1-2-6.四月十九日①
翌朝早くに起きたわたしは、始発で帰るべく帰り支度をしていた。お父さんを起こさないよう、できるだけ物音を立てないようにして、ダイニングテーブルの上に書き置きを残しておいた。
お父さんのクローゼットにあった女子高生の制服のことと、“
あとは、呑み過ぎはほどほどに、ということと、わたしももうすぐ二十歳になるし、呑む相手が欲しいなら一緒に呑んであげるから、とも書いておいた。
予定通り始発で帰り、少しだけ仮眠をとってから学校へ向かう。若干寝不足気味だけれど、このくらいなら問題ない。それに、今日のわたしはすこぶる機嫌が良い。
「おはよう、
なんて、
「そんなことしてないって、もう~。いや、本当に彼氏とは何もないから。昨日実家に帰ってさ、久しぶりにお父さんと話したんだ」
「……そっか。良い話ができたみたいで良かったよ」
百花はずっと
わたしがお父さんと話したことを嬉しそうに話すから、それで全て察してくれたのだろう。今にも泣き出してしまいそうな笑顔で、良かったね、ともう一度言ってくれた。
「お母さんの話が少し聞けたんだ。見た目も中身も、割とわたしと似ているみたいでちょっと嬉しかったよ」
「そうだったんだ。良かったじゃん、ようやくわだかまりが解消しそうで。お父様も、志絵莉に彼氏ができたから話してくれたんじゃないの?」
彼氏ができたからというより、わたしが大人になったから話してくれたのだろうと思っている。ただでさえお母さんの情報は広く隠されるようなものらしいのだから、わたしが情報の取り扱いに留意できるまで待っていたのだろう。
「いやいや、彼氏のこと話す前に話してくれたよ。まあ、何て言うか、帰ってきて早々、わたしとお母さんを見間違えたんだよね」
「え~、そんなに似てるんだ。でも娘と嫁を間違えるか? 普通」
「それは確かに思ったけど、だいぶ酔ってるみたいだったからね。びっくりしたわ。嫁ラブって感じで絡んできたから、何されるかと思ったし」
実際、あのまま抵抗しなかったら何をされていたんだろう。というより、放っておいたらどの段階で気付いたのだろう。気付かなかったかもしれないな。
しかしお父さんも、別に娘とキスがしたかったわけじゃなくて、あくまで自分の妻とキスがしたかったのだ。キスした相手が実は娘だったと知った時に酷い罪悪感を抱かせることになるだろうから、やっぱり止めて良かったのだと思う。
「え、怖~……。でもしょうがないのかな。きっとお父様の中のお母様って若い頃のままなんだろうし、そこからずっと時が止まっちゃってるんだろうね。もういないってわかってても、いざ目の前に現れたら信じたくもなっちゃうよ」
「一年独りにさせたくらいでこれだもんなぁ。娘としては、今後が心配だよ」
わたしが一年家を空けている間に、わたしをお母さんと見間違えるほど精神的に参ってしまっているって、一体どんな生活をしているのだろう。ストレス耐性が無さ過ぎるのだろうか。
これがもし二年、三年と時間が経っていたらどうなっていたのだろう。さすがに見境なく出会う女性全てをお母さんと見間違う、なんてことにはならないとは思うけれど……。心配だから、しばらくは定期的に帰るようにしよう。
「そうだよ、結婚なんてしちゃったらどうなるの? と今から心配しちゃってるわけね。これまた高度な惚気をごちそうさま」
「違うって、本当に違うってそれは。酷くない? この感動的な流れでそこに戻る?」
「でも実際、今回の彼氏はいいんじゃない? 今の彼氏と付き合い始めてから楽しそうに見えるよ、志絵莉」
むしろ今までの彼氏と居る時のわたしってそんなに酷かったかな。でも百花が言うんだし、間違いない。わたし自身も、
「あとはどれくらい続くかだなぁ。彼の方が、どれだけわたしに耐えてくれるか……」
「志絵莉は素が意地悪だもんね~。隙あらばすぐ彼氏虐めるし。だから逃げられるんだよ。もっと優しくしてあげればいいのに。今回の彼氏、
百花にも“また”なんて言われるほど、わたしって年下と付き合っていたんだっけ。もう前の彼氏のことなんて覚えていなくて、自分の恋愛遍歴が自分でもわからなくなってきている。
時間が経ってみれば、あんなのは恋人関係でも何でもなかったと思うし、自分から告白しておいて耐えられなくなったら逃げ出すなんて人がわたしの彼氏だったと認めたくない。その気持ちが強くなると、たぶんその人のことはどうでも良くなってしまって、記憶からもなくなっていってしまうんだろう。
付き合っていた事実は覚えていても、その相手がどんな顔で、どんな人だったかはあまり思い出せない。
「虐めてないって。意地悪なのは否定しないけど」
「どっちでもいいけど、せっかくいい人に巡り逢えたんだったら大事にしなよ?」
「わかってる。ちゃんと真剣に考えてるよ」
ただ都合のいい関係になるつもりだったのに。何故だかこんな時に限って、わたしは無性に彼を大事にしたくなってしまっている。不思議だ。これが最初から恋人として付き合っていたなら、きっと今までのように彼とも上手くやれなかっただろう。
