1-2-5.四月十八日②
ついに、お母さんのことを話してくれた。どんな心境の変化があって、話してくれる気になったんだろうか。酔っているから話してくれたのだろうか。だったらもっと前から酔わせておけば良かった。
わたしはせっかく話してくれたお父さんの気を殺がないように、続きを話してくれるのを待つ。
「志絵莉は昔の志乃さんによく似てるんだ。それで、見間違えた。……ごめん」
「お母さんのこと、何で今まで話してくれなかったの?」
本当はキツく問い詰めたいが、そうしたら聞きたいことも聞けなくなってしまう気がして、努めて冷静に、穏やかな口調で問う。
「悪いと思ってる。でもこればっかりは、僕の一存で判断できることじゃないんだ。志乃さんのことは、国家機密に触れるくらいのことなんだ。いくら娘でも安易に話せるようなことじゃない」
想像の斜め上過ぎて、何も言えなかった。お母さんのことは、国家機密に触れるくらいのこと――それは本気で言っているのだろうか。お母さんは一体何者なんだ。少なくとも、教科書に載るような偉人でなかったことは確かだ。
その存在が国家機密に相当するくらい厳重に隠されているとすれば、それは裏社会の人間だったりとか……? さすがにそれはファンタジーが過ぎるか。スパイとか暗殺者とか、現代日本に実在するのかも怪しい。
「驚いただろう? だからごめん。話せる時が来たら、ちゃんと話す。でも今の志絵莉なら、少しくらいは話しても大丈夫そうかなと思ったから、今日は少し話してみたんだ」
「ありがとう。少しだけ、腑に落ちた気がするよ。前にお父さんが言ってたこと」
「僕が言ったこと?」
お母さんにまつわる話で、お父さんがわたしに課した唯一の縛り。いや、お父さんは縛ったつもりなんてなかったかもしれないが、わたしには縛りに感じられていた。その言いつけを守ることが唯一、わたしの中にお母さんを感じられることだったから。
「彼氏ができても、安易に体を許すなって言ってたでしょ? 特に妊娠には注意しろ、お前にはお母さんの血が流れているんだからって」
お母さんの血を継いだお前とお前の子の安全のためだ。命を預けてもいい相手だけにしろと言われていた。だからわたしは、今まで一度だって体を許したことはなかった。
馬鹿馬鹿しいと思ったこともあったし、過保護な言いつけだと思ったこともあった。だけれどお父さんは、わたしじゃなくて、わたしの中に流れるお母さんの血のことを危惧していた。その存在を詳しく話してくれもしないお母さんの血のことを。だからきっと、わたしの一存でどうにかできる問題に収まらない可能性があることを示唆しているのだと思っていた。
「守ってくれていたのか……?」
「そうだよ。わたしの命を預けてもいいと思える人なんて、これまで出会えたこともないからね」
「ありがとう……それから、申し訳ないことをした。縛るようなことを言って。でも、それでいい。志乃さんの血は、志絵莉が想像する以上に危険なものだから」
“危険”、か。ますますわからなくなる。お母さんは特殊な体質の持ち主だったのだろうか。何か病原菌に対する抗体を持っていたり、もしくはその逆、特殊な病気を発現する遺伝子を持っていたのかもしれない。いや、そんな想像のさらに上を行く危険度なのだろう。それは一体どんなものなのだろうか。想像もできない以上、やはりわたしはお父さんの言いつけを守るしかない。
「今は、彼氏はいるのかい?」
どう答えたものかと思って、少しだけ考えて答えた。
「いるよ」
そうか、と言うだけで、お父さんの表情は変わらない。娘に彼氏がいると聞いても、特に思うことなどないのだろうか。一紀くんのお父様が言っていたように、お父さんはいくつになっても、いつになっても“志乃さん”を愛し、恋い焦がれているのだろう。死が二人を分けてしまった以上、お父さんの恋はもう前進も後退もしない。永遠に膠着したままの、永遠の恋人なのだ。
「でも、本当の彼氏じゃないんだ。わたしからお願いして、彼氏のフリをしてもらってるの。ほら、わたし可愛いから、変な男がいっぱい寄ってきちゃうからね。いけないことをしている自覚はあるんだけど、どうしていいかわかんなくて」
冗談交じりに本音を吐露したわたしに、お父さんは真面目に返してくれた。
「いけないことだなんて、僕は思わないよ。きっかけというものは、いずれどうでも良くなってしまうものさ。関係の始まりがどうだったかなんて些細なこと。今この瞬間はどう思っているのか、これから先どうなりたいか、それを考える方が、よっぽど楽しくない? “志絵莉”という名前は、己の志に忠実に生きてきた“志乃”さんのようにはなってほしくなくて、強い志を持って、その先に待つ未来を思い描けるような子になってほしいという願いを込めて付けたんだよ」
自分の名前の由来を初めて聞いた。お父さんは、わたしにお母さんみたいになってほしくなかったんだ。
今のわたしと、これからのわたし。これまでのわたしがあるから今のわたしがあるのは確かにそうだ。だけれど、これからのわたしがこれまでのわたしがしたことに囚われる必要はない。これからいくらでも、わたしは変われるのだから。そう思っていた方が、確かに楽しいだろう。
わたしは一紀くんとどうなりたいのだろう。それを考えるには、まだ情報も時間も足りていない。だとすれば、今のわたしが何をすべきなのか、逆説的に思い浮かんだ。そうか、これでいいのだ。
「ありがとう、お父さん。少し整理できた気がする」
「これだけでかい? やっぱり志絵莉は、志乃さんに似ているね。志乃さんは頭がいいけど意地悪で、何でも見透かしたように余裕そうなのにどこか無防備で、優しいのに冷たい。そういう人だった。志絵莉もそういうところがあるのは僕も気付いてる。それに志絵莉の頭脳はやはり、志乃さん譲りのものだということも」
