1-2-4.四月十八日①
先週と同じく、今日も環境科学は休講になった。担当の
となると、臨時でシフトも入れていないし、今日こそは正真正銘 午後はフリーになった。その時間を使って、わたしは久しぶりに実家に帰ることにした。昨夜お父さんには連絡を入れておいたけれど、返信がないどころか既読もつかない。
それでも自分の家でもあるんだから、勝手に入られて困るなんて言われてもわたしの方が困る。それに家探しをするなら、連絡に気付いてくれていない方が都合が良い。
わたしの実家がある
今のわたしの暮らすアパートとさほど変わらないようなアパートの二階。その一室の扉に鍵を通すと、ちゃんと開いた。当たり前のことなのに、何故だかひどく安心した。
「ただいま」
そう言って家に入るが、それに返す者は誰もいない。それもそうだ。この時間ならまだお父さんは仕事だろうし、むしろ居る方が驚く。
大学に進学してからここに帰ってくるのは初めてだ。お父さんと顔を合わせるのも何だか気まずくて、長期休みの間も帰らなかった。一年ほど前までは住んでいたはずの家が、どこか別の場所のように感じる。
わたしが一緒に住んでいた頃よりも物が減った気がするが、どことなく散らかっている。何かしら作って食べてはいるようで、冷蔵庫には食材や作り置きのおかずが少しだけ入っていた。仕事に行く前に洗濯はしたらしく、洗濯機の中は空で、外には洗濯物が干されている。
わたしがいなくてもちゃんと生活ができていることに安心しつつ、お父さんが帰ってくるまでに、何かお母さんにまつわるものがないかを探すことにした。今日はそのためにわざわざ帰ってきたんだから、何の成果もなく帰りたくはない。
とりあえず、わたしがいなくなっても油断していないのか、さすがに見えるところには何もない。写真を飾っていたりしないかとも思ったが、こうして突然わたしがやってくることも想定していたのだろうか。それとも生活で手一杯で、わたしがいた時から変える暇もなかったのだろうか。
タンスやクローゼット、あらゆる引き出しや収納を開けてみるが、目ぼしいものは何もない。まるで空き巣にでもなった気分だが、ついでに埃っぽいこの家を掃除してやることにした。動き回ったせいで埃が舞って咳き込んでしまい、このままこれ以上続けるのはわたしの健康上良くない。
一通り掃除を終えてから家探しを再開すると、お父さんのクローゼットに気になったものがあった。高校の制服だ。女子の。しかもこれ、うちの高校のものだ。
ちょっと待って、お父さんってそういう趣味が……なんて思ったけれど、念のためわたしが使っていた部屋のクローゼットを開けてみる。この部屋は別に片付けてもいいと言ってあったがそのままにしてあった。家具や服などの荷物はあらかた持っていったから、ほとんど何も残っていないのに。
それでもこのクローゼットの中に、まだ残していたものがある。わたしが捨てられずにとってあるものだ。中学の制服を始めとした学校で使っていたもの、それに高校の制服もここにあるはず。うん、ちゃんとある。
だとすると、あの制服は何だろう。てっきりわたしの制服をあそこに移したのかと思ったのに。それはそれで気持ち悪いけれど、それ以上に、誰のものかわからない女子高生の制服が父のクローゼットで見つかるなんて、できれば直面したくない現実だった。もはやお母さんにまつわるものを探すよりも、この制服がここにある理由を知りたくてたまらない。
これは絶対に、お父さんが帰ってきたら問い詰めてやろう。証拠もあるんだから、言い逃れはできないはず。というか、わたしが許さない。
結局、それ以外には何の成果も得られず、昔お父さんが眺めていたはずの位牌も見つからなかった。
お父さんはいつ頃帰ってくるだろうかと思ってスマホを確認してみたが、まだ既読が付かない。一応、帰り何時くらいになりそう? と送ってみたが、やはり既読は付かない。まあすぐに付くとも思っていないが、さすがに昨日送ったものすら見てくれていないのは普通に凹むし、何か事件にでも巻き込まれているんじゃないかと心配になる。
ここ最近、物騒な事に関わっているからかもしれない。お父さんとの仲は良好とは言えないけれど、お父さんだけは、ちゃんとわたしのお父さんなのだ。たった一人の家族なのだ。
いけないとわかっていながら、わたしはお父さんに電話を掛けてしまった。大した用でもないのに、仕事中なのに申し訳ない。だけれどせめて、無事を確認させてくれさえすれば、それで充分救われる。
