加える。
「別に気にしなくていいのよ。皆、今の志絵莉ちゃんを応援して、祝いたくてやってるんだから。別れちゃったとしても、それはそれ。今度はうんと慰めてあげるんだから」
どうやらここのお客さんも店主も、お節介でお人好しが過ぎるらしい。
「大体、志絵莉ちゃんに捕まったが最後、簡単に別れられるわけねぇわな。それに、別れたらの話をするより、明るい未来を考えようぜ。結婚式には、ぜひ呼んでくれよな」
福地さんですらそんなことを言う始末。っていうか、福地さんはわたしを何だと思っているんだ。
「志絵莉さん、皆さんから好かれてるんですね」
「好かれてるっていうか、孫か何かだと思っているんじゃない?」
福地さんなんかはわたしをどう思っているかは知らないけれど、ジョエルさんや大林さんたちはそんな風に見ているんじゃないかと思っていた。それが温かくて、ついつい足を運んでしまうんだけれど。
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