「お父さんは、お母さんに似たわたしをどう思う? 愛しい? 怖い? 心配?」
わたしはお母さんに似て良かったのだろうか。わたしとしては、今のわたしの頭脳も性格も、嫌だとは思わないし、違ったらいいとも思ったことはない。今の自分に満足はしている。
でもお父さんはどうだっただろう。年々お母さんに似ていくわたしを見ていて、どう思ったのだろう。嬉しかったのだろうか。苦しかったのだろうか。
「その全部、かな。志絵莉はもうとっくに、僕では守り切れない存在になってしまった。だからせめて、自分で自分を守れるように育ててきたつもりなんだ。それなのに結構危うくて、本当に心配なんだけどね。それでも志絵莉なら、ちゃんと物事を見極める力があると思っている。だけどいつか僕の目の届かないところで、志乃さんみたいになってしまわないか……それだけが心配で仕方ないんだ」
お父さんの言う“お母さんみたいになる”というのがどういうことなのかはわからない。お父さんが愛したお母さんのようになってほしくないと願われるのが、全くもって理解できない。
だけれどよくわかった。お父さんはもう、わたしを守れないんだ。親として無責任とは思わない。きっと今でもお父さんなりに頑張ってくれているんだと思う。お母さんのことを頑なに話さなかったのも、その一つだったんだろう。そうやってずっと、わたしを守ってきてくれた。
でもわたしだって、もう大人だ。お父さんの力が及ばない存在になりつつあるなら、お父さんの言うように、自分で自分を守るしかない。
「それに、似ているのは志乃さんにだけじゃないよ。志絵莉の話を聞いて驚いたんだけど、僕と志乃さんが付き合うことになったきっかけは何だったか、わかる?」
思い出を懐かしむように柔らかく微笑んで、お父さんは問い掛ける。その口調は、わたしがまだ小さい頃にたくさん本を読んでくれた時のようで、わたしまで懐かしさが込み上げてきていた。
「お父さんとお母さんも、初めは仮初の恋人だったの?」
「仮初、ではなかったよ。僕が志乃さんの秘密を知ってしまってね。それをバラされたくなかったら、僕と付き合ってほしいって言って付き合ってもらったんだ」
「うわ、最低。わたしより酷いじゃん」
お父さんにそんなことができたのかと、むしろそこに驚いた。どうしてもお母さんと付き合いたかったんだろうけれど、付き合うためならどんなことでもするって、本当にやる人を初めて見た。
「僕はずっと志乃さんのことが好きだったから、付き合えることになって嬉しかったけど、当然志乃さんは僕のことなんて眼中になかった。一応同じクラスだったし、認識はしてくれてたみたいだけど。でも志乃さんは、僕のことを好きになろうとしてくれた。好きになれたらいいな、好きになりたいと言ってくれた。初めは脅迫から始まった関係だったけど、志乃さんは僕を信じてくれて、恋人になってほしいって約束を本気で全うしてくれようとしたんだ。もちろん僕も、志乃さんに好きになってもらおうと努力したし、その結果として、僕たちは本当の恋人になれたんだ」
「お父さんは本当に、お母さんのことが好きだったんだね」
「今も、好きだよ」
お母さんのことはよくわかった。たぶん、話せることもこの程度のことなんだろう。お父さんとお母さんの間にあった惚気話くらい。それでも聞かせてくれるだけで嬉しい。今まで知らなかったお母さんの存在が、一気に身近に感じられる。
あと二つくらい、聞きたいことがあるが……お父さんはもう限界そうで、舟を漕ぎ始めた。せめて寝る前にシャワーくらい浴びてほしかったが、難しいだろう。
「お父さん、まだ聞きたいことがあるんだけど」
「……何?」
限界なのは見ていてわかるが、自分からは音を上げない。今夜はとことんわたしの質問に答えてくれる気でいるのだろうか。それだけわたしへ罪悪感を抱いていたのだろう。
明日も仕事があるだろうに、疲れ切った身体で娘の追及を受けている。何だか可哀そうになってきた。
「ごめん、今日はもういいよ。ちゃんと休んで明日も仕事に行って」
「ありがとう。ごめんね、納得いくまで付き合ってあげられなくて」
「いいって。その代わり約束して。明日、朝必ずシャワー浴びてから仕事に行くって」
マジで臭いから、と鼻を摘まんでみせると、お父さんは了解、と苦笑いしていた。
「ご飯もありがとう。明日食べるね」
「もういいから早く寝なよ。わたしももう寝るから」
わたしだって、明日は早くここを出て、一回家に帰ってから学校に行かなきゃいけないんだから。あまり夜更かしをするわけにはいかない。
「寝るって言ったって、どこで寝るの? ベッド持っていっちゃったでしょ?」
「ソファで寝るよ。毛布持ってきてるから。お父さんの布団は却下で」
臭いから? と聞かれるので、そう、とにんまり笑ってみせた。
「わかった。じゃあ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
お父さんが部屋に戻ってから洗い物をして、スーツケースから毛布を取り出してソファに寝転がる。
思いがけずお母さんのことは知れたけれど、情報としてはさほど価値が高くないものばかり。一紀くんの“お姉さん”との関係もわからずじまいだし。それに、写真も見せてもらえなかったから、お母さんの顔もわからないままだ。
そして一番は、わたしのお母さんは“志乃さん”だそうだけれど、戸籍上の母は“
まだまだわからないことは多いが、少しだけ頭はすっきりした気がして、今夜は良く眠れそうだった。
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