だけれど、お父さんは電話に出なかった。何度も掛けるのはさすがに迷惑になるし、会社に乗り込むなんてもってのほか。わたしの連絡に気付いてはいても、返している余裕がないくらいに仕事が忙しいのだろうと思っておくことにした。
一紀くんの家に行って、家族で食べるご飯がこんなにも美味しいのかと思ったわたしは、久しぶりにご飯を作ってお父さんを待つことにした。この家で暮らしていた時も、お父さんの帰りは遅くて一緒に食事を囲むことは稀だった。でも今日は最悪泊まったっていい。だからお父さんが帰ってくるまで、根気よく待っていることにしよう。
先に風呂に入り、夕食の準備を進める。前まではどのくらいに帰ってきていたかを思い起こして、そこから逆算して間に合うように作り始める。
もし帰ってくるのが遅くなってもいいように、冷めても美味しく食べられるものにしよう。少し多めに作ったら、明日の朝に食べてくれてもいいし、お昼に持っていってもいい。そうだ、お昼に持っていきやすいようにおにぎりにしておこう。お弁当は、結局帰ってきたらお弁当箱を洗わなくちゃいけなくて手間になってしまうから。
ただお父さんの帰りを待っているだけなのに、何故だか新妻にでもなったような気分であれこれ気を回していた。後になって思い返せば、あまりにも滑稽で笑えてきてしまうのだろうな。でもそれでいい。これは予行練習でもあるんだ。わたしももうすぐ二十歳になる。人を好きになれないだ何だと言ってはいるが、そろそろ結婚というものも現実的に考えてもいい年頃だ。そうして今現在、そうなるかもしれない相手もいる。だったら、来るかもしれない未来のために、ちょっとした演習をしておいても損はないだろう。
ご飯を作り終えて、食卓に並べても、やはりお父さんは帰ってこない。もう十一時になるというのに。もう一度電話をしようかと思っていたちょうどその時、玄関の鍵が開く音がした。
わたしは待ちわびた思いで少し上機嫌だったせいか、玄関まで駆けていっていた。
玄関の扉を開けて帰ってきたのは、疲れ切った様子のお父さん。一年前とほとんど変わっていない。
「おかえりなさい。ご飯にする? お風呂にする? それともわたし?」
なんて、調子に乗ってふざけてみると、お父さんはふらふらと玄関に座り込んでしまった。ふぅ、と吐いた息が酒臭い。だいぶ酔っているようだ。
「ただいまぁ、
お父さんは見たこともないような優しい笑みを湛えて、そんなことを言った。
“志乃さん”って、誰――?
あの制服の持ち主だろうか。全く心当たりがない。“
「会いたかったよぉ、志乃さん」
お父さんは今にも泣き出しそうな、それでいてうっとりしたような眼差しを向けて、わたしに抱き着いてくる。
少なくとも、目の前にいるわたしが娘の志絵莉だとは思っていないようだ。
抱き着かれて押し倒され、酒臭い顔がすぐ間近に迫る。
さすがにマズい。キスでもされそうな勢いだ。下手をすればその先まであり得る。実の娘相手に正気じゃないと思うが、実の娘だと思っていないんだからできてしまうんだろう。
「ちょっと、誰と勘違いしてるの? わたし、志絵莉だよ?」
酔っていても、くたびれていても、さすがに大の男。力任せに押しのけようとしても、まるで敵わない。
「やだ、やめて! ねぇ、ちょっと!」
仕方ないのでお父さんの頬を引っ叩くと、一瞬呆けたように隙ができた。そこをすかさず身体を離して、数歩分の距離を取る。
呆けていたお父さんはわたしの姿を改めて見つめると、自分の犯した間違いに気付いたのか、ごめん、と小さく呟いた。
食欲はないというのでお父さんの分の夕飯を一度冷蔵庫に片付けて、お父さんには水を飲ませて休ませる。わたしはわたしで、自分の分の夕飯は食べることにした。せっかく一緒に食べようと思っていたからまだ食べていなくて、実は結構お腹が空いていたのだ。
一応、お父さんも水を飲みながら向かい合って座ってくれて、ぼんやりとわたしが食べているところを眺めていた。少し落ち着いたらしいお父さんはもう一度、ごめんと謝罪した。
「別にいいって。結果的には何もなかったんだし」
「まさか志絵莉と志乃さんを見間違えるなんて……」
「ねえ、志乃さんって誰なの?」
ぼそりと呟いたお父さんに、わたしはすかさず問いかける。今日こそは逃がさない。わたしが満足するまで問い詰めてやる。酔っているのも好都合だ。判断が鈍って話す気がなかったことまで話してしまえ。
お父さんはバツが悪そうに押し黙ったが、わたしがもう一度問う前に、自分から口を開いてくれた。
「志乃さんは……志絵莉のお母さんだよ」
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