もしかしたらお母さんも、こんな気持ちだったのかもしれない。脅迫されて仕方なくなった恋人関係。だけれどお母さんは、形だけじゃなくて、律儀にお父さんの恋人として振舞おうと努めたのだろう。そしてきっと、その中でお父さんのことを好きになっていけたのだと思う。
もし普通の恋愛としてお父さんがアプローチしていたなら、恐らくお母さんはお父さんと付き合うことはなかっただろう。少なくともわたしなら、お父さんみたいな人と付き合いたいとは思わない。関わっていく中でお父さんの良い面を見出せたならまた違うのかもしれないが、そんなに話もせず、相手のこともよくわからない段階では、あんな根暗でなよなよした男はまずお断りすると思う。
そういう点では、一紀くんもそうだ。第一印象では冴えない子だと思っていた。少なくとも恋愛対象にはならないだろうと思っていた。それなのに接し、話してみたら意外とおかしな子で、わたしは俄然興味を持った。彼がわたしに話してくれたことも、彼とわたしが仮初の恋人関係という少しばかり近しい関係になったから話してくれたことだ。わたしが彼に興味を抱いたことは、関わってみなければわからなかったことばかり。
今までのわたしは相手を知らな過ぎた。相手に興味がなさ過ぎたのだ。
「そういえば、昨日も環境科学休みだったじゃない? なんか、
「今期一杯は休講ってお知らせ来てたね、そういえば」
百花には
「っていうか、里脇先生自身が行方不明らしいって噂もあって、犯人は里脇先生だったのかもって話も聞くけど、志絵莉は何か聞いた?」
とは言え、さすがに翠泉生。驚くほど勘が良い。少ない情報からある程度 正解に近い仮説を立てることに関して卓越している者が多い。誤魔化す方もうっかりしていると、簡単に見破られてしまう。
「まあね。なんか、前にあった連続殺人事件に手口が似てるとか何とかって聞いたけど」
「あー、私も聞いたそれ。通報と犯行が一致しなかったやつね」
あの事件って手口は公表されていないんじゃなかったか。まあ、翠泉生の親は様々な業界の上層部や有力者だったりすることも多いから、当たり前のようにこうした情報が出回っているのかもしれないな。
「そうそれ。でも今まで被害者の親族が行方不明になるなんてパターンはなかったよね? そうなると、関連の事件とは言えないかな」
「私としてはさ、これまでの事件も実は同一犯で、今回の事件も同じ犯人。今まで捕まった幼馴染たちは、その本当の犯人を庇ってるって説を推したいな」
「それ誰の説?」
それはつまり、その幼馴染たちを犯人として捕まえた警察が無能だったと言っているようなものだ。公的組織を批判するなんて、百花が考えた説とは思えない。
「
あいつか……。考えそうだ。しかし一考の余地はあるように思う。萩くんの調べによれば、幼馴染たちは共謀していないらしいことがわかっている。その前提で、仮説を立ててきた。しかし時にはその前提こそ疑ってみる必要もあると思う。
「なるほどねぇ……わたしもその説乗ったわ。でも
「志絵莉、まだマリちゃんのこと苦手なの?」
「そりゃあ、あんなことがあったんだからねぇ。わたし、謝られてないし」
いい歳して大人げないような気もするが、少なくともあの件は、向こうから謝るべきだ。それをしてこないということは、向こうも関係の修復を望んでいないということだろう。
「えっ、そうだったの? マリちゃんも大概だなぁ、もう子供じゃあるまいし。よっぽど嫌われてるんだね、志絵莉」
なんて、笑いながら言いやがる。本当に、遠慮なく何でも言うな、百花は。誰にでもこうなのではなくて、わたしにはこんな物言いをしても良いと心を開いてくれているのだ。わたし自身もそれで良いと言ってあるから、百花もしばらく前からそのスタンスを変えることはなかった。
「別にいいよ。誰からも好かれたいわけじゃないから」
「そうだよね。今の志絵莉は彼氏ラブなんだもんね」
「ねえぇ~、事あるごとにそれでいじるのやめない?」
そんな馬鹿話をしながら、いくら翠泉生でも里脇教授の事件と“あにまる保育園”を結び付けている子はいないらしいことがわかってほっとした。顔が広くて情報通の百花なら、もしそんな話が出ているなら知っているはずだ。それに、わたしが“あにまる保育園”に実習に行くことも知っているんだから、もし知っていたならその話題に触れてこないのも不自然に思う。
ただ、百花に限らず学校の中は里脇教授の事件の噂で持ち切りになっていた。そこかしこであることないこと邪推したような話が聞こえてくる。こうして本当のことが覆い隠されていくのは都合が良いが、群衆が信じたいそれっぽい説が真実以上に信じられてしまうようになると、いざ真実が判明した際に受け入れ難いがために、警察は真実を隠蔽した、みたいな陰謀論が囁かれるようになるのだろうな。
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